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第1章 大賢者様の秘書になりました
62.本と雨音
しおりを挟む文字通り、時間を忘れておしゃべりに没頭してしまった結果、気がつけば空は真っ暗になっていた。
「今日はありがとう!まさか、梨里と恋バナできるなんて。ほんと楽しかった!」
宿泊先へと帰る美佳が、駅の改札前で満足そうな笑みを浮かべた。
「私も、本当に楽しかった!色々聞いてくれてありがとう」
「いやいや、まだ足りないくらいだから!私、応援してるから絶対頑張るんだよ!今までより沢山、近況報告してよね!」
「うん、わかった」
「絶対だからね!また遊びにくるから!」
「楽しみにしてる!……帰り、気をつけてね!」
「うん!梨里もねー!」
元気よく手を振りながら、美佳は改札の中へと飛び込んでいった。
ほんのちょっとだけ寂しい気持ちになりながら、確認した腕時計。
時刻は――19時を過ぎたところ。
「やば……」
今日中に行く予定だったもうひとつの場所は、20時閉店だったはずだ。
慌てて駅を後にして、再び駅前の商店街へと早足に戻る。
5分ちょっと歩いて、目的の店にまだ明かりが付いているのが見えると心底ほっとした。
カラン、とドアベルが軽い音を立てる。
受付のカウンターにいたのは、顔見知りのスタッフだった。
「いらっしゃいま……あ!堀川さん!」
「こんばんは。遅くなってしまってすみません」
「いえいえ!まだ営業時間中ですし、大丈夫ですよ」
そう言ってにっこり笑ってくれるのは、すっきりと落ち着いた雰囲気の女性。
「本、できてますよ。持ってくるので少しお待ちくださいね」
「いつもありがとうございます。お願いします」
女性が軽く会釈してカウンターの裏に入っていく。
私はいつも通り、窓際に置かれた小さな待ち席に腰掛けた。
ここは、本を作るときにいつもお世話になっている、小さな印刷所だ。
小綺麗で白を基調としたシンプルなカウンターの裏には、印刷機等の機械が沢山あるらしい。
今も、店の奥からガシャン、シュッっという、連続して印刷をする音が聞こえてきている。
何となく落ち着くそれらの音を聞きながら、ガラス張りになっている外へ視線を向けると、空が大分曇ってきていた。
いけない、そういえば夜から雨が降るんだっけ。
家に帰るまで降らないといいのだけど。
「お待たせしました」
ぼんやりしていれば、さほど待つことなくスタッフさんが戻ってきた。
その手にあるのは、クラフト紙に包まれた小さな塊。
私の座る席まで来て、スタッフさんがそっとその包みをテーブルへと置いた。
「中の確認、お願いできますか?」
「はい」
そっと手を伸ばして、丁寧に包みを開いていく。
――中から現れたのは、インクの匂いも真新しい、3冊の文庫本。
「あれ?」
驚いて声を上げると、店員さんがちょっとだけ苦笑した。
文庫本の表紙に印刷されたタイトルは、間違いなく注文した本のもの。
けれど、確か2冊で申し込んだはずなのに――。
戸惑う私に、スタッフさんは丁寧に頭を下げた。
「すみません、今回、こちらの手違いで、1冊多く印刷してしまったんです。堀川さんにはいつもご利用頂いてますし、見本誌ってことでお持ちください」
「えっ!あ、いや……全然、いいんですけど。でも、見本誌って。もう一冊分払います」
「こちらのミスですし、本当に大丈夫ですから。ね?……それより、中も大丈夫そうですか?」
「あ、はい、えっと――」
パラパラと中身を捲って、問題ないことを確認する。
結局そのまま押し切られて、3冊分の文庫を受け取ることになってしまった。
雨が降りそうだから、とスタッフさんが濡れても平気なように包んでくれた文庫本を手に、印刷所を後にする。
元々、自分の分と佐久間さん――『路地裏』の店長さんへ送る分で2冊あればよかったのだけれど。
