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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
96.貴方と読書を
しおりを挟むばくばくと早鐘を打ち続ける鼓動に、息が上がる。
薄暗い廊下に差し込んだ光に、段々と目が慣れて――こちらをのぞき込む彼の姿に、ほんの少しだけ冷静になれた気がした。
「……焔、さん……」
「梨里さんどうしたの?何かあった?」
「あ……ええと、その、――あっ」
しまった、と思った時には、ぐらりと身体が傾いていた。
びっくりしたのとほっとしたのと、あまりにも急だったからか、突然膝から力が抜けてしまったのだ。
手にはお茶と軽食の乗ったトレイ。
あああ、やばい――!
ふわりとした一瞬の浮遊感に、これはトレイをひっくり返す――と、ぎゅっと目を閉じた。
「――っおっと」
ふわりと鼻先を掠めたのは、慣れ親しんでいたはずの、今ではちょっぴり懐かしい、彼の匂い。
ぎゅっと腰の辺りに力強い腕が回って、トレイを支えられて。
「大丈夫?」
「あ……りがとうございます」
傾いた私の身体は、焔さんの腕でしっかりと抱き留められていた。
いつだったかも、同じようなことがあったような……。
ふとそんなことを考えているうちに、優しく立たせてくれる腕と、低めの体温が離れてく感覚が――少し、名残惜しい。
追い討ちのような今のびっくりで、なんだか逆に冷静に戻れたような。
ふう、と大きめの深呼吸をしていると、彼のお陰でひっくり返ることもなかったトレイが、ひょいと取り上げられてしまった。
「あ」
私から取り上げたトレイにのっているものにさらりと視線を走らせて、焔さんはこてんと首を傾げてみせた。
「これ、もしかして僕への差し入れだったりする?」
「はい。……レディ・オリビアが、用意してくれました」
「そっか。2人分あるって事は、梨里さんが一緒に休憩してくれるのかな?」
「……お邪魔じゃありませんか?」
勢いで2人分用意してもらったけれど、冷静になってみれば、焔さんは調査の真っ最中のはずなのだ。
作業の邪魔になりそうなら、要件だけ済ませてすぐに部屋へ戻らないと。
理性の部分でそう考えながらも、本心では焔さんと少しでも一緒に過ごしたい……そんな気持ちがちらついてしまって、少しだけ後ろめたく思いながら、そろりと彼の顔色を窺った。
「まさか。大歓迎だよ。……さ、おいで」
――そう。「これ」だ。
私は、この人のこの――「おいで」に、めっぽう弱いのだ。
整った顔でふわりと柔らかな微笑みを浮かべて、こちらに差し出してくれる綺麗な細長い指先。
毎回、この手に魔法のように惹きつけられてしまう。
「……はい」
嬉しい気持ちが溢れて、いつも自然と笑顔で返事をしてしまう。
差し出された手にそっと指先を乗せると、優しい力で引き寄せられて、私は明るい保管書庫へと足を踏み入れた。
保管書庫には一カ所だけ、本棚と離れた壁際に飲食用の机がある。
焔さんはそこまで私の手を引いていくと、ここに座って、と優しくクッションが置かれた椅子をぽんぽん叩いた。
「あ、お茶の用意を……」
「いいよ、僕がやるから。そこに座っていて」
「……すみません」
あんな姿を見られたからだろうか、トレイを机に置いた焔さんは、手伝おうと伸ばした私の手をやんわりとどめると、のんびりとお茶の準備を始めてしまった。
「ところで、廊下で何かあったの?」
こちらを見ないままにさらりと掛けられた問いに、やっぱり……、と肩を落とす。
見なかったことに、なんてしてくれないか。
「いえ、なんでもないんです。薄暗いから、ちょっとしたものを見間違えして、びっくりしてしまいまして……」
嘘は言ってない。嘘は。
けれど、アルトすら見ていないというものを見た――なんて言うのは、なんだか気が引ける。
「……そっか。まぁ仕方ないよね、田舎だから、真っ暗だし」
「そうなんですよ、本当に暗くて……」
何とか乗り切れたらしい。
焔さんに気づかれないようにほっと息を吐く私の前に、優しく湯気をくゆらせる綺麗な色の紅茶が差し出された。
「夏の夜でも、温かい紅茶は心も温めてくれるよね」
「……そう、ですね」
空調が効いているとはいえ、冬ほどではないこの気温だ。
手に取ったカップはほんのりと温かいちょうどいい温度で、ひとくち、喉元を過ぎ去れば華やかな香りが口の中に広がって、ほうっと心をほぐしてくれる。
すぐ傍で心配そうにこちらを見つめるアルトと目が合って、手を伸ばしてふわふわなその背を撫でれば、滑らかな毛並みと優しい温かさにとても癒やされた。
焔さんも優雅にティーカップを傾けて、満足そうに足を組んでいる。
「梨里さんが来るとは思っていたけど、どんな用事かな?」
「へっ」
来るとは思っていた、って……?
