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第1章 大賢者様の秘書になりました
48.その本は<side:梨里>
しおりを挟むついに、舞踏会が明日の夕方に迫った、5日目の昼下がり。
しゃくりと口の中で音を立てたサラダは、コクのあるドレッシングと絡み合ってとても美味しい。
いつもよりざわざわと慌ただしいリブラリカ社員食堂の片隅で、私はアルトと2人、黙々と昼食をとっていた。
……うん、今日もモニカのオムライスは絶品だ。
口の中で蕩ける濃厚な旨味に幸せ気分を味わう間にも、背後をばたばたと早足で去って行く職員たち。
今日のリブラリカ内は、ちょっとした戦場になっていた。
「ほんっとに大変そうだな」
向かいで紅茶を飲んでいたアルトが、呆れた視線でまたひとり、食堂から飛び出していく職員を目で追いながら呟いた。
「本当だよね。午後は私も手伝えないか、聞いてみようかな」
視線を上げれば、食堂内では必死にランチをかき込んでばたばたと行き交う職員ばかり。
「思わぬところで影響がでちまったなぁ」
「うん……まさかこんなことになるなんて」
この状況の原因が自分たちにあるだなんて、居心地悪いことこの上ない。
そう、この戦場の原因というのが、明日の舞踏会なのだ。
今朝出勤すると、焔さんが書類から目を上げ、ちょっと困った表情を向けてきた。
「あー、梨里さん。今日の授業ね、中止になったんだ」
「え?」
本番は明日というこの状況で、一体なぜ授業が中止になるのだろう。
昨日の別れ際は、シャーロットもまた明日、と言っていたし特に変わった様子はなかったはずだけど。
「実は……僕が明日の舞踏会に出るって情報が漏れて、ちょっと大変なことになってるみたい」
「……はい?」
あの時は思わず聞き返してしまったのだけど、つまりはそういうこと、だったらしい。
舞踏会の前日になって、王宮での舞踏会準備が進む中、どこからか『800年、人前に姿を見せなかったあの伝説の大賢者様が、この舞踏会に参加するらしい』という、割と確からしい情報が貴族に漏れてしまったのだそうだ。
貴族たちは皆半信半疑ながらも、「もしそれが本当ならば是非会ってみたい」、「お近づきになりたい」、「あわよくばうちの娘を……」等と、一斉に明日の準備に力を入れ始めたらしい。
その結果、シャザローマをはじめとする城下の仕立屋や宝石店等には貴族が殺到し、グレアが授業に来られなくなってしまった。
さらに、貴族の職員が多いリブラリカでは、明日の準備のため、と大半の職員が急に休みを取ってしまったため、いつもより半分以上少ない人数で図書館の仕事を回さなければならなくなってしまった。
その対応に追われて、シャーロットとオリバーも授業どころではなくなってしまい……結局、午前中は自習をしていてほしいという伝言が届いていたのだ。
それならば、練習相手は……と、一瞬だけどきっとしたのだけれど。
焔さんは、珍しく「来客があるんだ」と、朝食を終えるとすぐに何処かへ出掛けていってしまったのだ。
そんなこんなで、午前中は最奥禁書領域に籠もってワルツのステップや、貴族たちの情報などについての復習をしていたのだけど。
昼食をとろうと出てきてみれば、職員用の食堂や廊下でさえ、ばたばたと慌ただしい雰囲気だ。
こんな雰囲気ではゆっくり食後の紅茶を楽しむのも無理そうだし……私だってリブラリカの職員なのだから、何か手伝わせてもらおう。
私に出来ることなんて、ちょっとした手伝いくらいのものだけれど……。
そんな気持ちで、昼食後に一般開放書架のカウンターへ向かうと、やはりここでも、カウンターで業務にあたっている職員がいつもより少なく、静かな中でも忙しない雰囲気が漂っていた。
そろそろと近づいていくと、こちらから声をかける前に、何度か話をしたことのある眼鏡の女性司書がこちらに気づいて手を止めてくれた。
「あら、秘書様じゃありませんか」
「お忙しいところお邪魔してすみません。あの、私も何かお手伝いができたらと思ったんですけど……」
「えっ!」
その瞬間、眼鏡の奥で、彼女の瞳がきらりと輝いた。
「よろしいんですかっ!!」
がしっとものすごい勢いで掴まれた手に、軽く仰け反りながらも何度か頷けば、女性は泣き出しそうな勢いで頭を下げてきた。
「ありがとうございます!ありがとうございます……!本当に今日は人が足りなくなってしまって……!」
