29 / 171
第1章 大賢者様の秘書になりました
26.淑女は優雅に、強かに
しおりを挟む「…………」
ふと目を覚ました私は、大変に混乱していた。
意識が浮上してすぐ気がついたのは、カリカリという耳に心地の良い筆記音。
そっと寝返りを打つと、しゃらりと涼やかな音がして、自分に掛けられていたらしい重たいローブが少しずれた。
……あれ?ここ、うちのベッドじゃない?
ぼやけていた視界がはっきりしてくると、ぎゅうぎゅう詰めの本棚に、見覚えのある天井が見える。
「……?!」
がばりと身を起こせば、自分に掛けられているのは見覚えのありすぎる黒いローブ。
見回した室内には、机に向かう見慣れた背中があった。
ちょっとだけ待って欲しい。何がどうしてこうなったんだっけ?
確か、焔さんとデートをして、シャザローマを出たあと、帰りの馬車に乗って。
……だめだ。馬車に乗った後の記憶がない。
この状況から察するに、恐らく寝落ちしてしまった私を、焔さんがここまで運んでくれたのだろう。
状況が把握できれば、今度は全力で頭を抱えたくなった。
別に自分と焔さんは恋仲でもない、ただの上司と部下だ。……とはいえ、デートと言われていた外出の帰りにやらかすことではないだろう。
あああ……寝顔とか見られたかな。絶対見られてるよね……変な寝言とか言わなかったかな?いつも1人で寝てるから、よく分からないし……!
なんだかとてつもなく、申し訳ない。結局のところそれに尽きる。
そろそろと顔を上げて焔さんを確認するけれど、何かに集中しているらしく、私が起きたことにはまだ気づいていないようだ。
いやでも、これ、なんて声掛けたらいいの……?
ぐるぐる考えれば考えるほど、よく分からなくなっていく。
手近にあった焔さんのローブに顔を突っ込んでしまいそうになった、その時。
微妙に何かの視線を感じて、そっと長椅子の下のほうへと視線を向けた。
そこでは、呆れたような紅い瞳の黒猫が、大きな溜息をついていた。
「……まぁ、なんとなくわかったから、取り敢えず水でも飲んどけ」
「…………はい、ありがたく、頂きます」
こんな時だけ、アルトの察しの良さが胸に痛い。
実際に喉は渇いているし、いきなり声を上げる気にもなれない。素直にお礼を言うしかなかった。
用意されていた水差しからコップに注いだ水は、少しだけハーブの香りがして、寝起きの身体にすうっと染みこんでいった。
人心地ついたところで確認した時計はもう、深夜を大きく回っている。
失態を犯してしまったとはいえ、目が覚めた以上いつまでもこのままではいられない。
掛けてもらっていた黒いローブと、もう一枚、町中で彼が着ていたフード付きの上着もコートハンガーに掛けて整え、ワンピースの皺や乱れた髪を見苦しくないように整え直した。
ようやく決心をしてそろそろと近づいても、焔さんは集中しているのか、こちらに気づく気配もない。
「……えっと、すみません、焔さん?」
「ん?……え、あ、梨里さん?起きたんだね」
上の空な返事の後、こちらを振り向いた焔さんはやっと気づいたように微笑んでくれた。
手元にはこちらの世界の言葉で書かれた書類。何か、仕事の類いをしていたらしい。
いつものように優しい笑顔にいたたまれなくなって、気がついたら勢いよく頭を下げていた。
「あの、本当にすみませんでした!」
「ん?」
「私、馬車で寝ちゃったんですよね……!その、運んで、もらってしまって……こんな時間まで、ご迷惑を……!本当にすみません!」
「ああ、なんだ。気にしないでいいよ、顔上げて」
「いや、気にします……本当にすみません……」
「いいよいいよ、梨里さんすごく軽かったし」
そんなはずないです、焔さん。
という言葉を、胸の中で呟く。だって人間ひとり分、どんな子供でも重さはある。
イケメンはみんなそう言うんだ……。なんて、拗ねたようなことを考えてしまうのも仕方のないことだと思う。
頭が上げられずにいる私の肩に、そっと焔さんの手が触れた。
促されるままに渋々顔を上げると、何故か機嫌の良さそうな焔さんの顔。
「あ」
「?」
すっと伸ばされた焔さんの綺麗な指が、首を傾げる私の片頬にちょんと触れて、かと思えば、彼はくすりと笑顔になった。
「ここ。布の痕ついちゃってるね」
「……へ」
「クッションかな。よく寝てたもんね。ごめんね、今日は疲れさせちゃって……」
