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第1章 大賢者様の秘書になりました
46.もやもやどんより<前編>
しおりを挟む「無理です……」
「無理じゃないよ」
「いや、ほんと無理です」
「どうして?」
朝食を終えて焔さんの部屋を出てからずっと、こんなやりとりが続いている。
「……どうしても、です」
「じゃあ無理じゃないよ」
「いや無理ですってば」
「えー」
いつもはしんと静かな最奥禁書領域の書棚。
その通路を早足に歩く私と、足の長さからか余裕の足取りで後ろをついてくる焔さんのせいで、今日は静謐さが感じられない空間になっていた。
「……梨里さん、僕のこと、嫌い?」
「なっ……そんなことはないです!絶対!」
頑張って振り返らないようにしていたのに、突然寂しそうな声でなんてことを言うのか、この大賢者様は。
思い切り振り返って勢いのまま主張すれば、にこにこと嬉しそうな焔さんの笑顔。
「ふふ、そっか」
「~っ!」
しまった、乗せられてしまった。
……って、それどころじゃなくて。
「っ焔さんのことは、嫌いじゃないですけど!無理なんです、本当に。わかってください!それにほら、ちょっと遅刻しそうなんですから変なこと言わないでください!」
「変なことなんて言ってないけど……遅刻はよくないよね、うん」
「そう!遅刻はよくないんです!」
もう自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきているけど、とにかく本当に遅刻しそうなのだ。
また面談室へと通じる扉へ早足で歩きだせば、やっぱり後ろをるんるんと焔さんがついてくる。
焔さんは私の上司だし、色々と恩人のようなものだ。
彼がしたいと思うことになら、大抵のことなら喜んで協力する心持ちでいる私だけれど。
今回の、ダンスの練習相手というのだけは……本当に、無理だ。
いや、嫌いとか、踊りたくないとかではなくて。
むしろダンスとか……憧れるような気持ちがないでもない、けど。
けれどそれ以上に、実際焔さんとあんな距離になった途端、一歩も動けなくなる未来が見えるのだ。
昨日王子に練習相手をしてもらった時も、最初は距離の近さにどきどきした。
あの距離を、焔さんと――なんて、想像しただけで恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。
焔さんは相変わらず、私の練習相手をする気満々といった様子でついてきているけれど……まぁ、たぶん、面談室についてしまえば、なんとかなるはず。
だって今日は――。
考え事をしながら、整然と立ち並ぶ扉のうちの一つを軽くノックして、ガチャリとくぐり抜けた。
「おはようございます!」
勢いで、いつもより少し力の入った声が出る。
「あら、リリー。おはようございます、今日はちょっと遅かったですわね」
「おはようございます、リリー」
面談室には、いつも通り待っていてくれたシャーロットとグレア。
そして。
「おう!おはよー」
「おはよ、オリバー」
長椅子で寛ぎ、紅茶をすすりながらひらりと軽く片手をあげてくれたオリバーがいた。
そう。
昨日の昼食とお茶の時間、両方を使ってワルツの練習について話し合った結果、私の立場について多少の事情は知っているオリバーが、ワルツの実践練習の相手役を買って出てくれたのだ。
「もう、オリバー。もっときちんと挨拶なさい」
「いいだろ別に。リリーとは友達なんだし」
すかさず姉のグレアからお小言を貰うオリバーだけれど、そこは慣れたものなのか、適当に流してテーブルの上のスコーンに囓りついていた。
「おや、今日はオリバーもいるんだね」
ひょこ、と私の後ろから焔さんが顔を出すと、2人が驚いて目を丸くした。
「えっ、イグニス様……!」
「あれ、イグニスもいたのか」
シャーロットとオリバーの反応に、彼が誰なのか悟ったグレアが驚いて固まってしまう。