「えっと……なんだか、申し訳ありません」
「ああ!いいえ、秘書様や大賢者様のことを悪く思ってる職員はいませんよ!急に休むような人達が……って、いけませんね、彼らにも立場があったりしますから」
こういう時はどうしても悪く言いそうになるものだけれど、女性は困ったように眉尻を下げただけで、頭を振った。
「本当に助かります、秘書様。ええと……今、フロアの仕事が溜まってしまっているようなので、書架の整理に回って頂いてもよろしいですか?」
「わかりました、行ってきます」
「お願いします、分からないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」
カウンターを離れる私に、女性だけでなく他の職員たちも優しく会釈をしてくれた。
改めてフロア全体を眺めてみると、確かにいつもよりもフロアを歩いている職員の人数がとても少ない。
一般利用者の人数は……いつも通り、くらいだろうか。
「よし」
小さく気合いを入れて、書架に戻す予定になっている本を一抱え持って歩き出す。
今日のお天気は、少しだけ雲が多いけれど晴れ。
昼下がりの一般書架には、燦々と日光が降り注いでいる。
静かでゆったりした空間の中、ほんの少しもたついたり、アルトに道案内してもらったりしながら、丁寧に本を書架へと戻していく。
魔術を使える一部の職員は、魔術で本の山を浮かせて運ぶのだけれど、私は魔術を使えない。
魔術が使えない他の職員と同じように、一抱えずつ持ってきては書架に戻して整理をし、カウンターへ戻るというのを繰り返す。
リブラリカの規則として、本を取り扱っている間は、必ず慎重に、丁寧に、というものがある。
多少時間が掛かっても構わないから、手に取った本は大切に、優しく扱う。
丁寧に状態を確認して、埃を払い、汚れていたら布で拭いて、綺麗に棚へと戻す。
本に対して敬意をもって接しなさい、というこの規則を、私はとても好ましく思っていた。
そういうところが、この図書館を、今まで働いてきたどんな図書館よりも好きになれる理由なのだと思う。
また一抱え整理し終えて、綺麗になった本棚を見て思わず笑みが零れる。
そんな時だった。
くいっと、スカートが引かれる感覚があって振り返ると――。
「あの……」
綺麗な身なりをした、小さな女の子がすぐ傍でこちらを見上げていた。
「あ……えっと、どうしたの?」
いつだったか、シャーロットがしていたようにしゃがみこんで女の子と目線を合わせる。
「お姉さんは、ししょさんですか?」
「うん、そうだよ。何か困ったことあったかな?」
優しく聞き返す私の横で、アルトも興味あり気に女の子を見つめている。
彼女はほっとした表情になると、私の目を見てまっすぐに言った。
「あのね、ごほんをさがしてるの」
「そっか。探してる本の名前わかる?」
「んと……わかんない。あめのほんなの。だいけんじゃさまの、おきにいりのやつ」
「……大賢者様のお気に入り?」
焔さんのお気に入りの、雨の本……?
まったくわからずに、首を傾げてしまった。
考えてみれば、焔さんの好きな本やジャンルなど、あまり知らないことに気づく。
秘書として……これでいいのだろうか。
「あのね、お母さんがね、すきなごほんなの。でもね、いつものところにないの」
「え、あ……」
「こっち!」
戸惑う私の手を引いて、女の子が書架の奥の方へと歩いて行く。
先ほどの場所からそこまで遠くない、一番奥まった角のところまでくると、女の子は書棚の前で背伸びしながら「ここ!」と手を伸ばした。
「いつもは、ここにあるの。でもないの」
女の子が手を伸ばした先、壁一面の棚の中程くらいのところに、確かにぽっかりと空間が空いていた。
「ええと……あれ?」
聞いてみようかと足下のアルトを探してみるけれど……どうしてか、先ほどまで一緒にいたはずの黒猫の姿が見えない。
こんな時に、一体どこに行ったのか。
困りながらも視線を戻せば、その書棚にはプレートが掛かっていた。
オルフィードの言葉だけれど、何とか私にもわかる単語で書いてある。
「ええと……、大賢者……の、書架……?」
聞いたことのない書架だ。
館内の本の大まかな配置については、シャーロットから聞いていたはずだったのだけど……まだまだ勉強不足だったということだろうか。
「……あれ?秘書様?」
「あ」