自分でも、かあっと顔面に血が集まるのがわかる気がした。
絶対今、私真っ赤になってる。
そしてどうして、私の寝あとを見てそんなに綺麗な顔で笑うのか。
どきどきするのと恥ずかしいので、心臓がいっぱいいっぱいだ。
「そっ、そういうのっ!笑顔で嬉しそうに言う物じゃ!ないと思うんです!!!!」
「?」
ぐるぐると混乱しすぎたまま全力で叫んだ私は、もう感情が溢れすぎて涙まで出そうになっていた。
「も、もう深夜で、ですし!私、帰りますからっ!」
「え?ああ、うん、そうだね」
「あのっ運んで頂いてありがとうご、ございました!すみませんでした!それじゃ、おやすみなさい!!」
「う、うん、おやすみ……」
最後の方が涙混じりになってしまっているけれど、なんていうかもう限界だ。
勢いのままにもう一度頭を下げて、逃げるように焔さんの部屋を飛び出した。
慌てて肩に飛び乗ってきたアルトが、柔らかな肉球でそっと撫でてくれる優しさに、なんだかもう一度泣きそうになりながらも、その日は一直線に自宅へ帰ったのだった。
嵐のような週末が過ぎ去って、また異世界へ出勤する週の始めがやってきた。
びくびくしながら顔を合わせた焔さんは驚くほどいつも通りで、ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間のこと。
朝食を終え、いつも通り授業を受けにと向かった面会室では、仁王立ちした友人に待ち構えられていた。
「ちょっとリリー!」
「はいい?!」
部屋に入るなり、がしりと両肩を掴まれ捕獲されてしまう。
ぐいっと眼前に迫ったシャーロットの迫力に、思い切り仰け反った。
「リリー!貴女、一体どういうことですの?!」
「え?!な、なに?!」
いつの間に私は彼女から呼び捨てにされているのだろう……って、今はそうじゃなくて!
「惚けても無駄ですわ!二日ほど前に貴女、イグニス様と逢引きなさっていたのでしょう?!」
「え!!」
「グレア様から全て伺いましてよ!貴女のドレスは私が選びたかったのに……いえでも、お相手がイグニス様なのでしたら仕方ありません。そこは。ええ、仕方ありませんとも。それでも!ドレスを選んだだけではないのでしょう?!」
「え、わ、ちょっとシャーロットさ……!」
彼女のほっそりした腕のどこにこんな力があるのか、誰か教えて欲しい。
引きずられるようにソファに座らせられると、それまで気づかなかったけれど、対面に座るシャーロットの隣に、何故か赤毛の美人が優雅に紅茶を傾けているのが見えた。
「え?グレアさん……?」
「ご機嫌ようリリー様」
ぽかんと驚く私に、あの日一緒にドレスを選んでくれた女性がにっこりと笑いかけてきた。
今日はシャーロットのいつもの授業のはず。何故グレアが同席しているのか。
「グレア様のことは後でしてよ。……さあ、あの日のことを全て話してしまいなさい!お早く!」
「リリー様。私も恋のお話は大好物ですの。さ、授業の時間も御座いますから、お早く」
身を乗り出すシャーロットの隣で、グレアまでキラキラとした瞳でこちらを見つめている。
「えっ、その、えぇ……」
いつもの癖というか、助けを求めるように視線をさまよわせるけれど、部屋のどこにも黒猫の姿はない。
結局、私ごときが黙っていられるはずもなく。
話術に長けた淑女ふたりに巧みに誘導され、気がつけばあの日の出来事をほぼ全て白状する羽目になってしまった。
話が終わる頃にはぐったりしている私に、根掘り葉掘り聞き出したふたりは楽しそうに頬を染めてきゃっきゃと盛り上がっていた。
いつの間にか、2人とも私のことをリリーと呼び捨てで呼ぶようになっている。彼女たち曰く、恋の話を共有するような仲なのだから、もうなんの遠慮もいらないでしょう?と。
貴族の令嬢たちは、恋の話ひとつでいきなり距離が縮まるものらしい。
「ですから、貴女もこれからは私のこと、シャーロットとお呼びになってよろしいのよ!」
「勿論わたくしのことも、グレアとお呼びになって。リリーとは、長い付き合いになりそうだもの」
楽しそうに言う彼女たちに、やっとのことで聞きたかったことを聞いた。
「そういえば、今日はどうしてグレアさ……グレアが、ここにいるんですか?」
「それは勿論、貴女の授業のためでしてよ」
ティーカップをソーサーに置いて、にっこり笑顔になるグレアがちょっとだけ怖い。
