大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

85.静かな空気と、この気持ち

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 少しだけ早足でたどり着いた保管書庫の扉前。
 ゆっくり息を吸って、吐いて。
 深呼吸をしたあとに、そっと扉をノックした。
 コンコン、と廊下に響く音。
 しかし扉の向こう側からは、何も返事が返ってこない。
 これも、いつものことだ。
 そっと扉を開けながら、中で本に夢中になっているのだろう彼へと声を掛けた。

「焔さん、梨里です」

 窓のない保管書庫の中、マナのランプの明かりが空気の揺れに合わせて、ゆうらりとゆらめいた。
 机に向かって座り、本の山に埋もれる見慣れた背中。

「…………。ん?」

 少しの沈黙の後、彼はふと本から顔を上げた。
 どきん、と心臓が跳ねる久々の感覚。
 マナランプに照らされた綺麗な横顔が、私の姿を視界に捕らえるとふわりと優しく崩れた。

「あ、梨里さんか」
「……はい」

 優しい声と表情。
 私の好きな彼の仕草に、きゅっと胸が苦しくなる。

「そろそろお夕食の時間なので、呼びに来ました」
「あー、もうそんな時間か。……うん、ごめん、ちょっとだけ待って貰ってもいい?ここだけ読んじゃいたくて」
「はい」
「ありがとう。……おいで」

 焔さんが本に視線を戻しながら、隣にある椅子に向かって手を一振。
 するとその椅子に積み上げられていた椅子が、紅色の粒子と共にふわりと浮き上がって別の場所へと移動した。
 その空いた座面を、彼の手がぽんぽんと叩く。
 誘われるままに、私は――その必要もないのに、足音を殺してそうっと近づくと、その椅子へと腰掛けた。
 置かれていたクッションを手持ち無沙汰に抱きしめて、焔さんの机の上に視線を向ける。
 大きくて分厚い本が、いくつも散乱している。
 触れただけで崩れてしまいそうな程古い本や、表紙の皮部分が擦り切れてしまいそうなもの。
 私の読めない、オルフィード国の一般的な言語じゃない文字も沢山溢れている。
 少し乱雑に紅い文字が走り書きされた紙が何枚もあって、その上にきらりと透明な煌めきを放っていたのは、私と揃いの焔さんのマナペンだ。
 そのことにほんの少しだけ心拍数が上がった気がして、視線を俯ける。
 俯けた先に、私の制服の胸ポケットが視線に入って……そこに入れてある、私の方のマナペンの煌めきまで意識してしまい、更にどきりと心臓が鳴った。
 ……お、落ち着け、私。
 保管書庫の中は、焔さんがページを捲る小さな音と、私たち2人の微かな息づかいだけがあって、しんと静か。
 久々に感じてしまう2人きりの時間に、私はそわそわとクッションを握り絞めた。
 特に会話もなく、2人で過ごす時間だって、今まで何度かあったはずなのに……ちょっとだけ、本当に2日ぶりくらいに2人っきりだというだけで、こんなに動揺してしまうなんて。
 ……これも、こんな感情を持ってしまったが故、なのだろうか。
 再び、小さなページを捲る音がして……そっと、焔さんの方を盗み見る。
 これまた古そうな分厚い本に真剣な眼差しを向ける横顔。
 白い頬に、紅みがかった黒髪がはらりと滑り落ちてきて影を作る。
 そのコントラストにもまた、どきりと心臓が鳴ってしまった。
 そんな私の気配が伝わったのだろうか、本に視線を落としたまま、焔さんの唇がそっと動いた。

「今日は1日、どうだった?」

 静かな声が、耳に心地良い。
 この空間を壊したくなくて、私も何となく小さな声で返事をした。

「ここの図書館の書架整理を午前中に……。午後は、アルトと殿下と一緒に村全体を歩いて回ってみました」
「うん」
「村の方々には警戒されてしまっているみたいです。あ、でも、殿下のお陰で村の子供たちから少しだけ、話を聞くことができました。調査としてはまだまだですけど……この調子で頑張ります」
「……ん、そっか」

 きりのいいところまで読み終わったのか、焔さんは読んでいた本をぱたりと閉じて顔を上げた。
 再び目が合って、しばらくの間黙ったままじっとこちらを見ていた焔さんは、ふっと微笑む。