「みんなおはよう」
穏やかに挨拶しながらオリバーの隣に腰を下ろした焔さんは、いつのまにやら黒いローブをきちんと纏っていた。
そういえば焔さんは、先日のお出かけ以来、オリバーと急に親しくなったように感じる。
同性同士だと、打ち解けるのも早いのだろうか。
オリバーがあまりにも親しげにしているのでグレアが焦ったり、オリバーとスコーンを囓ってご機嫌な焔さんだったり。
テーブルでは3人で会話が盛り上がっているようだ。
「……シャーロット」
私はそれを横目に、今のうち、と、そっと彼女へと声を掛ける。
シャーロットは小さく息を吐いて席を立つと、私のほうへと歩み寄ってきてくれた。
「なんとなく、こうなるような気はしていましたわ」
肩を竦め苦笑しながら、シャーロットは私の手を取って優しく握ってくれる。
「取り敢えず、今のうちに着替えてしまいましょう」
「……うん」
部屋の隅に置かれた衝立の裏に入ると、今日も可愛らしいシャーロットのドレスへと着替えを始める。
コルセットの背中の紐を結びながら、シャーロットが小さな声で問いかけてきた。
「イグニス様が何のためにいらしたのかは、わかっているつもりですわ。……リリー、今日はどうしますの?」
「私……、昨日話した通り、オリバーに練習相手お願いしたい」
同じく小さな声で、素直な気持ちを伝えた。
さすがシャーロット。
どうして焔さんがついてきたのかも簡単に察してくれるのだから有り難い。
「貴女ならそう言うと思っていました。……でも、本当によろしいんですの?イグニス様と踊るチャンスですのに」
「チャンスっていうか、なんというか……。多分無理。焔さん相手じゃ私、絶対上手く踊れない……」
「……うーん、難しいですわね」
きゅ、とコルセットを整えられて、その上にドレスを着ていく。
衝立の裏は、ちょっと影になっていて薄暗い。
向こう側からは楽しげな3人の――焔さんの声が、聞こえてきている。
――なんだろう、この気持ち。
「それでは、リリー。質問を変えますわ。貴女自身は、イグニス様と踊りたいという気持ちはありませんの?」
「……私、は……」
ドレスの衣擦れの音が響く、この薄暗い衝立裏で。
俯けば、スカートに美しく刺繍された白い小さな花々が目に入る。
――焔さんと、踊りたい気持ち。
綺麗なドレスを着せてもらって、背の高い、あの焔さんとワルツを踊る。
私が?
「……」
踊ってみたい、気持ちがないわけじゃない。
でも、私みたいな普通の人間が、そこに立ってもいいのだろうかと、思ってしまう。
それこそシャーロットやグレアのような美人なご令嬢が似合うんじゃないか、とか。
我ながら、ちょっと卑屈かなとも思えるようなことを考えてしまう。
「……でも、あの……動けなくなっちゃったら、練習どころじゃなくなっちゃうし」
しばらくの沈黙の後、ぼそぼそと呟くように返事をすると、シャーロットはスカートの皺を伸ばし終えてから私の肩をぽんと叩いた。
「……まぁ、貴女の気持ちは、わかるような気がしますわ。貴女は無自覚な分、やっかいそうですけれど」
「無自覚?」
「そうですわ。全然わかってないんですから、もう」
何が?という問いは、いいからいいから、と流されてしまう。
仕上げに首元に、シャーロットとお揃いで購入したブローチを留めて、着替え完了だ。
「仕方ありませんわね」
衝立を出る前に、シャーロットがそう呟いたのが聞こえた。
しかしそれに振り返る暇もなく、シャーロットに手を引かれて明るい衝立の向こう側へと歩き出してしまう。
「……あ、おかえりー」
談笑する3人へと近づくと、いち早くこちらに気づいたオリバーがひらひらと手を振ってくれた。
「わ、ドレス似合ってるね、リリー」
「ありがとうございます」
焔さんもこちらを見て、さらりとそんなことを言ってくれる。
多少照れつつもお礼を言うと、うんうんと頷いてくれた。
「そうそう。待ってる間にオリバーから聞いたよ。今日はオリバーに練習相手してもらう予定だったんだって?」
