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 やっと口を開いたモモの声はひどくしゃがれていた。

 エイダンは影の差すモモの顔を覗きこんだ。頬はこけ、目の下の隈も酷く生気が感じられない。もうずっとモモの顔は土気色だった。それでも毎晩、エイダンはモモを抱き潰すことを止められなかった。
 エイダンが執務に追われ部屋を訪れられない間、モモは何もしていないらしい。エイダンが用意した本を読むこともなく、ただベッドに寝そべったり、今のように膝を抱えてぼうっと大きな窓から見える景色を一日中眺めている。
 えくぼが深まる笑みも浮かべず、静かに佇んでいる。
「……この白い食べ物もか、東から取り寄せたんだ。コメ、という奴に似ているだろう」
「食べたくない。腹減って、ない……」
 エイダンに抱き締められながら美しい食器を眺めるモモの瞳は、絶望に膿んでいた。
「そう、か」
 消沈したエイダンをよそに、モモは再び膝を抱えこんで沈黙した。こうなればもう会話どころではない。1年前まではモモと沢山色々なことを話したというのに、今ではもうモモとのまともな会話の仕方さえも思い出せなくなっていた。
「モモ、他にほしいものはないか。なんでもいい、言ってくれ」
「……なんで、も?」
 ぽつりと零したモモに身を乗り出す。一度会話が途絶えた後モモがこうして反応を返してくれることは滅多にない。なんとかモモに意識して貰おうと、モモの背を優しく撫でる。
「そうだ、なんでもだ。モモのためならなんでも用意しよう。美味い料理も、宝石も、どんなものでも揃えてやる」
 きっとエイダンは、モモが一言望みさえすれば他国さえも滅ぼすことが出来るだろう。モモがそんなことを望むような人間ではないことが、この国にとっての救いだった。
「スニー……カー……」
 数秒押し黙ったモモがやっと口を開いたと思ったが、耳に飛び込んできたのは聞きなれない単語だった。
「スニーカとは、なんだ」
 モモの柔らかな髪を撫でながらエイダンは問うた。スニーカとはモモのいた世界にあったものだろうか、エイダンの知らない単語を口にするモモに微かな苛立ちを覚えてしまう。
 だが、似たようなものがこの世界にあえば地の果てでも探し出して揃えてやろうと思うくらいには、エイダンはモモに狂っていた。
「食べ物か、宝石か、服か」
「……違う、靴」
「──靴?」
 モモが一瞬の躊躇の後、小さく頷いた。モモの肩を抱く手に力が籠る。
「靴。サッカー、してえな……」
 ちりりと、神経が焼き切れる音がした。虚ろな目を細め、どこか遠くを見つめながら少しだけ口元をほころばせたモモにエイダンは口をきつく閉ざした。
 サッカーとは、モモが元いた世界でよくしていた運動だ。あの、球を蹴る妙な遊び。
「コーチ、元気に、してっかな……みんなも、もう卒業、したかな……」
 かつて、そんな子どものような遊びよりも乗馬や狩りのほうが100倍楽しいじゃないかとモモを馬鹿にしたエイダンに、モモは後ろから蹴りを入れて来た。
 他の者であれば不敬罪で死刑すらも免れない悪行だが、エイダンはモモのそんな愚行を許していた。
 モモが、あまりにも楽しそうに笑い、エイダンにじゃれつくから。
「必要、ないだろう」
「……え」
「お前の足はもう動かん。サッカーなんぞ出来るわけがない」
 自分でも驚くほどに冷たい声が出た。一気に機嫌が下がったエイダンに、ひくりとモモの喉が上下する。ゆるゆると潤んでいく瞳に哀れさが募るが、モモに対して湧きあがって来た昏い感情は止まらない。エイダンの傍にいるというのに、いつまで経っても元の世界に固執するモモに苛立ちさえ覚えていた。
 コーチとはモモのなんだ。知り合いか。もう二度と戻れないというのに、モモはエイダンの前でエイダンの知らない人間の話をする。それは家族であったり、友人であったり。それ以外の者であったり。
 二人がこんな関係になる前、帰りたいなと、空を見上げながらポツリと呟いていたモモに、エイダンはいつも焦燥感を抱いていた。
「靴などあってどうする。逃げたいのか、俺から」
 モモは今にも泣き出しそうな顔で眉を下げ、ぎゅっとシーツを握った。違う、と首を振る動作に、すっとエイダンの心が冷えていく。
 こんなにもモモが愛おしいのに、ふいに同じくらいモモが憎くてたまらなくなる。何をどう足掻いてもエイダンに同じ想いを返してくれないこの少年の首を、時折酷く締め上げてしまいたくなるのだ。
 モモが誰かに殺されそうになった時は、その前にエイダンがモモを殺す。モモが、モモ自身の命を絶とうとするならば自死など選べぬように心を完膚無きまでに壊すか手足と舌を切り取る。
 モモが死に絶えるその時でさえ、その綺麗な黒い瞳に最後まで映るのはエイダンであるべきだ。そしてその後、エイダンはモモの後を追う。
 エイダンが死ぬ時はもちろんモモを連れて逝く。どんなにモモが泣き叫び、嫌がってもだ。
 今世でも来世でも違う世界であっても、エイダンはモモを手放す気はない。
「──許さないからな、モモ。俺から離れることは」
 モモに靴は履かせていない。歩くことが出来ないモモにそんなものを与える必要はない。
 モモが本当に欲しているものなど聞かずともわかりきっている。自由と解放だ。しかしエイダンにはそれだけは叶えてやることは出来ない。叶えてやる気も、微塵たりともなかった。

 そうでなければ、ここまで非道な手を使ってモモを手に入れた意味がない。


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