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第1章 大賢者様の秘書になりました
60.深紅のワルツを
しおりを挟む「……ほむ、ら、さん……?」
この状況に困惑しきってしまった私の唇から、微かな音が漏れる。
どのくらいの間、その状態でいたのだろう。
一瞬のような、何十分も経っていたような。
凍り付いたように動かなくなった私を置いて、先に動いたのは焔さんの方だった。
「…………」
すっと静かに、闇が離れていく。
圧迫感のような、空気の重さのようなものが引いていくのを肌で感じて、身体の緊張が緩んだ。
しかし、ほっと息を吐く暇もなく、身を引きながらもこちらに伸ばされた焔さんの手に、きゅっと手を握られた。
「っ!」
先ほどの感覚を引きずっているせいか、その場でびくりと飛び上がる。
そんな私の手を逃がさないとばかりに、焔さんの手にぎゅっと力が籠もった。
彼はひらりとローブを翻し、バルコニーの手すりから重さを感じさせず着地する。
そのままゆっくりと顔を上げると、再び戻ってきた明るい月光に照らされ、焔さんの悪戯っぽい笑顔がはっきりと見えた。
手を引かれ、ぐっと身体を抱き寄せられる。
その距離と、ふわりと香った焔さんの香水の匂いに、収まらない心臓がまた跳ね上がった。
「ねぇ梨里さん。せっかくの舞踏会だし――僕とも、踊ろう?」
ふわりと笑顔でそう告げて、焔さんは握った私の指先に――本日2度目。
軽く口づけをした。
――ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、胸の辺りに走る。
ぐっとこみ上げてくるような、息苦しくなるような、それでいて不快では決してない、この感覚は。
「ね?いいでしょ?……自慢じゃないけど僕だって、あいつなんかよりずっとワルツ上手なんだから」
張り合うようなその言い方が何となく可愛く思えて、小さく吹き出す。
私も釣られて、笑顔になっていた。
「ふふ……そんなに上手なんですか?」
「うん、すっごく」
いつの間にか、さっきまでの緊張感は何処かに消え去ってしまっている。
今はただ、くすぐったいような温かいような。
色々な感覚が混ざって、でもぐちゃぐちゃなんかじゃなくて。
とても――温かくて、優しい気持ちが溢れてくる。
「ふふ、それじゃ――踊りましょうか」
「そうこなくちゃ」
ぱっと嬉しそうな表情になった焔さんが、私の手を引いて足早に歩き出す。
フードを被り直して、明るく煌びやかなホールへと戻ると、ちょうど前の曲が終わったところのようで、ダンスをしていた人達が違いに礼を交わし、拍手が満ちていた。
焔さんは、ずんずんとホールの真ん中の辺りまで迷いなく歩いて行く。
彼が足を止めたのは、ダンスに参加していたらしい国王陛下の前だった。
「……おお、大賢者殿。秘書殿もご一緒で、ダンスですか?」
先にこちらに気づいた陛下が声を掛けてくれたので、私は慌てて礼を取った。
「うん、せっかくだし、1曲くらいは踊っておこうと思って」
「この場を楽しんで頂けるのは、わしとしても喜ばしいことだ。ちょうど良い。何か曲のリクエストはありますかな?」
「ありがとう、じゃあオルフィード伝統の、あのワルツを頼めるかな?」
「なるほど、承知しました」
陛下が頷いて、ホールの演奏家たちに身振りで何か指示を出した。
すぐに流れはじめたのは、練習の時にも何度か踊った、ゆったりしたワルツの曲だ。
「さあリリー」
「――はい」
ふわりと優しく手を引かれて、そのまま流れるように焔さんとのワルツが始まった。
ライオット王子やオリバーとはまた違う、流れるような焔さんのリードはとても踊りやすい。
殿下のリードは完璧で、身を任せていればこちらまで完璧に踊らせてもらえるような、そんな感覚のものだった。
けれど焔さんのリードは、殿下のリードの上手さとはまた違って――柔らかく流れるような、そっと次の動き方へ導かれるような、優しい感覚がする。
くるり、ふわりとドレスが揺れる度に、心がきゅっとしていた。
そういえば……先ほどライオット殿下と踊った時のような緊張は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
ただミスをしないようにと、始終緊張しっぱなしだったのに、今はただ、楽しいという気持ちのままに踊れている。
「梨里さん、上手だね」
