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第1章 大賢者様の秘書になりました
15.青いウサギにご用心
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あの後、自宅に帰ってすぐベッドに潜りこんだ。
夜更かしに慣れているのもあって、翌日は特に寝坊というほど遅くはない時間に目覚めることができた。
ベッドから抜け出して、うーんと伸びをする。カーテンを開けると、明るい日差しが部屋の中に差し込んできた。
「……良い天気」
少し眩しくて目を細める。窓を開けて覗いてみた外には、まばらに人影が見えた。
道の両脇に立ち並ぶ民家、アパート。
道路脇を歩くどこかのおじさんや、子供の手を引く母親。
エンジン音とともに走りぬけていく自動車。
この世界で当たり前の光景が、今朝はちょっとだけ新鮮に見える。
しばらくぼうっと外を眺めていたけれど、小さな着信音が耳に届いて室内を振り返った。
音の出所は、枕元に置いたままだった携帯電話のようだ。
手に取るとその画面には、メールの着信通知が表示されていた。
ぽちぽちと操作すれば、メールは数少ない大学時代の友人からのもの。
同じ学部で学び、彼女自身の地元にある図書館に就職した美佳からだ。
年に何度か連絡を取り合っている彼女からのメールには、今度関東に遊びにいくからお茶でもしよう、と彼女らしくかわいらしい絵文字が添えて書かれていた。
美佳と会うの、何年ぶりかな。大学を卒業してから……連絡は取ってたけど、会えてなかったんだよね。
楽しみにしている、とメールを返信して携帯電話から視線を上げた。
「さて、今日も頑張ろう」
言葉にすると、気持ちが前を向いてくれる気がする。
ベッドの隅で毛玉になっていたアルトがのっそり起き出してくる頃には、身支度も調え終わっていた。
いつも通り、バッグひとつを持って玄関の扉を開ける。
目の前に広がった異世界へと、大きく一歩踏み出した。
昨夜焔さんに言われた通り、今日は出勤してすぐ、昨夜の夜食が入っていたバスケットを持って食堂へと向かった。
「おはようござ――」
「ああ!!リリー様!!」
カウンターの一番端、いつもモニカのいるところに声を掛けると、こちらを遮るような勢いでモニカががばっと身を乗り出してきた。
足下で飛び退くアルトほどではないけれど、ぎょっと身を引く。
「あ、あの、モニカ……?」
「お待ちしていたんですよ!っと!そのバスケット!ああやっぱり、昨日のあの方は本物の大賢者様だったんですね……!」
「ちょ……ちょっと、モニカ、落ち着いてください」
昼前ということもあって、食堂には人もまばらだけれど。まったくいないわけではないのだ。
モニカがはつらつと大きな声を出しているのもあって、調理場のスタッフからも、また食堂にちらほらいる職員からも視線を感じる。
「あああ……申し訳ありません!ですが私、本当に、夢でも見ているのかと思っていましたから……!」
何とか声量は落としてくれたモニカだったけれど、興奮までは収まらないらしい。目に滲んだ涙をエプロンの端でしきりに拭う彼女に、そっとバスケットを渡す。
「ええと、マスターが何か……?」
「昨夜、仕込みが終わった頃に黒いローブの殿方がいらっしゃいましてね。照明も大分落としていましたし、フードも被っていらしたので、お顔まで見えたわけではないのですが……。あの方が、大賢者様なのでしょう?直接会話ができるなんて、本当に私、信じられなくて……」
「ああ……」
やっぱりそれかあ。
昨日焔さんが直接会いにきたことで、彼女は感極まってしまっているらしい。
「だってあの、大賢者様ですよ?伝説やおとぎ話の中だけの、私どもには雲の上のような方です。先日、こちら側に出てこられたという話も聞いておりましたが、まさか直接、あんなことを言って頂けるなんて思っていなくて、私……」
「イグニスになんか言われたのか?」
先ほど驚いた名残なのか、まだ多少毛を逆立てたままのアルトが会話に参加してくる。
