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第一章
月光
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最初に会った時から「ツェーリンゲンの魔女です」とあっけらかんとしていて、屋敷にいるときもおくびにも出さなかったルーナの影が、悲しみが、初めて姿を現している。
言わなければ傷付いていないだなんて、そんなわけはなかった。レオンハルトはルーナがひた隠しにしてきた傷を抉り出してしまったのだ。
ルーナはこれまでも自分の出自に、境遇に、数えきれないほど絶望してきたのだろう。それを隠すためにあえておちゃらけて、明るく振舞って……。
知れば知るほど、ルーナは人間だった。十八の少女だったのだ。
「ルーナ、すみません。無神経なことを言いました。すみません……」
「……」
レオンハルトが差し出したハンカチをルーナは受け取って、顔を拭いた。少し落ち着いたようだ。
「すみません……」
「もういいわ。泣いたら少しスッキリしちゃった」
ルーナがふふ、と笑う。ようやく見れた笑顔にレオンハルトもほっとした。
「もし私が本当にあの方を呪えるとしたら、呪ってほしかったの?」
「え? まぁ、少し……」
「あの方失礼だったものね」
あははと笑って、ルーナはハンカチを折りたたむ。
「でもできないの。いくら神託に指名されていようとね。大体神託って変よ。生まれたばかりの赤ん坊が、まだ生まれてもいない自分より年下の、王女様を殺すだなんて思うはずないでしょ。王女様が生まれることさえも知らないのに」
神託とはそういうものでは? と思いつつも、ルーナの立場からしてみれば至極まっとうな意見であると感じた。
「……ありがとうございます」
「? なにがかしら」
「僕を庇おうとしてくれましたね」
「庇うというか……あの方にあまりに品位がないからイライラしただけよ」
レオンハルトはちらとルーナの膝の上に置かれた細くて白い手を見た。
「痛かったのでは?」
「いえ全然」
「これまでにも人を平手打ちした経験がおありで?」
ルーナにじろりと睨まれて、レオンハルトはもう一度小さくなって「すみません」と謝った。
でもレオンハルトは、正直に言うと嬉しかったのだ。ルーナが自分を庇ってくれたことが。自分を守る為に、泣くほど嫌な「魔女」を盾にしてリチャードにしがみついたことが。とても嬉しかったのだった。
「僕が妾腹の子だということを、君は知らなかったでしょう」
「えぇ、知りませんでしたわ」
「伝えておくべきでした。騙したようで申し訳ない」
「別に、出自がすべて呪われている私にとっては些細なものだわ」
なんて説得力がある言葉だ、とレオンハルトは戦慄いた。さきほどまで声を上げてわんわん泣いていた女性には見えない。ツェーリンゲンの魔女はあまりにも逞しかった。
「あなたのお母様のお話を聞いても? もちろん、あなたを生んでくださったお母様のことよ」
「僕の母ですか」
そんなことを言われたのは初めてだ。驚きながらも記憶の糸を手繰り寄せる。少し考えてから、レオンハルトはぽつぽつと話を始めた。
「……僕は五つになるまで、平民として暮らしていたんです」
「あら、そうだったの」
「えぇ」
「幸せでしたか?」
「とても幸せでした。父はいなかったけれど、母がいつも居てくれたので寂しくはなかったし、それを疑問に思うこともなかった。何故か貧しくはありませんでした。きっと父からの援助だったのでしょう」
「お母様はどんな方だったの?」
「明るい人でした。いつも笑っていて。怒ると怖いんですが、母に叱られて僕が泣くと結局僕が好きなお菓子を用意してくれていたり。おてんばで、なんというか少女っぽい人でしたね」
そこまで言ってからふと前を見ると、なぜだか記憶の中の母とルーナが重なった。
そういえば、母もルーナのように大きく口を開けて笑う人だった。明るくて、お喋りで……。
「? どうかしましたか?」
「いえ……。なんでもありません」
バカなことを考えた。我に返ったレオンハルトはふるふると小さくかぶりを振って、よぎった考えを振り払う。
「とてもお母様が好きだったのね」
「……えぇ。そうですね」
思い返してみればそうだ。母のことがとても好きだった。あの頃の幸せだった記憶を思い出すと、胸が綻ぶのと同時に、切なくて苦しくなるくらい。
「優しい顔をしているわ」
「僕が?」
ルーナは頷き、にこりと微笑んだ。振り払ったはずの考えがまた帰ってくる。やはり母に似ている気がした。
「……五つになってすぐの頃、流行り病で母は死に、一人になった僕を迎えに来たのがアイレンブルク家でした。そこでようやく僕は父親の存在を知ることになります」
「そうだったのね」
「アイレンブルク家は次男の僕に男爵位までくれましたし、とても感謝しているんです」
たとえ、リチャードが言うように厄介払いでもするかのように幼い頃から兵学校に入れられたとしても、ここまで育ててくれたことに恩義を感じている。
「そう……。私、お母様を知らないから羨ましいわ。また話を聞かせてね」
また話を聞かせてね。そう言われたことが、とても嬉しく感じる。
今までレオンハルトの実の母親の話をできる人間は、どこにもいなかったから。貴族ではない人間の話を聞きたがる貴族はどこにもいない。アイレンブルク家では、母はいなかったことになっている。
ルーナはレオンハルトの母の話が聞きたいと言った初めての人間だった。そう、人間。ルーナはレオンハルトと同じ、人間なのだった。
この感情を、なんと例えたらいいのだろう。
窓から差し込んだ月光がルーナの白い顔にかかり、金色の目がきらりと光った。