思いがけず増えたもう1冊をどうしようか……なんて考えながら、てくてくと商店街を出て、少し歩いた辺りで。
――ぽつり。
「へ?」
顔に冷たいしずくを感じて、空を仰ぐ。
たちまち、すごい勢いで土砂降りの雨が叩きつけてきた。
「う、わ……!」
ざああっと激しい音を立てながら、視界が白く煙る程の滝のような雨に降られてしまった。
慌てて本の包みを胸元に抱きしめる。
――しまった、商店街から出る前に、傘を買っておけばよかった。
一瞬、商店街に戻ろうかとも思ったけれど……ここまで来てしまうと、商店街に戻るのも自宅まで帰るのも、距離は同じくらい。
身体はもうずぶ濡れだし、それならば、家まで走ってしまったほうが早い。
丁寧に梱包して貰ったとはいえ、大切な本だけは濡らさないようにと自分の身体で庇いながら、土砂降りの中を家まで走った。
運動不足で走るのすら苦手な私が自宅玄関に到着した頃には、すっかり息が上がってぐったりしてしまっていた。
「…………はぁ」
深い溜息をひとつ落として、のろのろと荷物を置き、びしょ濡れの服を絞る。
これはお風呂に直行だな……。
後で、荷物や玄関も拭いて、本の確認しないと……。
最後の最後でどっと疲れた気分になりながら、とぼとぼと脱衣所へと向かった。
帰宅後の入浴や、荷物の片付けをしたり、靴を乾かしたりと忙しくしていれば、色々落ち着いた頃にはもう、夜の22時を回っていた。
簡単なもので夕食を取っている最中、カタリと玄関先で小さな音がして、黒い猫が欠伸をしながら帰宅してくる。
「アルト、お帰りー」
「おう。って、なんか湿ってるな、この部屋。雨の匂いか?」
髭をひくつかせながら、帰宅早々そんなことを言うのは、さすが猫といったところか。
「うん。ちょっと降られちゃって」
「風呂……は入ったみたいだな。風邪引くなよ」
「うん、気をつけるよ。ありがと」
食べ終わった食器を手に席を立つと、一瞬ふわりと足下が揺れた感覚がした。
一歩だけよろけて、テーブルに手をつく。
「……おい、大丈夫か?」
見ていたらしいアルトの声に、大丈夫、と返事をした。
「ごめん。ちょっと目眩がしただけだから平気」
「ほんとかあ?舞踏会もあって疲れてるんだろうし、今日は早く寝るんだぞ」
ソファの背に前足をついてひょっこりこちらを見ながら、そんなふうに言うアルトが何となく可笑しくなって、食器を洗いつつ小さく吹き出してしまった。
「なんだかアルト、お母さんみたい」
「だぁれがお母さんだ。誰が。……ったく、お前もイグニスも、世話が焼けるったらないんだから……」
恥ずかしいのか、ブツブツ言いながらソファの陰に隠れてしまうアルトに、ふふ、と笑みを零す。
きゅ、と水を止めて、手を拭いながら無意識に大きな溜息を吐いてしまった。
……これは本当に、ちょっと疲れちゃってるのかも。
今朝から少し怠いような気もするし、アルトの言う通り、今日は早めに寝てしまおう。
そう決めて、歯を磨いて、ベッドへと向かう途中。
ふと目に入ったのは、机の上に置いたままになっていた、リブラリカから借りてきたあの本だった。
そっと歩み寄って、表紙を撫でる。
……これを読む時間も欲しいんだけどな。
「……リリー」
軽く表紙を捲ろうとした私の背に、不機嫌そうな低い声が掛かる。
「もう、わかってる。すぐ寝るよ」
「そうしろ。明日からまた仕事なんだから」
「だね」
名残惜しく思いながらも、本を机に戻して今度こそベッドに入った。
部屋の明かりを消すと、柔らかな布団の感触にすぐに眠気が襲ってくる。
「おやすみ、アルト」
「おやすみ」
閉じた瞼の向こう側で、しとしとと降り続ける雨音が響いている。
雨は、まだまだ止みそうになかった。
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