モニカは涙を拭いながら、本当に嬉しそうに笑った。
「『あなたがいつも、美味しい食事を用意してくれていたのか、ありがとう』と。……ああ、なんて嬉しいのでしょう!本当に、夢かと思いました……」
「……泣かないでください、モニカ」
彼女があまりにも幸せそうに泣いているので、持っていたハンカチを差し出した。
ハンカチと一緒に握られた手が熱い。
モニカにとっての大賢者様は、とてつもなく遠い存在だったようだ。
やっぱり焔さんはすごいんだな……、なんて。彼女の様子に改めて身に沁みる思いがする。「ありがとうございます」、と涙混じりに受け取る彼女に、この機会に私も感謝しておきたいな、と思い立った。
「モニカ、あの……本当にいつも、モニカの食事は美味しくて。私からも、ありがとうございます」
「まぁまぁまぁ……リリー様にまでそんな風に言って頂けるなんて。……私も、まだまだ頑張らないといけませんね」
そう言ってモニカが持たせてくれたバスケットは、いつもよりちょっとだけ重い気がした。
物思いに耽りながらぼんやりと戻ってきたので、いつの間にやら私は焔さんの部屋の前に立っていた。
考え事をしながらでも無意識にここまで帰ってこれるようになっていたんだな、と。少しだけ自分に感心した。
コンコン、と控えめにノックした扉からは、今日は返事が返ってこない。
「焔さん、おはようございます。……失礼しますね」
返事が返ってこないときは、大抵寝て居る時だ。
声を掛けてから扉を開けて覗き込む……と、珍しく部屋の中には誰の姿も見えなかった。
「……あれ?」
拍子抜けして、床の本を避けて室内に足を踏み入れる。
いつも食事に使う机にバスケットを置いて、改めて部屋を見回してみた。
一面に本や資料が散らばっている雑多な部屋だが、どこにも彼の姿は見当たらない。
「あー、いないのか」
きょろきょろしたアルトが、溜息交じりに言う。
例え寝て居たとしても焔さんが部屋にいない、なんてことは今までなかったので、どうしていいのか分からない。
弱り切ってアルトを振り返る。
「アルト、焔さんどこいったんだろう?」
「ううむ、この領域内にはいるみたいだが……ちょっと待て」
焔さんの机にぴょんと乗り上がったアルトが、ぴこぴことひげを揺らした。
尻尾がアンテナのようにピンと真上に伸びて、何かを探しているような様子できょろきょろしている。
あまり待つことなく、アルトは彼を見つけたようだった。
「見つけた」
「!」
きらり、とアルトの宝石のような紅い瞳が煌めく。
「おいイグニス!飯の時間だ、戻ってこい」
宙に向けてアルトが声を張る。
……が。
「だめだな」
アルトはふいと尾を振ると、机から降りてとことこ扉に向かった。
「アルト?どこいくの?」
「イグニスの奴、割と奥の方の書棚で寝落ちしてやがる。ちょっと迎えに行ってくる」
「それなら私も――」
「あー、だめだ」
追いかけようとした私を制するように、キラリと紅い視線がこちらを向く。
その強さに、私の足が止まった。
「今イグニスがいる辺りは、大分<奥>の方なんだ。簡単にいえば、次元が歪みまくってる。お前が行くと足を踏み外して裂け目に落ちるかもしれん」
「それって……、前に言ってた迷子のこと?」
ここで働くことになった最初の頃に、言われたことがある。
最奥禁書領域。普段焔さんと私がいるこの場所は、焔さんが次元をいじって広げて作った場所だから、アルトなしで歩き回ると迷子になって。
確か、迷子になると救出が大変だとかなんとか……。
「そう、それだ。ちょっと危ないから、お前は連れて行けない」
「……そっか」
「そんな残念そうな顔するな。すぐ戻るから、この部屋から出るなよ」
「うん」
「絶対だからな」
やけに念入りに釘を刺して、アルトは部屋を出て行った。
……そんなに心配しなくたって、『次元が歪んでる』なんて怖いこと言われて……進んで迷子になんてなりたくない。
手持ち無沙汰で、ソファにぽすんと腰掛けた。
他にやることもなく、焔さんの部屋を見回す。