目を逸らせなかった。レオンハルトを見つめるルーナの瞳は、月の色をしていた。
綺麗だった。レオンハルトは今まで空に浮かぶ月を見ても、こんなに美しいと思ったことはなかった。
言わなければ傷付いていないだなんて、そんなわけはなかった。レオンハルトはルーナがひた隠しにしてきた傷を抉り出してしまったのだ。
ルーナはこれまでも自分の出自に、境遇に、数えきれないほど絶望してきたのだろう。それを隠すためにあえておちゃらけて、明るく振舞って……。
知れば知るほど、ルーナは人間だった。十八の少女だったのだ。
「ルーナ、すみません。無神経なことを言いました。すみません……」
「……」
レオンハルトが差し出したハンカチをルーナは受け取って、顔を拭いた。少し落ち着いたようだ。
「すみません……」
「もういいわ。泣いたら少しスッキリしちゃった」
ルーナがふふ、と笑う。ようやく見れた笑顔にレオンハルトもほっとした。
「もし私が本当にあの方を呪えるとしたら、呪ってほしかったの?」
「え? まぁ、少し……」
「あの方失礼だったものね」
あははと笑って、ルーナはハンカチを折りたたむ。
「でもできないの。いくら神託に指名されていようとね。大体神託って変よ。生まれたばかりの赤ん坊が、まだ生まれてもいない自分より年下の、王女様を殺すだなんて思うはずないでしょ。王女様が生まれることさえも知らないのに」
神託とはそういうものでは? と思いつつも、ルーナの立場からしてみれば至極まっとうな意見であると感じた。
「……ありがとうございます」
「? なにがかしら」
「僕を庇おうとしてくれましたね」
「庇うというか……あの方にあまりに品位がないからイライラしただけよ」
レオンハルトはちらとルーナの膝の上に置かれた細くて白い手を見た。
「痛かったのでは?」
「いえ全然」
「これまでにも人を平手打ちした経験がおありで?」
ルーナにじろりと睨まれて、レオンハルトはもう一度小さくなって「すみません」と謝った。
でもレオンハルトは、正直に言うと嬉しかったのだ。ルーナが自分を庇ってくれたことが。自分を守る為に、泣くほど嫌な「魔女」を盾にしてリチャードにしがみついたことが。とても嬉しかったのだった。
「僕が妾腹の子だということを、君は知らなかったでしょう」
「えぇ、知りませんでしたわ」
「伝えておくべきでした。騙したようで申し訳ない」
「別に、出自がすべて呪われている私にとっては些細なものだわ」
なんて説得力がある言葉だ、とレオンハルトは戦慄いた。さきほどまで声を上げてわんわん泣いていた女性には見えない。ツェーリンゲンの魔女はあまりにも逞しかった。
「あなたのお母様のお話を聞いても? もちろん、あなたを生んでくださったお母様のことよ」
「僕の母ですか」
そんなことを言われたのは初めてだ。驚きながらも記憶の糸を手繰り寄せる。少し考えてから、レオンハルトはぽつぽつと話を始めた。
「……僕は五つになるまで、平民として暮らしていたんです」
「あら、そうだったの」
「えぇ」
「幸せでしたか?」
「とても幸せでした。父はいなかったけれど、母がいつも居てくれたので寂しくはなかったし、それを疑問に思うこともなかった。何故か貧しくはありませんでした。きっと父からの援助だったのでしょう」
「お母様はどんな方だったの?」
「明るい人でした。いつも笑っていて。怒ると怖いんですが、母に叱られて僕が泣くと結局僕が好きなお菓子を用意してくれていたり。おてんばで、なんというか少女っぽい人でしたね」
そこまで言ってからふと前を見ると、なぜだか記憶の中の母とルーナが重なった。
そういえば、母もルーナのように大きく口を開けて笑う人だった。明るくて、お喋りで……。
「? どうかしましたか?」
「いえ……。なんでもありません」
バカなことを考えた。我に返ったレオンハルトはふるふると小さくかぶりを振って、よぎった考えを振り払う。
「とてもお母様が好きだったのね」
「……えぇ。そうですね」
思い返してみればそうだ。母のことがとても好きだった。あの頃の幸せだった記憶を思い出すと、胸が綻ぶのと同時に、切なくて苦しくなるくらい。
「優しい顔をしているわ」
「僕が?」
ルーナは頷き、にこりと微笑んだ。振り払ったはずの考えがまた帰ってくる。やはり母に似ている気がした。
「……五つになってすぐの頃、流行り病で母は死に、一人になった僕を迎えに来たのがアイレンブルク家でした。そこでようやく僕は父親の存在を知ることになります」
「そうだったのね」
「アイレンブルク家は次男の僕に男爵位までくれましたし、とても感謝しているんです」
たとえ、リチャードが言うように厄介払いでもするかのように幼い頃から兵学校に入れられたとしても、ここまで育ててくれたことに恩義を感じている。
「そう……。私、お母様を知らないから羨ましいわ。また話を聞かせてね」
また話を聞かせてね。そう言われたことが、とても嬉しく感じる。
今までレオンハルトの実の母親の話をできる人間は、どこにもいなかったから。貴族ではない人間の話を聞きたがる貴族はどこにもいない。アイレンブルク家では、母はいなかったことになっている。
ルーナはレオンハルトの母の話が聞きたいと言った初めての人間だった。そう、人間。ルーナはレオンハルトと同じ、人間なのだった。
この感情を、なんと例えたらいいのだろう。
窓から差し込んだ月光がルーナの白い顔にかかり、金色の目がきらりと光った。
目を逸らせなかった。レオンハルトを見つめるルーナの瞳は、月の色をしていた。
綺麗だった。レオンハルトは今まで空に浮かぶ月を見ても、こんなに美しいと思ったことはなかった。
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