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第1章 大賢者様の秘書になりました
47.もやもやどんより<後編>
しおりを挟む手元の書類をまた一枚、確認し終えて机に置く。
さらさらとサインをして、紅茶に手を伸ばした。
今日は生憎の曇り空だけれど、静かな部屋にワルツが流れる中、梨里が頑張って授業を受けているのを見守りつつ仕事をこなすというのは、中々悪くない環境に思えた。
うん、紅茶は素敵な花の香りがしていて、すうっとする風味はハーブだろうか。
シャーロットたち女性陣に合わせて淹れられたものだろうけど、とても美味しい。
ふと視線を上げれば、シャーロットに借りたというデイドレスをふわりと翻しながら、真剣な表情でくるりとターンする梨里の姿が見えた。
彼女は、この1ヶ月で立ち居振る舞いがとても繊細になった気がする。
シャーロットとグレアという、貴族社会でもトップの淑女が教師をしているというのもあるけれど、梨里は元々仕草が丁寧な方だったし、努力家だから相当頑張ったのだろう。
オリバーを相手に踊っている姿も、初々しさはあれど中々様になっている。
「…………」
はて、なのにどうしてだろう。
なぜなのか、なんとなく不愉快な感覚がずっと消えないでいるのだ。
ふう、と小さく息を吐いたのに気づいたのか、向かいの長椅子で寛いでいたグレアがこちらを向いた。
「休憩ですか、大賢者様」
「うん、まぁそんなとこ」
「左様ですか」
ブリックス家からシャザローマ家へと嫁いだグレア・シャザローマ。
自分の生家より格上の家に嫁いだ彼女は、一時期社交界の華として有名になったほどの美人令嬢だ。
艶やかな赤毛や美しい目元が魅力的で、シャザローマの次期当主が猛アタックして結婚を承諾されたと、その時分には大層な噂になっていた。
しゃんとした姿勢で紅茶を飲んで、グレアは上品に微笑む。
「まさか、我が愚弟が大賢者様と交友があるとは思いませんでしたわ。驚きました」
「僕の秘書が大分世話になってるみたいだったから、この前一緒に出掛けてね。中々気軽に話せるから」
「まぁ、お出掛けを。……ああ、先日宝石選びをしにいったと、シャーロット様が話されていましたわね。仲のよろしいようで、羨ましいですわ」
噂の美人は、口元を隠して笑む姿もとても様になっている。
ふと彼女は真剣な表情になると、離れた場所でワルツを踊る2人を見つめて静かな声で尋ねてきた。
「ところで……私の勘違いでなければ、大賢者様は、リリー様の練習相手を務めにきたのではありませんか?」
「ん?ああ、確かにそのつもりだったんだけどね。まさかオリバーに頼んでいるとは知らなかったから」
同じように踊る2人のほうへと視線を移して、そう応える。
本当に、知らなかったから。
今日からはオリバーに練習相手を頼んでいるって、それを知っていたら……もしかしたら授業についてくることまでは、しなかったかもしれない。
……いや、ついてはきていたかな。
オリバーが練習相手をしてくれるにしても、またあの猪王子が乱入してくるともわからないから、それならとこの場にまでは来る気になっていかもしれない。
「確かに愚弟がリリー様のお相手を務めることになっていたようですが……。大賢者様がその気なら、愚弟は通常の仕事に戻してもよろしかったですのに」
「うーん、別に相手がオリバーならいいかなーって」
「あら」
まぁ確かに、暇というわけでもないがオリバーほど忙しいわけでもない自分が練習相手を務めて、彼にはいつもの仕事に行って貰う、というのも悪くはない話だと思う。
リブラリカの業務のことを考えれば、オリバーは優秀な書記員だし、そのほうが良かった気もする。
でも別に、自分がどうしても練習相手をしたかったわけじゃない。
そもそも自分が授業についてきたのは、王子が梨里の練習相手をするのが嫌で監視したかったからであって、練習相手がオリバーなら別になんとも思わない。
……自分自身、あまり、進んで踊りたくはない理由もあるし。
紅茶をまた一口、ほわりといい香りに包まれる。
それが引き金だったのか。
『――お兄様ったら!』
また、遠い色褪せた記憶の声が、ふと脳裏を掠めた。
『またそうやって適当にお相手なさるのね!もう……先生!お願い、私の練習相手になってくださいな!』
『えぇ……俺はそれほど得意では……』
『何をおっしゃるの?先生とのワルツは夢のようだと、令嬢の間では大人気ですのよ!ね、先生、お願い――』
ふるり、ふるり。
2度ほど頭を振って、セピア色の記憶を遠ざける。
それはもう、出てこなくていいものだ。
――もう、思い出したくない記憶だ。
「大賢者様?どこか具合でも……」
心配そうなグレアの声に、意識が現在へと引き戻される。
すぐにいつもの微笑を顔へ貼り付け、なんでもない風を装った。
「ああいや、大丈夫だよ」
今まではずっと引きこもって本ばかり相手にしていたけれど、梨里を秘書に迎えてから色々とアクティブになってきたからか……少し、昔の記憶を思い出すことが多くなってきた気がしていた。
そのうちまた、自己暗示をかけ直さないといけないな。
そんなことを考えながら、さて、と気を取り直して新しい書類を手に取る。
瞬間、耳を掠めた音を思考が拾い上げてしまった。
――あ、そうか。
このせいだったのか。
ふと気がついたのは、今梨里たちが練習に使っている曲。