……私知ってる。こうやってごちゃごちゃに本を積み上げてる人って、意外とどこになにがあるのがわかってる人が多い。
「部屋の掃除とかしたら逆に迷惑だろうし、私が触っちゃいけないものとかもありそうだな……」
料理、冷めちゃわないかな……なんてバスケットを見て、ふと気になるものを見つけた。
取っ手の根元に、小さな宝石が填まっている。ちょうど小指の先くらいの大きさの紅い石。
バスケットに触れてみると、もらったときと同じようにぽかぽかしている。
これも魔法、なのかな。
そこまで考えてから、ふと思う事があった。
――私も使えるのかな、魔法。
制服に結んでいたリボンを引き出すと、その先についてきたのはマナジェム。
あの時焔さんにもらって、そのままになっている青い宝石を見つめた。
魔法の使い方とか何も知らない。
けれどあの時アルトは、この宝石が色づいたなら私にも魔法の適性はあるって言っていたはずだ。
覗き込んだ宝石は、きらきらと綺麗な青い色を湛えている。じっと眺めていると、青い光の粒が小さな波のように、宝石の中でゆらゆらと漂っている様子が見えた。
ちょっとした好奇心、のようなものが湧き上がってくる。
魔法ってどうやって使うんだろう。焔さんは、呪文もなにも言ってなかった気がするけど。
あの時のように、そっと両手でマナジェムを包み込んでみる。
ほんのりと温かいマナジェムの温度を両手で感じていると――。
かたり。
「!」
それまで何の音もなかった空間に突然物音が響く。びくりと椅子の上で飛び上がった。
「な、なに?」
ぱっとマナジェムを服の内ポケットに戻して、周囲を警戒する。
――かたん。
まただ。
物音は、扉の向こうから聞こえてくるようだった。
焔さんたち、帰ってきたのかな。
椅子から立ち上がって、扉に近づく。
かたん、かたんと、扉の向こうからは小さな物音が続いていた。
『この部屋から出るなよ』
アルトの言葉を思い出して、ドアノブに触れようとする手が一瞬止まる。
……出なければ、いいよね?
ちょっとだけ開けて、覗いてみるだけなら。
部屋からでなければいいよね。
「ちょっと様子を見るだけだから……」
かちゃりと、扉が開く音。
少しだけ押し開いた扉から向こう側を覗いてみると、いつも通りの本棚と通路が見える。
――それから。
「え?」
扉の目の前で、見覚えのある白いもふもふしたものが、青いウサギにぴょんぴょん踏まれていた。
白いのはフィイという妖精で――、えっと、青いウサギ?も妖精?
「きゅい?」
「!」
青いウサギは、私と目が合うとこてん、とかわいらしく首を傾げて――。
「きゅいいい!」
「う、わあ!?」
あろうことか、踏みつけていたフィイをこちらに蹴り飛ばした。
顔面めがけて飛んでくるフィイは、驚くほど速い。
「わっちょっ……!」
咄嗟にフィイを受け止めようとして、手を伸ばして。
あっ、と思ったときには、扉から一歩足を踏み出していた。
やばい。
身体はそう簡単に止まってくれない。
ぎゅっとフィイを鷲掴みにするとほぼ同時に、前に踏み出していた私の足は床を――。
踏むことができなかった。
「っ!!」
驚きすぎて心臓が痛いほど跳ねた。
可愛らしい悲鳴なんて出ない。
そこに確かにあるはずの床を踏み外した足は、そのまま沈み込んでいく。
体重を支えることができず、がくんと身体が前に倒れて、落ちていく感覚に全身が総毛立った。
思わずのように胸元にフィイをぎゅっと抱きしめる。
「えっ――梨里さん!?」
ぎゅっと閉じた瞼の向こうで、焦ったような焔さんの声を聞いた。
ぐんっと身体に衝撃があって、落下が止まる。
「……びっくりした……」
頭上で声がして、まだ声も出せないので内心で同意しておく。
私も、すごくびっくりした。
誰かの腕が腰の辺りを支えてくれている。続いて引っ張り上げられる感覚がして、私の足は今度こそ床を踏みしめた。安心して、絨毯の上にへたり込む。
「梨里さん、梨里さん大丈夫?」
「うう……」
支えてくれていた腕が離れて、今度は背中をぽんぽんと撫でられた。
聞き覚えのある声にそっと目を開けると、心配そうな焔さんと視線が絡む。
「焔さん……」
