大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

107.それぞれの夜<3>

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 扉の隙間から覗いているだけでも、なんだか冷や汗が出るような光景だった。

「……そんなこと言って強がるのかえ?独占欲の強いお前らしくもない」
「うるさいな。俺の何処見て言ってるんだ」

 あの女賢者の言葉に、大賢者はずっと苛ついた様子で返事をしている。
 ……前にあの賢者が来たときにも思ったけど、大賢者のやつ、リリーと話す時とは全然違うよな。
 口調もいつもの丁寧な様子から、多少荒っぽいというか、ぶっきらぼうな感じになってるし。
 こっちが素ってことなのか?
 大賢者にリリーの話をしに来たのだが、2人のなんともいえない空気に圧倒されて、結局ドアをノックする勇気も出ずに、ただ立ち聞きをしている状態になってしまっていた。
 いつまでもこの状況っていうのは、ばれたときに怖い気がするし……ああもう、あの女さっさと帰ってくれないかな……。
 と、こんな調子で保管書庫の中にばかり注意を向けていたのが悪かった。
 突然、とんとんと肩をつつかれて、思い切り飛び上がった。
 悲鳴を上げずに、音も立てずその場で飛び上がるだけで済ませた自分を褒めてやりたい。

「わ」

 相手から小さな悲鳴が漏れる。
 振り向いた所で驚いたようにこちらを見ていたのは、肩にアルトを乗せたリリーだった。
 やば……!
 彼女の姿を認めた瞬間、何が、と聞かれると説明できないが、とにかく俺の野生の勘みたいなものが警報を鳴らした。
 この状況を彼女に見られるのは、まずい。
 本能的にそんな風に思って、さあっと血の気が引いていく。
 ……いや、なんで俺が焦ってんだ。
 そんな俺の心などつゆ知らず、彼女は不思議そうに首を傾げ囁き声で尋ねてくる。

「殿下?どうしたの、そんなところで」
「……え、いや、あの」
「マスターに用事があるなら、中に入ればいいのに――」
「あっちょ、ちょっと――」

 まずいまずいまずい。
 何も知らない彼女は、そう言って扉の隙間をのぞき込んで。

「――ぁ」

 保管書庫から漏れてくる灯りに照らされた、彼女の表情が一瞬で凍りついた。

「……あっちゃあ」

 彼女の肩に乗っていた使い魔の黒猫が呻いて、器用に前足で頭を抱えている。
 いやいや、呻きたいのはこっちだっつーの。
 何やってんだよ俺……!
 こうならないように、俺が止めれば良かっただけなのに。

「…………」

 リリーはそのまま、無言でスッと扉から離れた。
 暗がりに戻ってしまったから、彼女の表情が見えなくなってしまう。

「あの……リリー?」
「ごめんなさい。私、戻る」
「え」

 絞り出すような声で、呟くように、早口に。
 彼女はそれだけを言うと、ばっと踵を返して走り去って行く。

「待っ……!」

 その勢いに、使い魔までもが彼女の肩から転げ落ちた。
 引き留めようと伸ばした俺の手は、彼女の袖を掠めて空を掻く。
 踏み出した勢いで、扉の外に飾られていた小さな机をガタッと蹴ってしまった。
 やべ……!
 と思った瞬間。
 部屋の中からバタバタと足音がしたと思うと、目の前で扉ががばっと大きく開かれた。
 ――あ、終わったわ……。
 必死の形相をした大賢者と、恐らく情けなさ過ぎる顔をした俺が、見つめ合うこと数秒。

「……君か」

 全身で息を吐くようにした大賢者が、あからさまにほっとした様子でがしがしと頭を掻いた。
 素顔をさらしたままの大賢者と顔を合わせるのは、かなり久々な気がする。

「いいや、入って」
「え、でも――」
「大丈夫。もう帰った」

 保管書庫の中へと帰って行く大賢者の背中を追って、恐る恐る部屋の中をのぞき込む。
 ぐるりと見回してみても、あのアイスブルーの少女は見当たらない。
 どうやって――なんて、聞くまでもないか。
 あの女も、大賢者と同じくらい長く生きる賢者らしいし。

