大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

14.真夜中の温もり<後編>

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 しんと、静寂が辺りを包んでいた。
 焔さんは静かな表情のまま、音もなく手元の絵本を閉じて目を伏せる。
 ふいと逃げるように逸らされた瞳に、一瞬切ないものを感じた。

「……」

 少し待ってみても、焔さんは何も言ってくれない。
 じりじりと焦りばかりが募って、とうとう沈黙に耐えきれずに、声を掛けてしまう。

「焔さんは、反対……ですか?」
「……うーん……考えてることは、色々あるのだけど……」

 ややあって、ゆったりと返ってくる言葉は、迷いながら紡がれているようだ。
 焔さんは困ったように少し眉尻を下げて、手元の絵本を見つめている。

「そうだね……先に、どうして梨里さんがそうしたいと思ったのか。理由を聞かせてもらってもいい?」
「沢山、考えたんですが……」

 初めてロイアーと会った時に言われて思ったことや、食堂で図書館の職員に声を掛けられた時に戸惑ったこと。休日に境さんと話したことを説明する間も、焔さんは一切口を挟まず、じっと耳を傾けてくれていた。
 うまく説明なんてできないけれど、こんな要領を得ない話でも真剣に聞いてくれる焔さんの優しさがとても有り難かった。

「――3人と会って話して、私、知りたいって思いました。この世界のこと、この場所のこと、……焔さんのことも。焔さんの秘書というお仕事をもらえた事も、こうして異世界で貴重な体験をさせてもらっていることも、本当に毎日楽しくて、感謝しています。……だからこそ、焔さんの秘書にふさわしい人間になりたいと思いました。そのためにも、知らなければいけないことを、ちゃんと知っておかなければと思ったんです」

 どう説明したらいいのかわからない気持ちを、一生懸命言葉にする。
 伝わって欲しい。複雑すぎて、難しいこの気持ち。

「……僕の秘書にふさわしい人間になるため、か」

 ぽつりと、焔さんが零した呟き。
 再び開いた彼の瞳に、机の上のマナのランプが反射して揺れる。

「梨里さんの気持ちはわかったよ。僕もちゃんと、話をしないといけないね」

 小さな溜息とともに、落ち着いた声が穏やかに続けられる。

「僕が梨里さんに秘書をお願いしようと思ったのには、色々理由があるんだけど……。そのひとつがね、……寂しかったから、なんだ」
「……え?寂しかった……ですか?」
「うん」

 焔さんの長くて綺麗な指先が、絵本をそっと机の上に戻す。

「僕はね、この世界ではずっと、ここに閉じこもりきりだったんだ。代々の副館長や王家とは連絡とってたし、アルトたち使い魔はいたけれどね。時々異世界へ渡って本を探す以外は、この場所で、本を読むだけの毎日を過ごしてた。それで、満足してたんだけど……。ある日、たまたま読んだ本からふと顔をあげて、気づいたんだ」

 静かな声で話されるそれは、私が知らない焔さん自身のお話。
 まるでそのときを思い返すように、俯けていた顔を上げた焔さん。
 その瞳は、私でもわかるほどに、寂しそうな色をしていた。

「ああ――寒いな、って」
「っ」

 彼の姿からその情景が目に浮かぶようで、少しだけ胸が締め付けられる。

「ここは静かで、人の気配がなくて。それが心地良くて、好きだった。――でも、温度がないことに、その時ふと気づいたんだ。世間との関わりを絶ったのは僕自身だ。何も後悔はないけれど……ふと、人恋しくなって。誰かと一緒にいる毎日を、また過ごしたくなった」

 ――寂しかったと、彼が表現したその気持ちがどんなものだったのかなんて、私にはわからない。
 けれど。
 寒いな、と口にした焔さんの横顔に、何か抑えの効かない感情が膨れて――衝動的に、私の身体を動かしていた。

「っと……!」

 驚いた焔さんの声。
 しゃらりと涼やかな音が耳を掠めて、目を丸くした焔さんの顔が視界に迫る。
 いや、近づいたのは私だ。
 私に掛けられていた黒いローブを握りしめて大きく腕を伸ばし、彼を包むようにローブを羽織らせていた。

「こうすれば寒く、ないです……!」
「梨里、さん……」

 部屋が寒いとか、そういう意味じゃなかったことくらいわかってる。
 わかってる、けど。
 どうしても、何かせずにはいられなかった。
 そのまま焔さんと見つめ合う形になってやっと、自分何やっているんだろう、なんて思ってしまうけれど。
 それでも、勝手に身体が動いてしまったのだから、仕方ない。

「え……えっと、その、だから、ですね……!」

 ぐるぐると混乱してきて、そのあとの言葉に詰まる私をしばらく見つめて――ふんわりと、焔さんの表情がいつもの微笑みに変わった。

「……そうだね、もう、寒くないよ」

 ぽんぽんと、宥めるように頭に大きな手が触れる。

「今は、君がいるから。大丈夫。……ありがとう、梨里さん」
「それなら、……いい、です」

 やっと思考が追いついてきた、というか。
 顔がだいぶ近いという事実と、あまりにも子供じみた自分の行動に、急速に頬に熱が集まってくる。
 握りしめたままだったローブをぱっと離して、顔を背ける為に机に向き直る。
 さっきまでは肌寒いくらいだったのに、今は羞恥のせいなのか暑くて仕方なかった。