「怪我してない?」
「はい……びっくり、しただけで」
「よかった……」
ほっとした様子で、やっと焔さんの表情が柔らかくなる。
そして、顔を上げると背後にいたらしいアルトを呼んだ。
「アルト」
「へいへい……ちょっといってくる」
それに返事をしたアルトが、走って本棚の合間に消えていく。
まだ座りこんだまま、呆然とそれを見送った私の視界に焔さんの手が伸びてきて、まだ掴んだままだったフィイを取り上げられた。
「あ……」
「ほら、いきな」
焔さんに宙に放られたフィイは、ほよほよとこちらを気にしながらも漂っていく。
「立てる?」
「……はい、立てます」
差し出された焔さんの手を借りて、ようやく立つことができた。足はまだ軽く震えているけれど、ちゃんと立つことはできている。
ふう、と息を吐く焔さんは、困り顔だった。
「危ないところだったね。次元の境目に落ちかけたんだよ」
そうだ。あんなに部屋から出るなって言われていたのに。
勝手に外を覗いて、足を踏み外してしまった。
「ごめんなさい、私……」
「謝らなくていいよ。もうちょっと警戒はして欲しいけどね……ビッツシーが潜り込んでたんだ。仕方ない」
「びっつ?」
「ビッツシー。あの青いウサギみたいなやつだよ。悪戯好きな妖精なんだ。アルトに追い払いに行かせたから大丈夫だとは思うけど……どこから入ったんだろう?」
やはりあれは、妖精だったらしい。
「ごめんね、近いうちに、妖精避けを新しくしておくから。……一度、部屋に戻って落ち着こう。食事持ってきてくれたんだよね?」
「はい……あ、ええと」
「ん?」
焔さんの手に優しく背を押され部屋に戻りながら、これだけは言わなくちゃ、と頭を下げた。
「すみません、助けて頂いて、ありがとうございました」
「気にしないで。君を守るのは、僕の仕事だ」
優しい微笑みと一緒に、あの温かい手に柔らかく背を叩かれた。
やっと落ち着いてきた心の片隅で、ほんのちょっぴり感じたひっかりのようなものに、私は気づくことができなかった。
夜更かしに慣れているのもあって、翌日は特に寝坊というほど遅くはない時間に目覚めることができた。
ベッドから抜け出して、うーんと伸びをする。カーテンを開けると、明るい日差しが部屋の中に差し込んできた。
「……良い天気」
少し眩しくて目を細める。窓を開けて覗いてみた外には、まばらに人影が見えた。
道の両脇に立ち並ぶ民家、アパート。
道路脇を歩くどこかのおじさんや、子供の手を引く母親。
エンジン音とともに走りぬけていく自動車。
この世界で当たり前の光景が、今朝はちょっとだけ新鮮に見える。
しばらくぼうっと外を眺めていたけれど、小さな着信音が耳に届いて室内を振り返った。
音の出所は、枕元に置いたままだった携帯電話のようだ。
手に取るとその画面には、メールの着信通知が表示されていた。
ぽちぽちと操作すれば、メールは数少ない大学時代の友人からのもの。
同じ学部で学び、彼女自身の地元にある図書館に就職した美佳からだ。
年に何度か連絡を取り合っている彼女からのメールには、今度関東に遊びにいくからお茶でもしよう、と彼女らしくかわいらしい絵文字が添えて書かれていた。
美佳と会うの、何年ぶりかな。大学を卒業してから……連絡は取ってたけど、会えてなかったんだよね。
楽しみにしている、とメールを返信して携帯電話から視線を上げた。
「さて、今日も頑張ろう」
言葉にすると、気持ちが前を向いてくれる気がする。
ベッドの隅で毛玉になっていたアルトがのっそり起き出してくる頃には、身支度も調え終わっていた。
いつも通り、バッグひとつを持って玄関の扉を開ける。
目の前に広がった異世界へと、大きく一歩踏み出した。
昨夜焔さんに言われた通り、今日は出勤してすぐ、昨夜の夜食が入っていたバスケットを持って食堂へと向かった。
「おはようござ――」
「ああ!!リリー様!!」
カウンターの一番端、いつもモニカのいるところに声を掛けると、こちらを遮るような勢いでモニカががばっと身を乗り出してきた。
足下で飛び退くアルトほどではないけれど、ぎょっと身を引く。
