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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
105.それぞれの夜<1>
しおりを挟む夕食を終えて、割り当てられていた部屋へと帰ってきたら、自然と深い溜息が出た。
ぐるりと見回した室内に、整えられていないベッド。
簡素な敷物に、飾り気のない、木製の机と椅子。
普段の自分の生活では考えられない、城の豪華さには到底及ばないようなこの質素すぎる部屋を、俺はなかなかに気に入っていた。
少し荒っぽくマントの紐を解いて、ベッドに投げ捨てる。
どかっと座り込んだベッドは、それだけでぎし、と音を立てた。
生まれてからこれまで、常に召し使いが傍に控え、最高級の煌びやかな物に囲まれて、僅かな不自由さえないようにと恵まれて生きてきた。
そんな俺にとって、初めての――付き人がいない、自分だけの部屋。
いつもならば、心安らかにごろごろして過ごすのだけれど……今日ばかりは、昼間の出来事で頭がいっぱいになっていた。
身体を倒してベッドに横になると、空へと伸ばした右手を見つめる。
危うく泉へと落ちるところだったリリーを、引き戻した腕だ。
「…………」
アルトに来いと言われてついて行った先。
以前にも訪れた、あの光溢れる泉の縁にリリーはいた。
実はあの場所で、俺には見えていたものがあった。
……アルトには見えていないみたいだったから、何も言わなかったけど。
あの時。
リリーが泉の方へと伸ばしていた手を、不本意ながら見覚えのある、『何か』が引いているように見えたのだ。
『それ』は、いつものようにはっきりとは見えなかったけれど……確かにそこにあって、ぼんやりした白い人影の形をしていて。
リリーの手を引いて、泉へと導いていたように見えた。
ふわふわしたような、そこには何もないような。
けれど、意識の深いところで……絶対に『それ』がそこにいると、俺は確信していた。
ごろりと寝返りを打って、身体を横にする。
手元に引き寄せた右手の平を、じっと見つめた。
俺がリリーを助けた時、一緒にいたアルトは彼女に向かって、「こんなところで、ひとりで――」と言葉を投げかけていた。
あいつは大賢者の使い魔だ。
そこら辺の少し腕の立つくらいの魔術師よりもずっと有能な存在。
そんなあいつが認識できないものとは、一体どういうことなのだろう。
助けたリリーも、ただ散歩をしていただけだと言っていた。
誰かと一緒にいたとか、そういうことは一切言ってなかったし……。
泉を去るときに、どうしても気になってもう一度と振り返った時。
あの輝く泉のただ中に、ぼうっと白い靄のような『彼女』が、こちらを見ているような雰囲気を感じたような気がしたのだ。
「……うーん……」
どうしよう。
ただ見えているだけならば、黙っていようと思っていたのだが……こうして、リリーが危険な目に合っているのだから、これはやはり、大賢者に話しておくべき……なのだろうか。
一応、大賢者からは、自分が一緒にいられない分、リリーのことを頼む、とは言われているのだけど……。
「……いくら調査が大切とはいえ、なぁ……」
さすがの俺でも、もう少しくらいリリーと一緒に居てやればいいのに、と最近思うことがある。
たまにだけど、リリーがすごく寂しそうに、図書館の建物を眺めている時があるのだ。
ロランディア村に来てからというもの、大賢者は保管書庫に籠もりきり。
これはあいつにとっても大切な調査で、どうしても手が離せないからこそ、リリーのことを頼まれている……というのはわかってはいるのだが。
「……やっぱり気にくわない」
リリーに寂しそうな顔をさせるのは、やっぱりちょっと、見ていられないというか許せないというか。
少し悔しいような気もする……ような。
うーん。
ここは一度、諸々含めて大賢者に話をしに行った方がいいんだろうな。
もうちょっと一緒にいてやれば?っていうのと……うん、今日の泉でのことと、あの白い影のことも、話しておこう。
これが原因で、後々、リリーが更に危ない目にあったりしたら嫌だ。
王子という、勝手はできても本当の自由はない――こんな複雑な立場の俺の、初めて出来た友人なのだ。
自分の取り越し苦労なら、それでいい。
心配事の芽は、早めに摘んでしまえばいい……それだけだ。
そうと決まれば、と、俺はベッドから立ち上がって伸びをした。
部屋を出て、向かう先は大賢者がいるはずの保管書庫。
もうだいぶ日が落ちて、薄暗い廊下や階段を歩いて、角を曲がる。
目的の部屋の扉が見えてきたと思ったら、きちんと閉まりきっていないその隙間から、灯りがもれているようだった。
……あれ?
どうやらその隙間から、話し声が漏れ聞こえてくるようだ。
女性の声……ってことは、リリーが来てるのか?
そう思ったのに、扉へと近づくにつれて耳に届く声は、彼女のものではない。
……ん、この声って。
聞き覚えのあるような声に、そっと気配を殺して扉に近づき、隙間から書庫の中をのぞき込む。
――は?なんで……。
書庫の中、本棚の影に見えたのは、大賢者の背中と……いつだったか、突然やってきて騒ぐだけ騒いでいた、あの賢者とかいう女の姿だった。
もうほとんど暗くなってしまっている廊下を1人歩きながら、俺の思考はぐるぐると巡っていた。
ローブの裾が、毛足の長い絨毯に擦れて小さな音を立てる。
――先ほどの夕食の席。
隣に座る梨里は、なんだかぼんやりとしていたし、あの猪王子はちらちらと梨里と俺の顔色を窺っているようだった。
表向き平静を装っていた梨里だけれど……彼女から、ふわと微かに湿った匂いがしていたのを覚えている。
記憶の彼方で覚えているような――懐かしいような、そんな緑と水の匂いだった。
あれは、何の匂いだったか……。
そんなことを考えながら、保管書庫に続く最後の角を曲がった瞬間。
それまで淀みなく運んでいた足を、ぴたりと止めた。
廊下の先から漂ってくるマナの気配……その正体に思い当たって、盛大に溜息を吐く。
邪魔された思考を取り敢えず脇に置いておいて、再び廊下の先――保管書庫へと足を動かし始める。
今度は少々荒っぽくずかずかと足を進めて、苛立つことに、こちらを誘うように薄く開いたその扉に、がっと勢いよく手をかけた。
「お、やっと帰ってきたか。イグニスよ」
悪びれもせず振り返り、さらりと広がる銀色の髪。
「……なんでここに居るんだ、ヴィオラ」
不機嫌を隠しもせずに投げかけた言葉に、数百年前から変わらず少女にしか見えない外見の女賢者が、にいと口の端をつり上げた。
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