大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

61.幸せな恋バナしよう

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「…………」

 ぼうっとした頭で、カーテン越しに部屋へ差し込む日の光を見ていた。
 外から聞こえるのは、車のエンジン音と、少し強めの風の音。
 聞き慣れた日常の音を、自宅の部屋で聞いていた。
 徐々に覚醒していく意識の中、むくりと身体を起こして、ソファに腰掛け直した。
 時計の針は、10時半を少し過ぎたくらい。
 足下には、昨夜放ったままのバッグ。
 ……そうだ。
 昨日の夜、舞踏会が終わって、こちらに帰ってきて……疲れすぎて、ソファにダイブして寝落ちしてしまったんだった。
 部屋を見渡してもアルトはいない。
 恐らく、休日の焔さんの世話をしに向こうの世界へ行ってるんだろう。
 ふと、脳裏に舞踏会での色々な出来事がよぎった。
 夢のような場所で、沢山色んな事があって。
 焔さんと、それこそ夢のような、素敵なワルツを踊った。
 ひとつひとつ思い出しながら、ソファから立ち上がって窓辺へと移動し、カーテンを開ける。
 窓の外は、少し雲が多い空模様だった。
 見える景色は、見慣れた私の世界の日常。
 だからこそ、昨日のことは、本当は夢だったんじゃないかと信じられない気持ちになるのかもしれない。
 そっと胸元で手を握ると、しゃら、と涼やかな音が響いた。
 音の元にあったのは、焔さんに貰ったブレスレット。
 舞踏会に合わせて形を変えた、真新しいデザインのままそこにある。

「夢じゃ、ないんだよね」

 あの世界のことも、焔さんのことも、舞踏会のことも。
 そして――。
 この、気持ちも。
 思い出せば、きゅんと胸が締め付けられるような、甘い感覚まで蘇ってくる。
 これも、夢じゃないんだ。
 ほんの少しの間、そうして窓の外を眺めていると、ソファに放り出したままだった携帯電話のアラームが鳴った。
 手に取って、画面を確認して思い出す。
 そうだ。今日はやることが沢山あるんだ。
 ぐぐっと伸びをすれば、怠く感じていた身体も、少しはマシになったように感じた。
 冷蔵庫にある物で手早く食事を済ませて、いつもよりちょっとだけ頑張って、身支度を調える。
 約束の時間まではまだ少し早いけれど、待たせるよりはいいかなと、準備が整ってすぐ家を出た。
 道路脇の歩道を、駅まで続く道を歩いていく。
 こうしてひとり歩いていても、この世界には、ドレスを着た貴族や蹄を鳴らして走って行く馬車なんてものはない。
 そのことに微妙な違和感を感じる日が来るなんて、思ってもみなかった。
 ……なんだか、すごく久しぶりな気がするな。
 休日の昼下がり。
 そこそこの大きさがある近所の駅に到着すると、駅前の小さな広場は人でいっぱいだった。
 なんだか落ち着かない気持ちで鞄を握り絞め、待ち合わせのベンチの端に腰掛ける。
 ちょうど目の前を通り過ぎていったおば様たちの会話が、自然と耳に届いた。

「あら、そうなの?いやだわ、今日は傘なんて持ってきてないのに」
「大丈夫よ。降っても夜からって話だったから、買い物して帰る頃には止んでるでしょう」
「それもそうね。ところで、今日の晩ご飯なんだけど……」

 ……そっか、今日、雨降るんだ。
 ごそ、と鞄を確認してみるけれど、私も折りたたみ傘は持っていないようだ。
 夜からなら、そう遅くならなければ私も大丈夫だと思うのだけど。
 空を振り仰いで見えたのは、緑の葉の合間に小さな桃色の花びらがちらちらと残る樹だった。
 いつの間にか、桜まで散っていたらしい。
 ……私、こっちの世界のこと、何も気にしてなかったんだな。
 それもそうか。
 いきなり異世界に転職することになって、舞踏会に出ることになって、それからはずっと淑女の勉強に必死だった。
 気づかない内に、季節が少し動いていた。それだけだ。

「あ、いたいた……梨里!」

 遠くから聞こえた声に、ふわふわしていた意識を引き戻す。
 駅から出てきたらしい懐かしい友人の姿に、笑顔で小さく手を振った。

「美佳、久しぶり」
「久しぶりー!いやー、ほんっとうに久しぶりだね!」

 ばっちりお洒落にきめて、ボブカットの髪を揺らす長身の彼女が、今日ここで会う約束をしていた美佳だ。
 相変わらずきらきらと華のある存在感で、ぱっと周囲が明るくなったように感じる。

「本当に久しぶりだけど……美佳は相変わらず綺麗だし、元気そうでよかった」

 嬉しい気持ちそのままに、笑顔でそう告げると……何故か美佳は、目を丸くしてこちらを見つめた。

「……美佳?」
「あ、いや……ううん、なんでもない。そういえば梨里も、なんか大人っぽくなった気がする」
「そうかな?ありがとう」
「うーん。うん、前よりずっと大人っぽい気が……って、ここじゃゆっくりもできないね。どこかカフェでも入ろう」
「わかった。じゃあ……あっち、いこっか」
「うん、任せた!」