「あ、あの、モニカ……?」
「お待ちしていたんですよ!っと!そのバスケット!ああやっぱり、昨日のあの方は本物の大賢者様だったんですね……!」
「ちょ……ちょっと、モニカ、落ち着いてください」
昼前ということもあって、食堂には人もまばらだけれど。まったくいないわけではないのだ。
モニカがはつらつと大きな声を出しているのもあって、調理場のスタッフからも、また食堂にちらほらいる職員からも視線を感じる。
「あああ……申し訳ありません!ですが私、本当に、夢でも見ているのかと思っていましたから……!」
何とか声量は落としてくれたモニカだったけれど、興奮までは収まらないらしい。目に滲んだ涙をエプロンの端でしきりに拭う彼女に、そっとバスケットを渡す。
「ええと、マスターが何か……?」
「昨夜、仕込みが終わった頃に黒いローブの殿方がいらっしゃいましてね。照明も大分落としていましたし、フードも被っていらしたので、お顔まで見えたわけではないのですが……。あの方が、大賢者様なのでしょう?直接会話ができるなんて、本当に私、信じられなくて……」
「ああ……」
やっぱりそれかあ。
昨日焔さんが直接会いにきたことで、彼女は感極まってしまっているらしい。
「だってあの、大賢者様ですよ?伝説やおとぎ話の中だけの、私どもには雲の上のような方です。先日、こちら側に出てこられたという話も聞いておりましたが、まさか直接、あんなことを言って頂けるなんて思っていなくて、私……」
「イグニスになんか言われたのか?」
先ほど驚いた名残なのか、まだ多少毛を逆立てたままのアルトが会話に参加してくる。
モニカは涙を拭いながら、本当に嬉しそうに笑った。
「『あなたがいつも、美味しい食事を用意してくれていたのか、ありがとう』と。……ああ、なんて嬉しいのでしょう!本当に、夢かと思いました……」
「……泣かないでください、モニカ」
彼女があまりにも幸せそうに泣いているので、持っていたハンカチを差し出した。
ハンカチと一緒に握られた手が熱い。
モニカにとっての大賢者様は、とてつもなく遠い存在だったようだ。
やっぱり焔さんはすごいんだな……、なんて。彼女の様子に改めて身に沁みる思いがする。「ありがとうございます」、と涙混じりに受け取る彼女に、この機会に私も感謝しておきたいな、と思い立った。
「モニカ、あの……本当にいつも、モニカの食事は美味しくて。私からも、ありがとうございます」
「まぁまぁまぁ……リリー様にまでそんな風に言って頂けるなんて。……私も、まだまだ頑張らないといけませんね」
そう言ってモニカが持たせてくれたバスケットは、いつもよりちょっとだけ重い気がした。
物思いに耽りながらぼんやりと戻ってきたので、いつの間にやら私は焔さんの部屋の前に立っていた。
考え事をしながらでも無意識にここまで帰ってこれるようになっていたんだな、と。少しだけ自分に感心した。
コンコン、と控えめにノックした扉からは、今日は返事が返ってこない。
「焔さん、おはようございます。……失礼しますね」
返事が返ってこないときは、大抵寝て居る時だ。
声を掛けてから扉を開けて覗き込む……と、珍しく部屋の中には誰の姿も見えなかった。
「……あれ?」
拍子抜けして、床の本を避けて室内に足を踏み入れる。
いつも食事に使う机にバスケットを置いて、改めて部屋を見回してみた。
一面に本や資料が散らばっている雑多な部屋だが、どこにも彼の姿は見当たらない。
「あー、いないのか」
きょろきょろしたアルトが、溜息交じりに言う。
例え寝て居たとしても焔さんが部屋にいない、なんてことは今までなかったので、どうしていいのか分からない。
弱り切ってアルトを振り返る。
「アルト、焔さんどこいったんだろう?」
「ううむ、この領域内にはいるみたいだが……ちょっと待て」
焔さんの机にぴょんと乗り上がったアルトが、ぴこぴことひげを揺らした。
尻尾がアンテナのようにピンと真上に伸びて、何かを探しているような様子できょろきょろしている。
あまり待つことなく、アルトは彼を見つけたようだった。