くすっと、至近距離で焔さんが囁いた。
「沢山練習しましたから」
自然と笑みが浮かんで、焔さんへとそんな風に返事をした。
「うん、頑張ってたもんね」
練習といえば、あの時は……焔さんと踊るなんて絶対無理だ、私が動けなくなるから踊れない……なんて、思っていたはずなのに。
気がつけば、こうして焔さんとワルツを踊っている。
無理だと思っていたこの距離も、ただただ今は、楽しいばかりで気にならない。
「ふふ……本当に、ワルツなんて久しぶりだ。楽しいな」
焔さんが目を細めて、私をくるりと回す。
「私も――楽しいです」
ふわっと、深紅の花びらのようにドレスの裾が広がるのさえ、胸が高鳴る。
ワルツでこんなにも楽しい気持ちになれたのは、初めてだ。
「じゃあ――もっと、楽しくしようか」
「――え?」
再び焔さんの正面に戻ってきた時、彼の口元がにっと笑みの形になった。
ステップが突然変わって、焔さんにリードされるまま、3回ほどくるくる回る。
その途中。
ふと、ステップを踏む足音が、カツンと高めに、不自然に響いた。
突然、わっと周囲から歓声が上がる。
「えっ……?!」
その歓声の正体は、すぐに私の視界にも映り込んできた。
「っこれ……!」
ステップに合わせてドレスが揺れる度、花びらのような薄い生地から、本当に深紅の花びらが溢れていた。
紅く輝くマナの粒子が、ホールの照明にキラキラと光を放つ。
焔さんの色のマナの輝きを纏って、沢山の深紅の花びらが周囲に舞っていた。
何、と聞くまでもない。
これは、間違いなく焔さんの魔術だ。
ステップを踏む足は止めないまま、焔さんが大きく私を回した。
「それっ」
ぶわっと、一際大きく花びらが舞い散って、再びホールに歓声と拍手が響く。
そして、歓声と共に、別の種類のわっという声も聞こえた。
「――っ焔さんっ!フードが……!」
私を大袈裟に回した反動だろうか。
ターンを終えて元の位置に戻ると、焔さんのフードが外れてしまっていた。
さすがに慌てる私に、それでも彼は楽しそうに――とても楽しそうに、笑顔で首を振った。
「いいや――こんなに綺麗なのに、視界が遮られるのは、もったいないから」
「確かに綺麗ですけど……っ、いいやって、そんな簡単に――」
今までずっと、人目のあるところでは顔を隠していたのに。
「本当に、いいんですか?」
「うん。……今、すっごく楽しいから」
またひらり、とターンに合わせて、花びらが舞う。
「梨里さん、そんな顔しないで。――ね?今、楽しいでしょう?」
私の気も知らないで、焔さんは本当に楽しくて仕方ないとでも言うような、今まで見た中で一番の笑顔で首を傾げていた。
私の世界とは違う、煌めくダンスホール。
舞踏会という会場の真ん中で、深紅の花びらと深紅の光が舞う中心で。
元の生活では考えられないほど素敵なドレスを着て、焔さんとワルツを踊っている。
――こんなの。
こんなの、楽しくないわけがない。
「楽しい、です……。楽しすぎます……!」
こみ上げる正直な気持ちのままに、思い切りの笑顔でそう返事をすれば。
「僕も」
焔さんも、満足そうに目を細めて、頷いてくれた。
――刹那、舞踏会前にシャーロットの妹、マーガレットから聞いた、『焔の大賢者様』という呼び名が脳裏に浮かぶ。
深紅のマナを帯びた、深紅の花びらを舞わせてワルツを踊る今の姿は、そんな呼び名にぴったりなんじゃないかと思えた。
くるりと回る度に、また新たな花びらが視界に掠めて、胸が高鳴る。
ぎゅっと胸を締め付ける、幸せとしか言えないようなこの気持ち。
ずっとこうして踊っていたいとさえ思うような気がして、焔さんと繋いだ手にそっと力を込めた。
ああ、もう――。
私、今……焔さんとワルツを踊れて、とっても幸せだ。
日頃から、焔さんとのちょっとしたやりとりに幸せを感じて。
たまにどきどきしたり、くすぐったいような恥ずかしいようなこともあって。
目が合うと、胸がきゅっとなって――ときめく。
――これはもう、認めざるを得ないのかもしれない。
私に色々な感情をくれて、いつも優しくて。
たまに子供っぽいのに、本当はすっごく年上で。
本が大好きなこの人を想う、私のこの気持ちは。
どうやっても、もう。
この気持ちの正体に、気づかないふりなんて……できそうになかった。
応援ありがとうございます!
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