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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
97.あの人ならば
しおりを挟む日課に、焔さんとの夜の読書時間が追加になって、あのマナブックを読む傍ら、ほんの少しでも2人で過ごす時間が出来たことは……思っていた以上に、私の心を癒やしてくれた。
一日の最後には、焔さんと静かに過ごす時間が待っている。
そう思うだけで、ちょっぴり荒んでいた心がぐっと上向いた。
恋する力というのは、精神にかなり影響してくるものらしい、と体感する良いきっかけになった。
すっかり定位置になった保管書庫の椅子の上で、クッションを抱えながら、今宵もマナブックのページを捲る。
このマナブック――『翡翠色の日記』は、半分程まで読み進んでいた。
この本には、筆者の名前がない。
けれど読んでいるうちに、この本の筆者は女性なのではないか――と感じるようになっていた。
ちらほらとだが、ドレスの話題やお見合いの話などが出てくる。
だが、日記の大半を占めているのは日常の出来事ではなく、『彼』という文字で表現される、ひとりの男性のことだった。
『彼』は筆者の幼馴染みで、兄妹のように育った仲の人物だったそうだ。
ある出来事の後、ロランディア村を離れた『彼』は、度々筆者の元を訪ねてきては、色々な話をしてゆっくりと時間を過ごしていく。
2人の話題は、その時代の流行のものだったり、他愛ない近況報告だったり。
どうやら『彼』は王都に住んでいるらしいが……その割には、頻繁にこの村へと顔を見せに来ていたようだ。
……焔さんみたいな、魔術師の人だったのかな?
読んでも読んでも、筆者と『彼』の名前は明記されることがない。
しかし、彼に関する文章の表現がなんとも温かさに満ちていて……筆者の、『彼』に対する思いの深さが、言葉の端々に滲み出ているようだった。
ぱらりとまた一枚、ページを捲る。
――と、目に飛び込んできたのは、よく出てくる池の描写だった。
……また、この宝石池……。
筆者が宝石池、と読んでいる場所で、2人は何度ものんびりと過ごしている。
宝石池、なんて文字を見て思い浮かぶのは……あの泉よね。
数日前、ミモレを見つけたあのエメラルドに輝く泉。
このロランディア村図書館の裏の森の中にひっそりと、とびきり美しくあるその泉は、まさに宝石池と呼ぶのにぴったりなのではないか、と梨里は思っていた。
その日、筆者はひとりで宝石池を訪れ、その畔で考えごとをして過ごしていたようだ。
筆者が考えていたのは、やはり『彼』のこと。
『彼』が今度お見合いをするということについて、胸を痛めていることが控えめに書き綴られていた。
……たぶん、というかやはり……筆者は『彼』に、恋をしていたのだろう。
書かれた文字の端々に、もどかしいような気持ちが滲み出ているようだ。
――彼の意思でないことは、十分わかっている。
それでも、行かないでと言う訳にはいかない。
このお見合いには、それだけの価値があるということは、わかっている。
わかっては、いるけれど――。
そんな風に、宝石池を眺めながら項垂れる彼女の情景が瞼に浮かびそうな、そんな苦悩の言葉が書き連ねられていた。
『彼』は、どうやらそれなりの地位を持つ者らしい。
お互いを想い合っているのを承知したまま、ふたりは各々の心の内を相手にさらけだすことなく、時間が過ぎていくに任せている。
――彼と私では、もう生きる世界が違う。
何をするにも責任がつきまとう。
私では、彼の力になることはできない――。
彼女のそう記載した文字は、いっそうの寂しさを隠すように、静かに紡がれていた。
思わず、読んでいる私の心もきゅうっと締め付けられるような切なさを感じる。
……分かるような、気がする。
何となくだけれど、自分では好きな人の力になることができない……そんなもどかしい感覚については、身に覚えがあるように感じた。
焔さんは、なんでも出来る人だから。
今回の出張だって、私は調査を手伝う立場にいるのに、毎日図書館の仕事を手伝って、子供たちと村を回るくらいしか……やれることがない。
まだ、何も役に立てていない。
魔術も使えない、共通語ですら読むのがたどたどしい……そんな自分では、到底役に立つとは、お世辞にも思えない。
「――あの人、なら」
ぽつん、と、吐息ほどの呟きが漏れた。