「君の気配がいつまでもここに残っているのだもの。いつもなら、この時間にはもうあちらの世界に帰っているでしょう?」
紅茶と一緒に持たせてもらったシフォンケーキにフォークを入れつつ、焔さんはなんでもないことのように言った。
さすがは大賢者様、だ。
私がどこに居るのかも、彼には筒抜けらしい。
感心して彼のことを見つめていると、ハッとしたように焔さんがこちらに向き直った。
「あ――、誤解しないでね!いつも監視しているわけじゃないんだよ。ただ、君が無事に帰れたかどうかが気になって……アルトも居るとはいえ、ここはリブラリカじゃないし。夜道とか、心配だから、それで確認しているだけで……その……」
焦ったように眉尻を下げて弁明する焔さんに、一瞬呆気に取られたものの――感じたのは、じわりとした嬉しさ、だった。
勿論、焔さんが危惧しているような誤解はしていないし、それに……片想いをしている相手に、身の安全を心配してもらえているなんてこんなこと、素直に嬉しいだけだ。
くすりと溢れた私の笑みに、不安そうな顔をする焔さんがちょっとだけ――可愛い。
「大丈夫です。ちゃんと分かってますし、その……。気にして頂けるのは、嬉しいです。ありがとうございます」
「そう……そっか、良かった」
あからさまにほっとした顔で椅子の背もたれに沈む焔さんに、アルトは呆れ顔で肩を竦めていた。
「……それで、なんで今夜は残っていたの?」
「ああ、ええとですね、読書をしたいなと思いまして」
「読書……って、ああ、あのマナブック?」
「はい」
「まぁ、読むならこっちに居る時だとは思うけど……リブラリカででもいいのに。あっちなら、すぐに帰れるでしょう?」
思っていた通りのことを聞かれて、私は苦笑するしかない。
「そうですよね。……そうなんですけど、あの……どうせなら、この場所で読みたいなって思って。お部屋も割り当てて頂いてますし」
……さすがに、焔さんと少しでも長く一緒に居たい、なんていう本音は口にできる訳がない。
焔さんは、ちょっと濁した私の返答を聞いても、それ以上追求することもなく、いつも通りの優しい表情で頷いてくれた。
「それなら、ここで読む?」
「ここで……ですか?」
「うん。僕はこの美味しい紅茶と一緒に、自分の作業しているから。邪魔したりしないし、良かったらここで読んでいったら?」
それは、なんて素敵な申し出なのだろう。
せめて焔さんの近くで――なんて思っていたのに、まさかすぐ傍に居られるなんて。
今度ばかりは、邪魔じゃないかなんて……聞く気が起きなかった。
「……嬉しいです。そうさせてください」
「喜んで」
焔さんの笑顔に、ああ、やっぱり好きだな――なんて思ってしまうのは、惚れた弱みというものに入るのだろうか。
お茶の時間を終えて、お変わりの紅茶を淹れたティーカップを手に、焔さんは自分の作業机へと戻っていく。
私はそのまま、お茶をした机で読書をすることにした。
振り返れば、ちょっとだけ離れたところに、窓辺の机へと向かう焔さんの背がある。
静かな室内で、会話もないけれど……振り返ればすぐ姿が見える。
この距離が、なんとも嬉しい。
クッションの置かれた座り心地の良い椅子に身を沈めて、渡されたブランケットを膝に掛けて。
手の平に取り出したマナブックを起動して、紅茶を一口。
エメラルド色の表紙を捲れば、意識はたちまち、本の世界へと没入していく。
相棒の黒猫が欠伸をした、夏の夜。
まだまだ朝まで長く続く、静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
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