「見つけた」
「!」
きらり、とアルトの宝石のような紅い瞳が煌めく。
「おいイグニス!飯の時間だ、戻ってこい」
宙に向けてアルトが声を張る。
……が。
「だめだな」
アルトはふいと尾を振ると、机から降りてとことこ扉に向かった。
「アルト?どこいくの?」
「イグニスの奴、割と奥の方の書棚で寝落ちしてやがる。ちょっと迎えに行ってくる」
「それなら私も――」
「あー、だめだ」
追いかけようとした私を制するように、キラリと紅い視線がこちらを向く。
その強さに、私の足が止まった。
「今イグニスがいる辺りは、大分<奥>の方なんだ。簡単にいえば、次元が歪みまくってる。お前が行くと足を踏み外して裂け目に落ちるかもしれん」
「それって……、前に言ってた迷子のこと?」
ここで働くことになった最初の頃に、言われたことがある。
最奥禁書領域。普段焔さんと私がいるこの場所は、焔さんが次元をいじって広げて作った場所だから、アルトなしで歩き回ると迷子になって。
確か、迷子になると救出が大変だとかなんとか……。
「そう、それだ。ちょっと危ないから、お前は連れて行けない」
「……そっか」
「そんな残念そうな顔するな。すぐ戻るから、この部屋から出るなよ」
「うん」
「絶対だからな」
やけに念入りに釘を刺して、アルトは部屋を出て行った。
……そんなに心配しなくたって、『次元が歪んでる』なんて怖いこと言われて……進んで迷子になんてなりたくない。
手持ち無沙汰で、ソファにぽすんと腰掛けた。
他にやることもなく、焔さんの部屋を見回す。
……私知ってる。こうやってごちゃごちゃに本を積み上げてる人って、意外とどこになにがあるのがわかってる人が多い。
「部屋の掃除とかしたら逆に迷惑だろうし、私が触っちゃいけないものとかもありそうだな……」
料理、冷めちゃわないかな……なんてバスケットを見て、ふと気になるものを見つけた。
取っ手の根元に、小さな宝石が填まっている。ちょうど小指の先くらいの大きさの紅い石。
バスケットに触れてみると、もらったときと同じようにぽかぽかしている。
これも魔法、なのかな。
そこまで考えてから、ふと思う事があった。
――私も使えるのかな、魔法。
制服に結んでいたリボンを引き出すと、その先についてきたのはマナジェム。
あの時焔さんにもらって、そのままになっている青い宝石を見つめた。
魔法の使い方とか何も知らない。
けれどあの時アルトは、この宝石が色づいたなら私にも魔法の適性はあるって言っていたはずだ。
覗き込んだ宝石は、きらきらと綺麗な青い色を湛えている。じっと眺めていると、青い光の粒が小さな波のように、宝石の中でゆらゆらと漂っている様子が見えた。
ちょっとした好奇心、のようなものが湧き上がってくる。
魔法ってどうやって使うんだろう。焔さんは、呪文もなにも言ってなかった気がするけど。
あの時のように、そっと両手でマナジェムを包み込んでみる。
ほんのりと温かいマナジェムの温度を両手で感じていると――。
かたり。
「!」
それまで何の音もなかった空間に突然物音が響く。びくりと椅子の上で飛び上がった。
「な、なに?」
ぱっとマナジェムを服の内ポケットに戻して、周囲を警戒する。
――かたん。
まただ。
物音は、扉の向こうから聞こえてくるようだった。
焔さんたち、帰ってきたのかな。
椅子から立ち上がって、扉に近づく。
かたん、かたんと、扉の向こうからは小さな物音が続いていた。
『この部屋から出るなよ』
アルトの言葉を思い出して、ドアノブに触れようとする手が一瞬止まる。
……出なければ、いいよね?
ちょっとだけ開けて、覗いてみるだけなら。
部屋からでなければいいよね。
「ちょっと様子を見るだけだから……」
かちゃりと、扉が開く音。
少しだけ押し開いた扉から向こう側を覗いてみると、いつも通りの本棚と通路が見える。
――それから。
「え?」
扉の目の前で、見覚えのある白いもふもふしたものが、青いウサギにぴょんぴょん踏まれていた。
白いのはフィイという妖精で――、えっと、青いウサギ?も妖精?