突然やってきて、焔さんにべたべたと抱きついていたあの……ヴィオラ、という女賢者は、自分ならば力になれる、と言っていた。
焔さんは断っていたけれど……正直なところ、焔さんの作業を手伝えるほどの力を持っている彼女のことが、心底羨ましいと思った。
……妬ましいと、思った。
彼女ならば、彼と同じ場所に立てるような――私では並ぶことのできない、彼の隣に、堂々と立っていられるように見えたから。
「梨里さん?」
急に後ろから掛けられた声と、肩に置かれた手にはっと思考の海から浮上した。
「――あ、焔さん」
「どうかした?今、何か言ったような気がしたけど」
いつの間にか背後に立っていた焔さんが、心配そうにこちらを見下ろしている。
先ほどの私の呟きは、しんと静まり返った部屋の中で、少し離れた場所にいたはずの彼の耳まで届いてしまっていたらしい。
私は焦りを笑顔で誤魔化しながら、ふるふると首を振った。
「いえ……。すみません、ちょっと溜息を吐いた、かも」
「……ちょっと、元気ない、かな」
「!」
ふっと真剣な表情になった焔さんが、急にこちらへ手を伸ばしてくる。
白い指先がふわっと、私の頬に触れるか触れないかの距離を滑っていって――直に触られたわけでもないのに、その場所にぶわっと熱が集まるのを感じた。
驚きでばっと手で頬を覆った私に、焔さんは優しく微笑みながらするりと髪を一房、すくい上げた。
「ここ最近、ずっと読書頑張ってるもんね。……疲れを溜めるのは良くない。今日は、もう部屋で休んで。ね?」
「……は、い」
「うん、よろしい」
頷いた私に、彼は満足そうな笑顔になる。
……どきどきしすぎて、はい、以外の言葉が出てこなかった。
するりと彼の手から、私の髪が滑り落ちる。
さっきの返事……承諾してしまった以上取り消すことはできないし、正直なところ、寝不足が続いてちょっと疲れていた、というのもある。
もう少し一緒に……なんて我が儘言わずに、ここは大人しく部屋に引っ込んだほうがよさそうだ。
「……ええと、それじゃあ失礼します」
「うん、おやすみ、梨里さん」
「はい、おやすみなさい。……焔さんも、無理しちゃだめですよ」
「ありがとう。もう少ししたら休むから」
……そんな事言って、また朝方寝落ちするまで作業するつもりなの、知ってるんだから。
本当に仕方のない人だ。
「絶対ですよ」
私が何を言っても、彼の寝る時間が変わることはないのだろう。
だから私は、それだけを言って保管書庫を後にした。
眠そうに欠伸をするアルトを連れて、暗い廊下を歩き、二階へと続く階段に足を掛けて……。
「……おや、そこに誰かいるんですか?」
背後から掛かった声に、呼び止められた。
今回は眠かったせいか、変に飛び上がったり悲鳴を上げたりすることはなかったが……驚きはしたので、少し眠気が晴れる。
振り返ったところに居たのは、いつもと同じ真っ黒な服を着て、闇に半ば溶け込んでいるレグルだった。
「レグルさん、こんばんは」
「ああ、リリー様でしたか。こんばんは」
にこやかに細められた彼の右目のモノクルが、ランタンの明かりを反射してきらりと光る。
「こんな時間に何を……ああ、大賢者様へ御用事でしたか?」
まぁ、私がこんな時間にここに居る理由なんて、少し考えたらわかるよね。
保管書庫のほうに視線を向ける彼に、思わず苦笑しながら頷いた。
「はい。今部屋に戻るところでした」
「そうでしたか。引き留めてしまって申し訳ありません」
「いえ。……レグルさんは、見回りですか?」
「そうです。こんな田舎の図書館で、何があるというわけではありませんけどね」
「見回りも大切なお仕事でしょう?お疲れ様です」
何か変なことでも言ったかな、私?
私の言葉に一瞬驚いたように目を丸くしたレグルは、今度は照れくさそうにはにかんで小さく笑った。
「ありがとうございます。リリー様にそう言って頂けると、嬉しいですね。……あ、そうだ」
彼は、ふと何か思いついたように、こちらへ手を差し出してくる。
「?」
意図が分からず首を傾げて彼の手を見つめる私に、レグルは笑顔で頷いた。
「今、部屋へ戻る前に温かい飲み物でも飲もうかと思っていたんです。……もしよろしければ、リリー様も一緒にいかがですか?」
「えっと……」
思いがけない言葉に、返答に詰まる。
……こんな事態になるとは、夢にも思っていなかった。
戸惑う私の肩の上で、寝たふりをしていたアルトがちらり、とレグルへ視線を向けていた。
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