 懐かしい友人との再会は、どきどきしたけれどやはり、顔を合わせてしまえば楽しい気持ちが勝る。
 そのまま連れだって、お気に入りのカフェに移動した。
 店内は相変わらず賑わっているけれど、席を確保できたので、甘いケーキと紅茶のセットを互いに注文して、ゆっくりする気満々で席に着いた。

「さあ!思い切りおしゃべりするぞー!」
「ふふ」

 元気いっぱいの美佳に、こちらまで楽しくなってきてしまう。
 話題は特に、最近のこと。
 初めのうちは、ちょっとずつケーキを味わいながら、美佳の近況を聞いていた。
 彼女は地元の図書館で、元気に働いているらしい。
 地方都市のそこそこ大きな図書館だから、色々と苦労することもあるそうだけれど……。
 彼女自身の要領の良さで、毎日上手く過ごしているようだった。

「……美佳は本当に、司書の仕事に合ってるよね」
「そうねー。自分で言うのもなんだけど、天職だったなと思うわ。梨里と違って、読書は好きだけど、ほら……私って大雑把じゃない?梨里みたいには本を大事にできないし、仕事だと思えば色々割り切れちゃうから」
「そうなんだよ……私はそこがどうしても割り切れないから」
「私は梨里のそんなところ、好きだけどね。……ん、この紅茶美味しい。あ、そういえば、梨里は今、古本屋で働いてるんだっけ?なんだったかな……そうそう、『路地裏』だっけ?ここから近いの?」
「……あー。そっか、まだ言ってなかったっけ」

 そうだった。
 ちょっと口に含んだ紅茶が、ふわりと心地良い苦みを口内に広げる。
 ケーキの甘さを流して、改めて口を開いた。

「『路地裏』ね。ちょっと前に、閉店したの。……店長さんが、息子さん夫婦と住むことになって、それで」
「へ……?」

 ぽかんと、目を丸くした美佳の表情が、ちょっとだけおかしかった。

「え、ちょっと待って、梨里、昨日も仕事だったんだよね?ってことは転職してたの?」
「うん。ひと月前くらいから、個人の図書館で……司書みたいな、秘書みたいなことしてるの」
「個人の図書館?」
「そう、『路地裏』の常連さんだった人なんだけど……大きな図書館みたいなの持ってて、そこで働かないかって誘ってもらえたから」
「……ちょっとその話、詳しく」
「えええ……。うーん、あのね……」

 きらりと目を輝かせて、すっかり聞き手モードに入った美佳に、肩を竦めながらここ1ヶ月ほどのことを話した。
 もちろん、焔さんが大賢者だとか、異世界のことだとかは彼女には話せない。
 そういう部分を当たり障りなく濁しながら、何となく、焔さんがちょっとした資産家で、名前や住んでいる場所は話せないけれど、その地域でちょっとした有名人で――なんて、できる限りの説明をした。
 だいぶぼやかした部分ばかりの私の話を、ずっと黙ったまま、時折ケーキを楽しみながら聞いていた美佳は、話が進むにつれて、どうしてか段々と口角が上がっていく。
 話し終えた頃には、完全ににやにやした顔で私のことを見つめていた。

「……ふーん。専属の秘書業務に、休日のデートに、あげくダンスパーティーねぇ……」
「……な、なに、その顔……」
「ようやく納得したわ。うん、全部その資産家さんのお陰だったわけね」
「だから何よう」
「梨里、あんた――その資産家さんに恋してるんでしょ?」

 彼女の問いかけに、ぐっと、一瞬だけ息が詰まった。
 以前の私だったなら、すぐに否定したはずだ。
 ……でも、今の私には、気づいてしまったばかりの……この気持ちがある。
 そっと胸元に手を当てる。
 美佳の問いかけに、とくんとくんと、私の心は温かくなっていった。

「――うん」

 自分で肯定するのは、これが初めて。
 恥ずかしくて仕方ないような、ちょっとだけ誇らしいような。

「そうなの。私――あの人のことが、好きになっちゃった、みたい」

 はにかみながら、ゆっくり噛み締めるように言葉にした。

「……梨里、あのね、今日会ってからずっと思ってたんだけど。すっごく可愛くなったよ、あんた。きっと恋したから、だね」

 優しい顔で頬杖をついて、親友は微笑んでくれた。
 自分の気持ちに正直になって、きちんと言葉にして。
 それを、大事な友人に認めてもらえる。
 ――なんて贅沢な幸せだろう。

「――ありがとう」

 こうして笑える自分になるだなんて、ほんの少し前までの自分なら、信じられないと思う。

「ねぇねぇ!もっとその資産家さんのこと教えてよ!大丈夫なことだけでいいから、沢山聞きたい」
「えええ……。どうしようかな。ああ、そういえばこの前ね――」

 ちょっぴりくすぐったい気持ちのまま、焔さんの話をねだる美佳に、日常の小さなことなどを話し始める。
 話そうと思うと、焔さんの話題は、選びきれないくらいに頭に浮かんできた。
 それを美佳に話すのさえ、幸せな気持ちになる。

 ――これが、恋をするということなのだろう、と。
 時間も忘れて話に夢中になりながら、私は恋をするという幸福感に、そっと溺れていた。



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