それはオルフィード国でも伝統のあるワルツの曲で――昔、あの子が大好きだった曲のはずだ。
忘れようとした傍から、記憶の蓋というのは……1度開いてしまうとどうして、こうもつきまとってくるものなのだろうか。
まったく、記憶力がいいというのも、便利な反面かなりやっかいだ。
ぱんぱん、と手を叩く音が部屋に響いて、グレアが音楽を流していた魔道具を停止させた。
音のほうを振り返れば、シャーロットが2人相手に何かを話している。
どうやら、梨里たちは一度休憩に入るらしい。
グレアが人数分の新しいお茶と茶菓子を用意し始める中、デイドレスをふわりと揺らしてこちらに歩いてくる梨里と目があった。
ぱっと視線が絡んだその刹那、あれほどしつこかった過去は跡形もなく自分の中から消え去って、小さな温かさだけが胸に灯る。
「ほむ……、マスター。お仕事の調子はいかがですか?」
「うん、すごく順調だよ。リリーこそ練習お疲れ様」
「ありがとうございます」
はにかむ彼女の表情を見られることが、素直に嬉しい。
軽く手を振り、魔術で机の上の書類を片付ける。
当たり前のように隣に腰を掛ける梨里と、ゆっくりお茶を楽しむ時間だ。
胸のちょっとした不快感は未だ消える気配はないけれど、こうして彼女と過ごす時間が、今は何より重要だと感じていた。
ちゃぷんちゃぷんと、お湯の音が静かに響いて、温かい湯気にほうっと身体の強ばりが溶けていく。
「ふあー……」
また一日を終えて、ゆっくりと自宅のお風呂に浸かる至福の時間だ。
ワルツの実践練習を始めて、4日目の夜。
初日にあったかなりの筋肉痛は、いつの間にかだいぶ和らいでいるようだった。
これも練習の成果、かなぁ。
昨日の朝、とんでもないことを言い出して授業についてきた焔さんは、結局今日もまた授業についてきて、かといって私と踊るでもなく、のんびりと自分の仕事をこなしているようだった。
オリバーを相手役にしての練習も2回目、昨日よりももっと自然に踊れるようになってきて、ダンスの合間に冗談を言い合ったり、笑い合ったりすることさえ出来る用になっていた。
ぴちゃん。
ほありと湯気に包まれながら物思いに浸る中、どこかから水滴の落ちる音が聞こえる。
そっと目を閉じれば、瞼の向こうに思い出したのは昨日シャーロットに言われた一言だった。
『どうしてそんな感覚になるのか、ちゃんと考えてみてはいかがです?』
「……どうして、か」
微かに呟いた自分の声が、浴室に反響して少し大きく聞こえた。
昨日の夜は、疲れてすぐに寝てしまったし、今少しだけ考えてみようかな。
どうしてあの時、もやもやしてたんだろう?
――それがわからないから今、悩んでいて。
もやもやしたのって、いつだったっけ?
――それは……ワルツの練習が始まる前……?
その時に、何があったの?
――……練習が始まるってときに、そうだ。焔さんと話をして……。
どんな話を、したんだっけ。
そう、確か、オリバーが練習相手をすることになっていたのを知らなかったって。
じゃあ僕はのんびり仕事でもしてるねって。
あの時の焔さんは、そう言ったんだ。
「……私、それを聞いてもやもや、したの?」
もしかしたらただの思い違いかもしれないけれど。
もし、もしもそれが私のもやもやの原因だったとしたなら。
「ええと……」
つまり。
焔さん、さっきまでは私と踊るつもりだったはずなのに、急にさらりと仕事モードに入ってしまった。
私はそれにもやもやしたってことに、なる……?
あれ?
「ってことは、私……もしかして」
踊ることを、期待していたのだろうか――焔さんと?
無意識に両手で顔を覆っていた。
お湯のせいではない理由で、顔が赤くなっているような気がしたから。
――なに、それ。
もし本当にそんな理由なんだとしたら……なんだか、すっごい恥ずかしい。
よくわかんないけど、恥ずかしい。
ここが浴槽じゃなかったら、床かベッドでのたうち回りたいくらいには恥ずかしい気持ちになるのは、なぜ。
「どういうことなの……」
覆った両手の下で、もごもごと呻き声を上げる。
本当になんだか、最近は自分の気持ちが忙しい。
焔さんのことを考えると……ちょっとこう、胸の奥がくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちで。
でも、いつも通りの彼の優しい微笑みをみれば、なんだか安心するというかほっとするというか。
なんなんだろう、この気持ち。
こんな気持ち、私は――。
「おーい」
「!」
突然脱衣所の方から聞こえてきた声に、飛び上がってばしゃんと大きな水音が立つ。
び、びっくりした……っ!
見れば、半透明なドアの向こうに黒猫のシルエットが見える。
「おい、大丈夫か?」
「あっうん!うんなんでもない!」
「そうか。なんか、お前の携帯電話鳴ってたけど」
「えっ。わかった、すぐ出るから」
「おう、あっち行ってるわ」
ぺたぺたと小さな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、深い溜息を吐いた。
携帯が鳴ってたってことは、美佳かな。
きっと週末の話のはずだし……早く行かなきゃ。
ざばりと湯から上がって、手早く着替えを済ませる。
その頃にはすっかり、掴み掛けていた何かの感覚は消え失せてしまっていた。
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