「あ……そう、なんです。昨日話したら、手伝うって言ってくれたので……」
「そうだったんだね。じゃあ僕は、ここでのんびり仕事でもしてようかな」
「……え?」
「ん?」
予想外のことに、つい素っ頓狂な声が出てしまった。
焔さんなら、さあ練習を始めよう、とか言うと思ってたんだけど……って。
いやいや、これでよかったんだ。え?じゃなくて。
「あっいえ!なんでもないんです、すみません。えっと……」
慌ててばたばたと手を振る私の肩を、ぽん、とシャーロットが叩いた。
「では、今日の授業を始めましょう。グレア様、オリバー、準備をお願い致しますわ」
シャーロットの言葉に、グレアは席に座ったまま魔道具の準備を始め、オリバーは飲みかけの紅茶を飲み干してうんと伸びをした。
焔さんはといえば、ゆったり寛ぐ気満々といった様子で、優雅に足を組みどこからともなく取り出した書類の山を前に仕事を始めてしまっている。
……なんだろう、もやもやする。
彼はもうすっかり仕事モードで、こちらを見向きもしない。
そんな焔さんの様子に、少しだけ、心の中に靄がかかるような、あんまり気持ちのいいとはいえない感覚を覚えて首を傾げた。
「ほら、リリー」
「あ、うん」
ぼうっとその場に立ったままになってしまっていた私は、シャーロットの声に我に返って、ぱたぱたと部屋の開けた位置へと移動する。
焔さんのいる長椅子からは十分離れたところで、シャーロットはちょっとだけ眉尻を下げると囁いた。
「そんなお顔しませんの。……イグニス様が変に食い下がったりすることもなくて、よかったじゃありませんか」
そんな顔、って……そんなに、今の自分は変な顔になっているのだろうか。
「うん……まぁ、そうなんだけど。なんだろう、もやもやするの」
「あら……。ふふ、では、どうしてそんな感覚になるのか、後ほどゆっくりで構いませんから、ちゃんと考えてみてはいかがです?」
「どうして、か……」
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
ふと視線を向けた窓の外は、どんよりとした曇り空だった。
なんだか、今の気持ちそのもののような天気だ。
「リリー、どした、ぼーっとして」
「……オリバー」
準備体操のようなものなのか、肩や腕を伸ばしたりしながら歩み寄ってきたオリバーが、いつの間にか近くで首を傾げていた。
「ううん、なんでもないの。ごめん、練習のお手伝い頼んだの私なのに」
「別にいいってこれくらい。俺もいっつも机に向かう仕事ばっかりで、ここ数年舞踏会なんて出席すらしてなかったからな。いい練習になるよ」
「そう言ってもらえると、気が楽かも」
「おー。……それより、なんかタイミング悪くてごめんな」
「え?」
ワントーン下がった小声に、顔を上げた。
ワルツの基本姿勢を取ると、オリバーと私の距離はぐっと近くなる。
こんなに近くで手を取り合っても、目が合っても、相手がオリバーだと緊張したりどぎまぎしたりすることはないようだ。
「お前、イグニスと踊りたかったのかなと思って」
「……うーん」
なぜだろう、即座に返す言葉が見つからない。
返答に困っているうちに、部屋にはワルツの音楽が流れ始める。
踊るのは久々だというオリバーだったけれど、さすがは貴族というところか。
滑らかにステップを踏んで、王子とはまた違う、優しく引き寄せられるようなリードでワルツが始まる。
王子と踊ったときのように、勝手に身体が踊らされている、というような感覚はなくて、誘われて一緒に踊るような優しいワルツはとても彼らしいなと思う。
「――そんなこと、ないよ」
ステップを踏みながら、結局小さな声でそう返答する。
なんだかしっくりこない気持ちのまま、それでもワルツの授業は続いたのだった。
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