「出張、楽しい?」
「……はい、正直なところ、楽しいです。大切な調査なんだってことは、わかってるつもりなんですけど」

 少しだけ迷って、正直な気持ちを伝えた。
 これだってちゃんとした仕事。それはわかっているけれど。
 やはり、古くて綺麗な図書館に、自然豊かな村での普段と違った環境での仕事というのは、多少わくわくしてしまうものだ。
 そんな私に焔さんの綺麗な手が伸ばされて、ぽんぽんと優しく頭を撫でられた。

「それならよかった。いいんだよ、梨里さんが楽しんでくれていたら、僕も頑張れるから」
「……はい」

 髪に触れられたところが、そんなわけもないのに熱く感じてしまう。
 私の気持ちなどお構いなしに、あっさりとその手は引いてしまって……ほんの少しの名残惜しさを感じる私の目の前に、再び差し出された。

「待たせちゃってごめんね。食堂行こう?」
「そうですね、行きましょう」

 差し出された手に、そっと自分の指先を重ねる。
 握った彼の指先は、少しだけひんやりとしていて気持ちがよかった。
 優しく引かれるままに椅子から立ち上がって、そのまま――手を引かれるまま、保管書庫を後にする。
 ぱたりと扉が閉まると、誰も居なくなった室内でマナランプの粒子だけが、ふわりと揺らめいた。





 夕食が終わって、梨里とアルトの気配がロランディア図書館から遠ざかっていくのを、保管書庫でひとり感じていた。
 やがて村から離れた彼女の気配は、リブラリカへと通じるあの扉の向こうへと遠ざかっていく。
 今日も無事に彼女が帰り路につけたことにほっとしながら、読みかけだった古い本を開いた。
 ――けれど、視線は本に落としたまま、思考はまったく別のことを考えてしまう。
 今日、梨里が夕食に呼びに来てくれた時。
 僅かな時間とはいえ、久々に2人で会話する時間が取れたことが嬉しかった。
 今回の調査の役割分担は、適材適所で考えた結果だし、何よりザフィアのあの魔術書解明のために必要なものだ。
 ……必要なものだとわかってはいるのだけど。
 やはり、リブラリカに居たときよりも梨里との時間が大幅に減ってしまったことが、心の何処かでずっと気になっていた。
 まだ出張は始まって2日。
 なのにどうしてか――今日久々に2人で話した時、とても久しぶりなような感覚がしていたのだ。
 彼女が1人で呼びにきてくれたとわかったとき、なぜか嬉しくて……つい、少しだけ待っていて欲しいなんて言ってしまった。
 ……別にあそこで切り上げても問題はなかったのだけど、少しだけでも、彼女との時間が欲しいと思った自分がいたのだ。
 梨里はこの出張を、楽しいと感じてくれているようだった。
 あの表情だし、嘘ではないのだろう。
 そう思ってもらえているならと、ほっとした。
 ほっとはした、のだけど。

「…………」

 何となく面白くないような気がするのは、多分。
 梨里が明日からも毎日、あの猪王子と1日の大半を過ごすのだろう、というところだろうか。
 いや、これは本当に適材適所、正しい配置と役割配分なのだ。
 この世界の文字にやっと慣れてきた程度の梨里に、古い文字は読めないだろうし……あの王子だって、梨里のことは友人として大切にしているようだから、自分が傍に居てやれない分、たとえあんな阿呆でも彼女と一緒に居てくれる人間がいるなら安心できる。
 安心できる――いや、できているはず、なのに。
 どうしてか、もやもやしてしまうこの気持ち。
 その理由がわからないでいる。

「はぁ……」

 自分の口から大きめの溜息が出て、何となく気分が沈んだ様な気がしてしまった。
 だめだ、だめだ。
 今はぼんやりしている時間すら惜しい。
 早く、あの魔術書についての手がかりになりそうなものを探さなくては――。


 気持ちを切り替えて、目の前の本に集中し始めてしまえば、先ほどまで悩んでいたあれこれは、すうっと何処かへしまわれてしまう。
 今はただ、目の前の本の山に集中していようと思った。




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