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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
116.遠く白い月<2>
しおりを挟むその言葉の、意味がわからない。
私をあの池に落とせなかったことを、ごめんなさい、なんて。
その言い方ではまるで――私を池に落とすことが、良いことみたいではないか。
こんな会話をしながらも、彼女は優しく笑顔のまま。
底が知れない笑顔に、冷たいものが背を滑り落ちるような感覚を覚えた。
「……あの池に、何があるの?」
「あら。思ってたよりずっと……」
「?」
「いいえ、なんでもないわ。そうね……あそこには、鍵が眠っているの」
「鍵……?」
「そう。貴女に必要なものよ」
私に必要な鍵、って……何?
鍵、という単語に、何かひっかかるものがある、ような。
「……貴女との会話、わからないことばかりなんです、けど」
「まぁ……そうよね」
「そもそも、貴女は一体誰なんですか?」
「見ての通りよ、幽霊。ね?」
いや、「ね?」と言われても。
くるりとその場で回る彼女の、ワンピースの裾がふわりと踊る。
薄い霧のように、透明なその裾が重さを感じさせない軽やかさで広がる様に、一瞬見惚れてしまう。
するとそのスカートの裾から、美しい翠の光がふわっと浮かび上がった。
「あっ……」
「ふふ、綺麗でしょう?」
2つ、3つと増えていくそれは、ひらひらと翠の光の粒を舞わせながら彼女の周囲を飛び交う。
それは、蝶だ。
いつだったか、このロランディア村で、図書館で、そして――ミモレの傍で、見かけたことのある、美しい光の蝶。
つい、と伸ばされた彼女の指先に、その蝶がひとひら、優しくとまった。
「私のことはきっと、明日になればわかるわ」
彼女の声に合わせて、蝶がまた、ふわっと飛び立つ。
その蝶に気を取られた一瞬のうちに、彼女の姿が窓際から消えた。
「えっ」
「こっちよ」
刹那、背後から聞こえた声に振り向くと、しっかりと閉まっていた部屋の扉を開けて、彼女が肩越しにこちらを振り向いていた。
「あっ、待って!」
くすり、と笑うと、彼女はそのままゆっくりした動作で、歩き去っていってしまう。
反射的に、私はその背を追いかけた。
彼女は歩く動作をして、しかし滑るように、かなりの早さで前を移動していく。
私が走って追いかけて、やっと距離が保たれるくらいの早さだ。
ぱたぱたと夢中で廊下を走り、階段を駆け下りる。
彼女は度々こちらを振り返り、微笑みを見せながら、ついに図書館の外へと出てしまう。
「待ってってば……!」
いつもの夢見心地なんかじゃない。
しっかりと意識があって、手足も動く。
だからこそ、見失いたくなかった。
階段の最後の数段を飛び降りて、つんのめりそうになりながらもホールを駆け抜け――。
突然、背後からぐっと腕を掴まれた。
「なっ――」
「リリー様!」
強い力に引かれて、振り向かされる。
ぱっと強い光に、目が眩んだ。
「どうなさったんです、こんな夜更けに、そんなに急いで」
「レグルさん……っ!」
大きな手で私の腕を掴んでいたのは、焦ったような顔をしたレグルだった。
眩しく感じたのは、彼の持っていた小型魔道ランタンの光だったようだ。
ハッと扉の方を見れば、閉じかけた隙間から、立ち止まりこちらを見つめる彼女の姿がある。
目が合うと、彼女はまた歩き出してしまった。
図書館の庭の方へと歩いていって扉の隙間から見えなくなってしまうと、焦りに身を捩った。
「離してください、レグルさんっ!」
「待ってください、本当に、一体何が……」
「説明している暇がないんですっ!……ごめんなさいっ」
「あっ……!」
必死で、彼に掴まれた腕を振りほどく。
「リリー様……っ」
背中に掛かるレグルの声に振り向きもせず、図書館の扉に体当たりするようにして外へと飛び出した。
「どこっ」
彼女が歩いていったほうを見れば、図書館の建物の角に、ひらりと翠の蝶が隠れる。
そっちは……っ!
ひゅうひゅうと喉が鳴る。
息を切らしながら角を二つ曲がって、夜の図書館裏――。
宝石池へと続く、あの獣道の入り口に、翠の蝶が飛んでいた。
やっぱり、行き先は宝石池……!
あの池にある鍵って、一体なんなの……っ。
私に必要だという、鍵。
頭の何処かにひっかかる何かがあるような、でもそれが何かはっきり思い出せないもどかしさが、彼女を追いかける私の鼓動に拍車をかける。
それが何なのか、わからないけれど。
私に必要なものだというのなら、私はそれを逃したくない……!
息も整わないままに、私は夜の森の中へと勢い良く飛び込んだ。
「…………ん」
ザフィアの魔術書を前に、思考に耽っていた焔は、ちりりと肌を小さく掠める痛みに、ふと顔を上げた。
この俺の集中力を途切れさせるほどの何かが、あったようだ。
一度集中したら、到底のことでは動じない自負があったのだが……。
何があった?
自分の感じられる範囲で、何が起こったのか探ろうと意識を広げる。
そしてすぐに、気づいた。
「梨里?」
彼女の気配が、何やらおかしい。
階段を駆け下りて――焦ってる?
酷く危うく、激しく揺らめく感情。
そして扉前で、レグルと揉めている。
「一体何をして――」
立ち上がった拍子に、ガタンと椅子が音を立てる。
どうして、彼女の傍にアルトの気配がないんだ?
何かが起きている。
取り敢えず、梨里のところに――。
向かおうと思った、その瞬間。
梨里の気配は、レグルを振り切って図書館の外へと飛び出していた。
「っ!」
こんな、夜も更けた時間に――。
慌てて後を追おうと駆け出しながら、ライオットから聞いた話を思い出す。
「――泉か!」
またあの幽霊が、梨里に何かちょっかいを出しているのかもしれない。
梨里が危ない。
そう思ったら、かっと体温が上がった気がした。
ふわり、視界に紅い光の粒が舞う。
廊下を駆け抜け、――途中レグルに声を掛けられた様な気がしないでもない、けれど――開いたままの扉から外へと駆け出す。
むわ、と夏の湿った暑い空気が全身を包む。
迷わず図書館の裏へと駆け、夜の森へと飛び込もうとしたところで、それを見つけた。
「――っ」
獣道の入り口、茂みには、見覚えのあるカーディガンが引っかかっていた。
取り上げると、ふわりと優しい――すっかり馴染んだはずの、彼女の香りがする。
梨里……っ。
カーディガンを握りしめ、森へと飛び込んだ。
がさがさとかき分ける茂みの葉や小枝が、服のあちこちに引っかかる。
顔にも枝が当たったような気がしたけれど、夢中で前だけを見て走った。
――間に合ってくれ。
あの子が、危ない目に合う前に。
「!」
獣道を走って数分と経たないうちに、ほぼ暗闇の中でも分かる、黒髪が揺れるのが見えた。
届け、と。
彼女の背へ、祈るように手を伸ばす。
「――梨里っ!」
伸ばした手が、ぎゅっと彼女の腕を握りしめ――力一杯、その身体を引き寄せた。
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