大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

45.僕だって

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 今日はお気に入りの世界のひとつへと出掛ける予定だったから、梨里へは帰りが遅くなる、と朝食の時に伝えていた。
 最奥禁書領域へ帰ってきたのは、夜も更けた頃。
 自室の床にどさりと購入してきた本を山積みして、やっと一息ついた。
 ふと見れば、アルトが持ってきてくれたのだろう、夕食用のバスケットがテーブルの端に置かれている。
 中には、具沢山のスープと焼きたてのパン、ホットワインが詰まっていて、バスケットに嵌められた魔道具のお陰でほかほかと湯気を上げていた。
 良い香りに食欲をそそられて、料理をテーブルに並べながら長椅子へと腰を下ろす。

「……いただきます」

 誰が聞いている訳でもないけれど、きちんと手を合わせてから温かな食事に手をつけた。
 とろみのあるスープをひと匙口に運べば、身体の芯がじわりと温かくなる。
 その感覚にほっとしながら、空いているほうの手を、同じくテーブルの上に置かれていた紺色の書類入れへと伸ばした。
 厚手のビロード生地が貼られた紺色の書類入れを開くと、中には十数枚の書類が挟まっている。
 その中から一枚だけ取り出して、書類入れは適当にソファへと放りだした。
 もぐもぐと食事を続けながら、ぴっと軽く振って立たせる書類。
 それは、今日の分の梨里の授業の報告書だ。
 ……確か今日は、ワルツの実践練習の2日目だったな……。
 さて順調だっただろうか、と書類の文字を目で追い始めて、すぐ。

「……っごふっ」

 思わず、スープに入っていた野菜でむせ返ってしまった。

「けほっ……はっ?……」

 口元を拭いつつ、見間違えならいいと願いながら再び書類に目を向ける。

「な、な……」

 書類には確かに、授業中にライオット王子が訪問してきたこと、そして王子の意向もあり、梨里のワルツの練習相手をした、と書いてある。

「………………」

 自分でも、自分の気持ちがよく分かっていなかった。
 何故こんなに動揺しているのか。……いや、それは取り敢えず置いておいて。
 あんの猪突猛進王子、寄りにも寄って自分がいない時に……!
 梨里とワルツだなんて。
 ……僕だってまだ踊ったことないのに。
 何となく拗ねてしまうような気持ちもあるけれど。
 ……けれどやっぱり、あの王子が絡むと、梨里が関係なくても何となく反発心が生まれてくるのはきっと、あの王子がどうしても……遠き昔の記憶の中、供に笑い合った無二の友に似すぎているのが原因なのだと思うのだ。
 王子とザフィアは違う。きちんとわかってる。
 わかってはいるけれど……外見が似すぎているのもあって、こう……何かにおいて先を越される、というのがもの凄く悔しい気持ちになる。
 って、それもそうなんだけど、ええと……。
 ああだこうだと思考が混乱する中、なんとか最後まで報告書には目を通した。
 あの王子は元々ワルツが上手いらしく、練習相手をしてもらったことで梨里にはとても有意義な授業になった、ということらしい。
 梨里にとって良い授業になったというなら、ここは喜ぶところなのだろうけれど。
 どうしてだろう、素直に喜べない。

「……っはぁー……」

 ちょっと落ち着こう。
 盛大な溜息を吐いて、一旦書類を置く。
 せっかくの食事が冷めてしまわないうちに、とまたスプーンを握るけれど……食べながらも頭の中はぐるぐるしている。
 ちょっといらいらするような、落ち着かないような……なんとも言えないもやもやした気持ちで、目の前の料理を黙々と口へと運んでいく。
 食べ終わった後も、なんとなくすっきりしない気持ちが続いて。
 意味もなく何度も報告書を拾い上げては読み返す、ということを、大分遅い時間まで繰り返していた。





「……あれ、寝てる」

 ライオット王子が授業に乱入してきた日の翌朝。
 朝食を持って焔さんの部屋を訪れると、焔さんはソファに転がったまま寝落ちしているようだった。
 最近は起きてることのほうが多かったのに、珍しい。
 ふと見れば、扉を入ってすぐのところに見覚えのない本の山が出来ている。
 多分昨日仕入れてきたものなのだろけど……結構な冊数だし、もしかしたら疲れ切ってしまっているのかもしれない。