「リリー。貴女、舞踏会まであとどのくらいか分かっていらっしゃる?」
シャーロットの質問に、少しだけ首を傾げた。そういえば、正確な開催の日付とか、まだ聞いていなかった気がする。
「その様子では、わかってなさそうね。舞踏会は2週間後の週末ですの。今日からは、淑女としてのマナーについて、徹底的に覚えて頂きますわ」
「2週間……」
「ちょっと時間がありませんけれど、そのためにグレア様にお手伝いを頼みましたの。私たち2人がかりで、みっちり授業して差し上げますから、頑張りましょうね!」
「リリー、私も全力でお手伝い致しますから、立派なレディになりましょう」
淑女のマナー講座。
一番無理そうだと思っていた授業が、2人によっていよいよ始まってしまうらしい。
双方からがっしりと握られた手に、私はもう腹をくくるしかないようだ。
「……はい、私頑張ります!よろしくお願いします!」
焔さんと一緒に舞踏会へ出て、大賢者の秘書として恥ずかしくないような自分でありたい。
そうなりたいと決めたのは自分だ。
そうして、頼もしい2人と供に地獄の淑女のマナー講座に励む日々が始まったのだった。
……簡単に言うと、2人の淑女講座はとんでもなく厳しかった。
貴族の令嬢たちが何年も掛けて学ぶことを、たった2週間の付け焼き刃になるのだから仕方ないのかもしれない。
ひとまず夜会での振る舞いさえ間に合えばいいということで、ドレスを着ての立ち居振る舞い。正しいエスコートのされ方、歩き方。そして、ワルツの練習をする日々が始まった。
「筋はよろしいのですから、あとは数時間だけ様になればそれで良いのです」
「そうですわ。元から歩き方は綺麗な方ですし、下ばかり向く癖を直せば……ほら、まっすぐ前を見て!」
「はいっ」
ひたすらに部屋の隅から隅まで、まっすぐ綺麗な姿勢で歩く練習中。
自分はどうやらすぐ下を向いてしまうらしく、何度目かの同じ指示を受けていた。
「リリーは、自分に自信がないのでしょうね。すぐ下を向いてしまって」
休憩に椅子へと座ると、困ったようにシャーロットが溜息を吐いた。
「自分に自信をもって、凜と優雅に、時に強かにあること。リリー、これは淑女の基本ですわ」
先日の試着の時のように、グレアの指にぐっと顔を上向けられる。
「ほら、またそんな不安そうな顔をして。……大丈夫です。自信をお持ちになって。リリーはとても魅力的です」
「グレア……」
そんな風に言ってもらえるのは本当に嬉しいのだけど、それでも、今までの自分を変えるというのは、並大抵のことではない。
グレアだってシャーロットだって、私とは比べものにならないくらいの美人だ。
私がドレスを着ても、どうしても垢抜けない感じしかしないのとは大違いで……。
そんなことばかり考えてしまうのが良くないのかもしれないけれど。
どうしても顔が曇る私にも、グレアは安心させるように笑いかけてくれる。
「私とシャーロット。名門貴族の子女である私たちが、つきっきりでお教えしているのです。ご心配なさらないで。絶対に、全ての人へ誇れるような立派な淑女になれますわ」
「その通りですわ。私とグレア様が教えるのですもの。多くいらっしゃる他の令嬢なんて目じゃないくらいの淑女になれますわ!ね、リリー」
上げられた視界に、シャーロットとグレア。綺麗な姿勢で凜と座る2人の笑顔が映る。
とても綺麗で美人で、同じ女性の私でも見とれるような所作の美しい2人が、こんなに親身になってくれているのだ。
「ありがとうございます、2人とも……」
じんわりと温かい気持ちになれる、2人の存在が頼もしい。
舞踏会のこともあるけれど、普通に、ただひとりの女性として、2人のようになれたらと憧れる気持ちもあった。
用意してもらった紅茶を、注意してそっと優雅に飲む。
さあ、また頑張ろう。
2人と一緒なら、きっと私も頑張れるはずだ。
紅茶を飲み終えたタイミングを見て、静かに立ち上がり2人へ向かって頭を下げた。
教えてもらった角度を意識して、背筋をまっすぐに、優雅に。
「またご指導、よろしくお願いします」
しっかりと上げた視界に、嬉しそうな笑顔が見えた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
35
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる