死ぬ前に君と。

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6話 古本屋で選ぶ一冊

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6話 古本屋で選ぶ一冊

 夜の海から数日後、また仕事中にスマホが震いた。

 ──咲良:今日、ちょっとだけ時間ある?

 ──冬馬:少しなら。
     何か用事ですか。

 ──咲良:死ぬ前に君と、古本屋。

 便利な言い回しだと分かっていても、
 そのたびに胸のどこかがざわつく。

 ──冬馬:駅前の、あの狭い店でいいですか。

 ──咲良:そう、それ。
     君も知ってるんだ。

 小さい頃からある古本屋。
 新刊書店ほど明るくもきれいでもないが、棚の隙間に妙な落ち着きがある店だ。

 ──咲良:十九時くらい?
     また今度って言ってもいいけど?

 ──冬馬:大丈夫です。
     今日、上がり早いので。

 ──咲良:了解。
     じゃ、古本屋の入り口で。

 「また今度」という言葉が、
 あまり間を置かず実現していくのは、悪くない感覚だった。

 * * *

 駅から少し外れた路地に、その店はある。

 ガラス戸越しに見える、薄暗い店内。
 背の低い本棚が迷路のように並んでいて、
 どこからどこまでが通路なのか分かりづらい。

 約束の時間より少し早く着くと、
 すでに咲良は店の外の壁にもたれていた。

「お疲れ、冬馬」

「あなたも、お疲れさまです」

「“咲良”でいいんだけど?」

「……癖です」

「その癖、一生で直さなくてもいいから、私の前でだけは頑張って」

「努力はします」

 ガラス戸を開けると、古いベルが鳴った。

 中には他に客が一人いるだけで、
 店主と思しき老人がカウンターの奥で本を読んでいる。

「いいねぇ、この匂い」

 咲良は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「紙と、埃と、インクと、時間の匂いがする」

「アレルギーの人が聞いたら怒りそうな感想ですね」

「私は好き。
 ねぇ冬馬」

「なんですか」

「一冊、選んでよ。
 “今の私に合う本”」

 棚の間に立ち、振り返りながら言う。

「難しい注文ですね」

「大丈夫、君ならできる」

 妙な信頼を向けられている気がした。

「……時間、かかりますよ」

「いいよ。
 私も君に合いそうなの探しとく」

 そう言って、咲良は奥のほうへと消えていった。

 残された僕は、本棚の背表紙を一つずつ眺める。

 恋愛小説、エッセイ、推理小説、古い詩集。
 知らない著者名も多い。

 “今の咲良に合う本”。

 条件が曖昧すぎて、逆に選びづらい。

 死という言葉を軽々しく使うのに、
 今を思い切り楽しもうとしている人間。

 強がりなのに、どこかでちゃんと自分の弱さを知っている人間。

 ページをぱらぱらとめくりながら、
 なんとなく目についた短い物語集を手に取った。

 どの話も、日常の少しだけ端っこが歪んだような短編ばかり。
 笑える話も、少し苦くなる話もある。

 たぶん、こういうものなら。

「決まった?」

 そう声をかけられて顔を上げると、
 咲良が別の棚の隙間からひょこっと顔を出した。

「いくつか候補はありますが」

「私も選んだ」

 彼女の手には、一冊の文庫本。

 表紙には、窓辺に座る人の背中だけが描かれている。

「交換しよ。
 君が私に合うと思った一冊と、私が君に合うと思った一冊」

「合わなかったらどうするんです」

「そのときは、“すみませんでした”って日記に書いとく」

 カウンターに二冊を持っていき、会計を済ませる。

 店を出て、近くの自販機の前で本を交換した。

「はい、冬馬用」

 咲良が渡してきた本は、
 日記形式の小説だった。

 ある男性の一年間の記録。
 淡々と書かれているのに、
 読み進めるうちに少しずつ重みが増していく、そんな話らしい。

「日記は、君と相性いいかなって」

「どういう意味ですか」

「君、自分の気持ちを“その場”で出すの、下手そうだから。
 でも、あとから文字にするなら、きっと上手いんだろうなって」

「買いかぶりすぎです」

「いいの。
 人は少しくらい買いかぶってもらったほうが、ちゃんと立ってられるんだよ」

 咲良は、僕が選んだ短編集をパラパラとめくった。

「へぇ、これ、知ってる作家だ」

「そうなんですか」

「うん。
 “大したことない日常が、ちょっとだけマシに見える話”書く人」

 ページに目を落としながら、咲良は小さく笑う。

「冬馬が私に選ぶ本、だいたい想像してたけど」

「そういう言い方されると、何だか悔しいですね」

「悔しがるところ、ちょっと可愛い」

「可愛くはないです」

「そういうところ」

 自販機で飲み物を買い、歩きながらそれぞれの本を手に持った。

「ちゃんと読む?」

「読みますよ」

「嘘ついたらバレるからね。
 今度会ったとき、ちゃんと内容の話するから」

「プレッシャーをかけないでください」

「かけてるんだよ」

 軽い会話の奥で、
 彼女が本を大事そうに抱えているのが見えた。

 “死ぬ前にやりたいことリスト”とは別のノートのように。

 この本も、きっと、
 彼女のどこかに少しだけ残るのだろう。

 * * *

 その夜、部屋に戻って、
 僕は咲良から渡された本を開いた。

 日記形式の一行目には、
 「何も変わらない一年になるはずだった」と書かれていた。

 ページをめくりながら、ふと考える。

 ──自分が日記を書くとしたら、
 どんな一年間が書けるだろうか。

 たいした出来事のないページが、
 同じような日付とともに積み重なっていくだけかもしれない。

 咲良と会うようになった最近の日々だけが、
 その中で異物のように浮き上がって見えるだろう。

 読み進めるにつれ、
 物語の中の「他人の一年」と、
 自分の時間がどこかで重なっていくような感覚があった。

 ページを閉じたとき、
 スマホの画面が光った。

 ──咲良:読んだ?

 ──冬馬:途中までです。
     なかなか面白いですね。

 ──咲良:ちゃんと最後まで読んで。
     終わり方の感想聞きたいから。

 ──冬馬:そっちも、短編集のほう、読んでくださいね。

 ──咲良:読んでるよ。
     一話目から、ちょっとずつ“困る”話だった。

 ──冬馬:困る、とは。

 ──咲良:死ぬタイミング、ちょっとだけずらしたくなるから。

 画面の文字を見ながら、
 何と返せばいいかしばらく考えた。

 ──冬馬:それなら、
     しばらく困っていてください。

 送ってから、自分で少しだけ驚く。

 こんな言い方をする自分は、
 以前の自分ではなかった気がした。

 * * *

 その頃、別の部屋では、
 咲良のノートに新しいページが足されていた。

 ──8.君と本を交換する。✔

『古本屋で、君が選んでくれた本を受け取った。
 私が思っていたより、“ちゃんとした”物語だった。

 君がどんな気持ちで選んだのかは分からないけれど、
 少なくとも、“どうでもいい一冊”ではなさそうで、少し安心した。

 私が渡した日記の小説、
 君は途中まで読んだって言ってた。

 最後まで読んだとき、君がどんな顔をするのか、
 そのときまで生きていられたらいいなと思ってしまった。

 そうやって“そのときまで”を増やしていくのが、
 きっと、一番危険な生き方なんだろう。

 でも今日はそれでいい。
 これは、私が勝手に決めた延長戦だから。』

 最後に、いつもの一文が小さく書き足される。

『君には絶対、見せないページ。
 本の分だけ、終わりが先に伸びた話。』

 ペン先が止まり、ノートが静かに閉じられた。


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