「焔さん、朝ですよー」

 テーブルの上に出たままになっていたバスケットを回収して、朝食用のバスケットから食事を並べる。
 手を動かしながら様子を窺うけれど、余程深く寝入っているのか、焔さんは目を覚まさなかった。

「疲れてるのかな……焔さん?聞こえます?」

 そっと近づいてみると、すうすうと微かな寝息が聞こえてきた。
 うん、と寝言と判別がつかないような小さな声がして、焔さんがこちらに顔を向けた。
 すっと通った鼻筋、白くてきめ細かい肌。
 伏せられたままのまつげは思いのほか長くて、頬にくっきりと影を落としていた。
 うわ……。
 その整った美しさに、どきりと胸が高鳴る。
 頬や額に落ちかかる黒髪から、うっすら開いた唇まで視線がいって……どきどきとうるさい胸元を押さえつけるように握りしめた。
 焔さんの寝顔だ……。
 女の私から見ても綺麗な、羨ましいほど整った顔立ち。
 いつもの柔らかな優しい微笑みとは違って、無防備な寝顔に柔らかさはあまり見えず、すうっと透き通るような綺麗さからは、大人の男性なんだということを強く感じさせていた。
 気がつけばぼうっと見惚れてしまっている自分がいる。
 はっと我に返ったけれど、まだ心臓のどきどきは収まらない。
 朝食だから起こさないといけないのだけど……ど、どうしよう。
 声を掛けても起きないなら、身体を揺するとか……?
 た、確かに起こさなきゃいけないんだけど……寝顔を見ているってだけで悪いことしてるような気分なのに、この状態の焔さんに私から触れるの……?
 そ、と少しだけ伸ばした自分の指先は、小さく震えている。
 おかしいな、ただ起こすだけなのに。
 私がそうして躊躇っている間に、相棒の黒猫はというと、長椅子の足下のほうでだらりと下がった焔さんの手に握られていた書類の文面を読んでいたようだ。
 突然アルトが大きな溜息を吐いて、その音に驚いた私はびくっと飛び上がった。

「わっ……な、なに、アルト」
「いーや、何でもない。……もういい、起こすぞ」
「へっ?! え、ちょ、ちょっとまっ……」

 どすっと。
 私が慌てて止める間もなく、アルトは華麗に宙高く飛び上がると、綺麗に一回転して――主人のみぞおちに、重い音を立てて蹴りを入れた。

「ぐっ……!」

 あっ、入った。
 焔さんは痛そうな呻き声を上げると、がばっと勢いよく上半身を起こした。

「わっ」

 その動きに驚いた私が飛び退くと、反射的にだろうか。
 すごい早さで伸びてきた焔さんの手に腕を掴まれた。
 至近距離で合った焔さんの黒い瞳の奥に、一瞬、燃えるような紅い炎がちらついた気がした。

「……もう、一体なに……あれ、梨里?」
「あっあのっ!すみません、おはようございます……!」

 いつもよりちょっぴり低くて、珍しく不機嫌さが表にでているかのような焔さんの声に、自分の声が不自然にひっくり返りそうになった。

「……あ、梨里さん、か。ごめん、びっくりしたね」

 2,3度瞬きをしたと思えば、瞳の中に見えた炎は、初めから何もなかったようにすっと消えてしまった。
 目が覚めたのだろう、掴まれた腕はあっさりと開放されて、うーんと伸びをする焔さんはどこからどう見てもいつもの焔さんだった。

「ごめん、痛くなかった?」
「いえ……すみません、私こそ、その……」
「いや、寝てたら起こしてもらえれば僕は大丈夫。……どうせさっきのはアルトでしょ?」
「そうだ。寝こけやがって起きないお前が悪いんだぞ」
「アルト……」

 寝ている人のみぞおちに攻撃をするのは、やっぱりちょっと……自分だったら絶対されたくないのだけど。
 当の攻撃を行った本猫ほんにんは、器用に腰に手を当てどやっと胸を張っている。