どうしよう、カウンターに戻ろうかと考えていたその時。
運良く、近くを通りかかった男性職員がこちらに気づいて、声を掛けてくれた。
「どうしました?何かお困りですか?」
「お忙しいのにすみません、実は――」
不安そうに女の子が見上げてくる中、男性の職員にその書棚の『雨の本』を探している、と伝える。
すると職員は、すぐに「ああ、あれですね」と頷いた。
「その作者の本、今調整中で一時的に禁書庫に移動してるんですよ。貸し出しはできますので、今から取ってきます。カウンターでその子とお待ち頂けますか?」
「ありがとうございます!助かりました……」
「いえいえ、ではすぐ戻りますから」
男性職員と別れてから、女の子を連れてカウンターへと戻ってくる。
大きな階段を降りてホールに到着する頃には、その男性職員は既に本を用意して待ってくれていた。
「お待たせ致しました、お嬢さん。……はい、これで合ってるかな?」
男性職員がカウンターごしに、一冊の薄いハードカバー本を差し出してくる。
綺麗な生成色に染められた皮表紙に、金の箔押しで短いタイトルが印字されている、シンプルな本だ。
本を受け取った女の子は、ぱあっと表情を明るくして本を抱きしめた。
「これ!お兄ちゃんありがとう!」
「どういたしまして」
男性職員にぺこりと頭を下げた女の子は、くるっとこちらを振り返ると私にもぺこんと頭を下げた。
「お姉ちゃんも、ありがとう!」
「ふふ、どういたしまして」
つられて笑顔で応えると、女の子は嬉しそうに何処かへ歩いていってしまった。
残された私も、振り向いて男性職員へと頭を下げる。
「本当にありがとうございました。お手伝いに来ているのに、すみません」
「いえいえ。大賢者様の書架の本はとても人気があるんですが、なにぶん異世界の本ばかりなので、新人の職員でも把握するのは時間がかかるんですよ」
「異世界の本?」
「ええ、あそこは、大賢者様が気に入っている異世界の書物を、書記官がオルフィードの言葉に翻訳した本が分類されているんです。あの子がさっき借りていった本――『雨の音』なんかは、貴族でも気に入ってる方が多いんですよ」
「へえ……私も読んでみたいです」
『雨の音』というタイトルは、ありふれたものだけれど……偶然にも、私が書いた本と同じ名前だ。
それを焔さんが気に入っている、なんて、本好きとしては是非とも読んでみたくなる。
「僕も好きなんですよ、あの本。禁書庫にまだ1冊あったはずですし、よかったら一緒に取りに行きますか?」
「借りても大丈夫ですか?」
「もちろんです。じゃあちょっと行きましょうか」
男性について禁書庫へと向かうと、ちょっと薄暗いしんとした大きな部屋の中には、沢山の書棚がぎっしりとそびえ立っていた。
少しだけほこり臭いような、最奥禁書領域と似たような空気が漂う中、男性は入り口からすぐ近くにあった棚を指す。
「そこです。全13冊、巻ごとに複数冊あるものもありますが、揃ってるはずです。借りたいものをカウンターまでお持ち頂ければ手続きしますので」
「わかりました、ありがとうございます」
「いえいえ。その作者の本好きなので、秘書様も気に入って頂けたら僕も嬉しいです。では、僕は戻りますね」
ぱたん、と小さな音を立てて男性が出て行くと、禁書庫にはしんとした静寂が降り注いだ。
慣れ親しんだ、本たちの眠る空気感。
それを心地良く感じながら、教えられた棚へと手を伸ばした。
「ええと……『雨の音』は、これかな?」
一冊だけある生成りで薄い背表紙の本を取り出すと、さっき女の子が持って行ったものと同じ、金の箔押しのタイトルが見える。
焔さんのお気に入りだという本――。
ページを捲る前から、どんなお話なのかと心が躍る。
今日帰宅してからでも……ああだめか、明日は朝早くから舞踏会の準備があるから、今夜は早く寝ないと。
そうすると、読むのは持ち帰って、明後日かな……。
「……うん、楽しみ」
ひとり呟いて、結局私は、その一冊だけを借りることにした。
そんな嬉しい一瞬があったとはいえ、今日は人手不足のリブラリカだ。
結局帰るまで焔さんに会うことはなかったのだけど、いつもより大分遅い時間まで図書館のお手伝いをして、その日は自宅へと帰ったのだった。
応援ありがとうございます!
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