「まぁ、そう思う事があったしばらく後に、『路地裏』に行ったら閉店するって話だったんだ。閉店からしばらくしてカフェで会った時、梨里さんがまだ新しい仕事決まっていないって聞いて、それを思い出してね。……だから、秘書っていうのは名前だけで、この場所で僕と過ごしてくれる人が欲しかっただけなんだよ」

 熱を引かせたくてぱたぱた顔を仰ぐ私に構わず、焔さんは自分のマグにおかわり分のホットワインを注いで、足を組み直していた。
 ちらりと盗み見ると、先ほどまでの寂しそうな気配はどこにもなく、むしろ機嫌がよさそうにも見える。……本当に、マイペースな人だ。
 それはそうと、今の焔さんの話。
 『この場所で、僕と過ごしてくれる人が欲しかっただけ』。ということは、つまり。

「最初から、私に頼みたい仕事があったとか、秘書が欲しかったというわけではなかった、ってことですか?」
「そうなるね。ただの僕の我が儘だよ。――だからこそ、君にはここで自由に過ごしていて欲しいと思っていたんだ」

 ただの我が儘。一緒にいてくれる人が欲しかっただけ。
 めちゃくちゃにも聞こえる理由だけれど、でも、彼にはその我が儘を通せる力があった、というわけだ。
 ――なんだか、子供みたいな人。

「この世界のこととか、リブラリカの仕事についてとか。ロイアーから指導ってことになったら、どうやっても仕事をすることになってしまうし。僕の我が儘に付き合わせている君が嫌がることはさせたくなかったんだ。だから、あの時も許可したくなかった」

 我が儘なのに、私を思ってくれる優しさが嬉しい。

「焔さん。私、大丈夫です」

 心がほわりと温かくなるような気持ちのまま、私はしっかり頷いてみせた。

「嫌じゃないです。ちゃんと自分の意思で知りたいって思っていますし、頑張ってみたいんです」
「……無理、してない?」
「してません」

 きっぱりと即答すると、うーんとひとしきり唸った後に、焔さんは大きく息を吐き出した。

「……わかった、君がそこまで言うなら、ロイアーに指導してもらうの許すよ」
「!ありがとうございます!」
「ただし、条件がある……いい?」
「はい!」

 もう飲み干してしまったのか。空になったマグを置いて、焔さんがこちらに身体を向けた。
 私も姿勢を正して、真剣な視線を受け止める。

「今まで通り、食事は僕と一緒にとること」
「はい!」
「ロイアーから指導を受けるのは、午前中だけにすること。彼女にも仕事があるからね。午後は、ここでいつも通りに自由に過ごしてくれること。物語書いたり、読書したりする時間はしっかり取って、自主勉強はほどほどにすること」
「はい」
「休日は好きに過ごして構わない、って最初から伝えてるし、そういう勉強をするなら止めはしないけど、絶対に無理はしないこと。嫌になったら、すぐに僕に言うんだよ」
「はい、もちろんです!」

 それぞれにしっかり頷いてみせる。焔さんは諦めたような顔で苦笑しながら、最後にすっとこちらに手を差し出した。
 小指だけが立てられた手に閃くものがあったけれど、合っているのか分からなく首を傾げる。

「指切り」

 やっぱりこれは、指切りをしよう、ということらしい。
 ――本当に、こういうところは子供みたいだ。
 くすりと笑いを漏らして、そっと小指を差し出す。柔らかく絡んだ指を、一度だけぎゅっとして、彼はあっさりと手を引き戻した。

「約束だから、破ったらだめだよ」
「はい、もちろんです」
「……なんで笑ってるの。君の笑顔は、かわいいけど」

 そう言って焔さんは、立ち上がり様に私の頭をぽんと撫でた。

「遅くなってしまったし、明日は来るの、少し遅くても大丈夫だからね。バスケットは、明日来たときに返しにいけばいいから」
「わかりました」
「それじゃあね。おやすみ、梨里さん」
「はい、おやすみなさい」

 肩に羽織っただけのローブを翻して、焔さんはゆったりと本棚の間に消えていく。
 私はしばらくその背を見送っていたけれど、アルトに促されて手早く机の上を片付け、手荷物を抱えて自宅へ帰るために歩き出した。

「……」
「リリー?どうした?」

 歩き出してすぐ立ち止まった私に、足下のアルトが怪訝な声を掛けてくる。

「ううん」

 それに上の空で返事をしながら振り返り見たのは、先ほどまで焔さんと一緒にいた自分の席。
 あの場所だけ温かく見える気がするのは、私の気持ちの問題だろうか。
 今夜は沢山、焔さんと話をすることが出来た。
 こんな時間に会いに来てくれるなんて思ってなかったから、本当に偶然……というか、焔さんの気紛れのおかげ、なのだけど。
 ……こんなに心が軽いのは、いつぶりだったかな。

「ごめん、もう遅いし、帰ろうアルト」
「おう」

 再び扉のある小部屋に向かって歩き出す。
 ひょいっと器用に肩に乗ってきたアルトが、一瞬だけすりっと頬ずりしてきて小声で呟いた。

「ちゃんと話せて、偉かったな」
「……うん、ありがとう」

 心の中で、沢山の人に感謝した。
 真夜中はとっくに過ぎてしまっているけれど、焔さんも明日は出勤遅くていいって言ってくれたことだし、明日は昼前くらいまでぐっすり眠れそうだ。

「……よし」

 小さな声で気合いを入れた。
 明日からまた頑張ろうって、明るい気持ちで前を向けるのが、とても嬉しかった。


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