「いや、アルト、お前ね……寝てる主人に攻撃する使い魔がどこにいるのさ」

 焔さんは呆れ気味に頭を掻いて、まだ眠そうにしながらもやれやれと笑顔を向けてくれた。

「まあいいや。……取り敢えず、おはよう梨里さん。朝食にしよう」
「はい。おはようございます、焔さん」

 焔さんはすっかりいつもの様子で、気がつけば私の心臓も、もう暴れてはいなかった。
 今日の朝食は、味の濃いめなソースと一緒にごろごろの野菜がたっぷり詰まったパンと、何かの卵のふわふわスープに、フルーツの盛り合わせだ。
 カリッと焼き上げられたパンを一口囓れば、中にはぎゅうぎゅうに野菜が詰まっている。
 濃厚なソースは酸味が利いていて後味がさっぱり。
 野菜も歯ごたえが楽しくて、朝からしっかり食べた気持ちになれる大きなパンは満足感がすごい。
 幸せ気分で咀嚼しながら最近の、謎のタイミングでの動悸についてぼんやりと考え事をしていたから、向かいの長椅子で黒猫と大賢者が小さく小突き合っていることにも全く気づいていなかった。




 向かいでは、何処か遠くを見つめるような、ぼんやりした様子の梨里が朝食のパンをもしゃもしゃしてる。
 考え事をしているのなら、余計に話しかけづらいな……。
 少しだけそわそわしながら、自分の分のパンに囓りついた。
 うん、モニカの料理は今日も絶品だ……って、そうじゃなくて。
 さて……どう話を切り出したものか、と。
 考えている内に、いつの間にか隣にきていたアルトが肉球でてしてしと脇腹を叩いてきた。

「……報告書、読んだんだろ」

 テーブル向かいの梨里には聞こえないくらいの小声でそんなことを囁いてくる使い魔に、少しいらっとして軽くデコピンを食らわせる。

「……読んだよ。お前、なんで止めなかったんだ」

「知るかよ。授業中は別にくっついてなくてもいいって言ったの、お前じゃねーか」

 てしてし。

「主人をお前呼びするな」
「あでっ。……ったく、どーせ今日ついてくつもりなんだろ?さっさと言ったらどうだ」

 少し強めにデコピンされた額を器用に前足で押さえて、アルトは恨みがましいような、呆れたようなじと目を向けてくる。

「……言われなくたって、わかってる」

 わかってる。わかってるんだ。
 それを使い魔のこいつに指摘されるのが、なんとも悔しいけれど。

「……」

 ちらり、と彼女の様子を窺えば、どうやらちょうどパンを食べきったところらしかった。
 丁寧に指先を拭っている今が、話しかけるチャンスな気がする。

「あ……梨里さん。そういえば、なんだけど」
「……あ、はい」

 やっぱり返事に少しだけ間があったし、ぼうっとしていたようだ。
 不思議そうな彼女の目と目が合って、ぐっとお腹の辺りに力を込めた。

「昨日、授業にあの王子が乱入してきたんだって?」
「ああ、はい。そうなんです。突然だったので驚いたのですが……ダンスの練習相手をして頂いてしまって。王子様なわけですし、申し訳ない気持ちはあったんですが、大分感覚も掴めたので、ありがたかったし、楽しかったです」
「そっか、楽しかった、か……」

 む、ちょっと……なんか面白くない。
 そんな気持ちになるのは、彼女が少し困ったような表情をしつつも、まんざらでもないような微笑みでいるからだろうか。

「あのさ、ワルツの練習、相手がいた方が都合いいんでしょ?」
「え?ああ……そう、ですね。昨日もそれで、シャーロットと話しましたし……実は今日、」
「今日、僕も一緒にいくよ。授業」
「……え?」
「僕も一緒にいく。ワルツくらい、僕だって練習相手になれるから」
「え……え? え、と……。え?!」

 目を丸くしながらきょとんとしていた梨里は、少ししてぱっと顔を真っ赤に染めた。

「……え?焔さんが?……え、えっと、練習相手ってこと、は……え……!」

 真っ赤になった梨里は、両手で頬を抑えながら大混乱しているようだったけれど。
 その様子を見たら、なんとなくもやもやしていた心がすっきりしたような、そんな感覚があって。
 我知らず機嫌良く口角が上がるのを、隣にいた黒猫が溜息交じりに見ていたことには気づかなかった。




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