「きゅい?」
「!」
青いウサギは、私と目が合うとこてん、とかわいらしく首を傾げて――。
「きゅいいい!」
「う、わあ!?」
あろうことか、踏みつけていたフィイをこちらに蹴り飛ばした。
顔面めがけて飛んでくるフィイは、驚くほど速い。
「わっちょっ……!」
咄嗟にフィイを受け止めようとして、手を伸ばして。
あっ、と思ったときには、扉から一歩足を踏み出していた。
やばい。
身体はそう簡単に止まってくれない。
ぎゅっとフィイを鷲掴みにするとほぼ同時に、前に踏み出していた私の足は床を――。
踏むことができなかった。
「っ!!」
驚きすぎて心臓が痛いほど跳ねた。
可愛らしい悲鳴なんて出ない。
そこに確かにあるはずの床を踏み外した足は、そのまま沈み込んでいく。
体重を支えることができず、がくんと身体が前に倒れて、落ちていく感覚に全身が総毛立った。
思わずのように胸元にフィイをぎゅっと抱きしめる。
「えっ――梨里さん!?」
ぎゅっと閉じた瞼の向こうで、焦ったような焔さんの声を聞いた。
ぐんっと身体に衝撃があって、落下が止まる。
「……びっくりした……」
頭上で声がして、まだ声も出せないので内心で同意しておく。
私も、すごくびっくりした。
誰かの腕が腰の辺りを支えてくれている。続いて引っ張り上げられる感覚がして、私の足は今度こそ床を踏みしめた。安心して、絨毯の上にへたり込む。
「梨里さん、梨里さん大丈夫?」
「うう……」
支えてくれていた腕が離れて、今度は背中をぽんぽんと撫でられた。
聞き覚えのある声にそっと目を開けると、心配そうな焔さんと視線が絡む。
「焔さん……」
「怪我してない?」
「はい……びっくり、しただけで」
「よかった……」
ほっとした様子で、やっと焔さんの表情が柔らかくなる。
そして、顔を上げると背後にいたらしいアルトを呼んだ。
「アルト」
「へいへい……ちょっといってくる」
それに返事をしたアルトが、走って本棚の合間に消えていく。
まだ座りこんだまま、呆然とそれを見送った私の視界に焔さんの手が伸びてきて、まだ掴んだままだったフィイを取り上げられた。
「あ……」
「ほら、いきな」
焔さんに宙に放られたフィイは、ほよほよとこちらを気にしながらも漂っていく。
「立てる?」
「……はい、立てます」
差し出された焔さんの手を借りて、ようやく立つことができた。足はまだ軽く震えているけれど、ちゃんと立つことはできている。
ふう、と息を吐く焔さんは、困り顔だった。
「危ないところだったね。次元の境目に落ちかけたんだよ」
そうだ。あんなに部屋から出るなって言われていたのに。
勝手に外を覗いて、足を踏み外してしまった。
「ごめんなさい、私……」
「謝らなくていいよ。もうちょっと警戒はして欲しいけどね……ビッツシーが潜り込んでたんだ。仕方ない」
「びっつ?」
「ビッツシー。あの青いウサギみたいなやつだよ。悪戯好きな妖精なんだ。アルトに追い払いに行かせたから大丈夫だとは思うけど……どこから入ったんだろう?」
やはりあれは、妖精だったらしい。
「ごめんね、近いうちに、妖精避けを新しくしておくから。……一度、部屋に戻って落ち着こう。食事持ってきてくれたんだよね?」
「はい……あ、ええと」
「ん?」
焔さんの手に優しく背を押され部屋に戻りながら、これだけは言わなくちゃ、と頭を下げた。
「すみません、助けて頂いて、ありがとうございました」
「気にしないで。君を守るのは、僕の仕事だ」
優しい微笑みと一緒に、あの温かい手に柔らかく背を叩かれた。
やっと落ち着いてきた心の片隅で、ほんのちょっぴり感じたひっかりのようなものに、私は気づくことができなかった。
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