「適当に座って」

 自分はどかっとクッションに埋もれるようにして、大賢者は天井を仰いでぐったり溜息を吐いていた。
 自分は、近くにあった椅子に腰掛ける。
 そろりと大賢者の様子を窺うと、彼の周囲をほんの僅かのマナの粒子がチリチリと漂っているのが見えた。
 さっきの名残だろう……まだ鳥肌が立っている気がする。
 が、今は我慢だ。
 ここへは、昼間の話をしに来たのだから。
 ……さて。
 ぐてっと伸びきっている大賢者を前に、何から話を切り出していいのかわからない。
 ――と、何か黒いものがどすっと俺の膝に飛び乗ってきた。

「うわっ……びっくりした、お前か」

 それはあの、使い魔だ。
 黒猫の姿をしたそいつは、長くてふさふさした尾で俺の膝を鋭くぺしりと叩くと、何か意味深な視線を向けてきた。

「…………」

 これは、『余計なことを言うな』、と言われている気がする。
 何となくそんな風に受け取って、ひとつ頷いてみせる。
 すると使い魔はふんと鼻を鳴らしてから、俺の膝の上に居座る姿勢を取りつつ、大賢者へと紅い瞳をすがめた。

「おい、何へばってんだよ」
「うるさいな……どうせ見てたんだろ?」
「まぁな」
「だったら理由もわかってるだろ。何も言うな」

 ……何も言うな、と言われても。
 本当に、リリーの事は言わなくていいんだろうか。
 膝にいる使い魔を見ると、黒猫はふるふると首を振った。
 どうやらやはり、先ほどリリーにもあの光景を見られたことについては、何も言わない方がいいようだ。

「……話があって来たんだけど」
「何?」

 黙ったままいるというわけにはいかないので、取り敢えずと口火を切る。

「今日の昼間、ちょっとした事件があって」
「?」
「図書館の庭でさ――」

 もともとこのことを話すために来たんだ。
 そうして、今日の昼間にあの泉であったことを説明していく。
 使い魔がちょくちょく補足をしてくれて、そこまで時間は掛からなかった。

「――というわけでさ。リリーが危ない目にあったわけなんだけど……俺、その時の泉で、アレ、見ちゃったんだよね」
「アレ?」
「うん……ゴースト。女の」
「……え」

 大賢者の目が、微かに見開かれる。
 驚くのも無理はない。
 ゴースト、というのは、魔術でもどうにもならない……場合によっては、魔術師より余程厄介な存在だ。
 そもそもが稀少な存在のため、遭遇することすらほとんどないが……それらに魔術で干渉することはできず、魔術師でも視認できるかどうかはその時々によって、だという。
 そしてゴーストは、何か未練のようなものを持っているために地上に留まっているものであるため、遭遇したらしたで、何かとんでもない事態に巻き込まれるから即逃げろ……なんて言われているほどだ。
 魔術師とは全く違う方法でマナを操るため、危険な存在だとも言える。
 そんなゴーストを見たなんて話は、さすがの大賢者でも驚くものであったようだ。

「……じゃあ、その女のゴーストがリリーに悪さしてるっていうの?」
「うーん……」

 顔をしかめる大賢者に、俺は曖昧に唸ることしかできない。

「なんだよ、はっきりしないな」
「実はさ、そのゴースト……結構前から、この図書館で見ていたんだけど……」

 リリーを危険な目に合わせるような、悪いゴーストだとはどうしても思えないんだよな……。
 腕を組んで、難しい顔で足を組む大賢者。
 俺は、このロランディア図書館に来てからの、あのゴーストとの出来事を語り始めた。





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