大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

117.遠く白い月<3>

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 必死に走っていたら、突然後ろから強く腕を引かれ、誰かにぎゅっと抱きしめられた。

「――っ、離して!」

 だめ、あの人を見失ってしまう!
 焦りから、一度はそれを振り払って走り出す。
 けれどすぐにまた、その誰かの腕に捕まってしまった。

「だめっ見失っちゃう――!」
「梨里!」

 耳元で、大きくはなくとも強く呼ばれた名前。
 その声を、聞き間違えるはずもない。

「えっ?!」
「……来て」

 驚いて抵抗をやめた私の腕を掴み、その人影は強い力で私を引っ張って歩いて行く。
 元来た道を戻りつつ、私は混乱したままその人の背を見上げた。
 ……焔さん、だよね?
 あの声を、聞き間違えるはずはない。
 しかし、頭上に生い茂る木の葉の隙間から差し込む月明かりに、ちらちらと映るその人は、ローブも羽織らず軽装だった。
 背が高く、線が細く、背中に少し長めの黒髪が揺れている。
 ――息が、苦しい。
 先ほどまでの全力疾走のせいで、呼吸が苦しい。
 しかし彼は、息を整える暇もくれないままに早足で歩いて行くから、私は半ば引きずられるようにして、強制的に足を動かすしかない。
 がさがさと茂みをかき分け、私たちはやっと、明るく開けた場所に出た。
 空には、明るい月。
 今更になって今夜が、とても明るい夜だと気づいた。
 少し眩しくさえ感じる月明かりの中で、私の手を引く男性を見上げる。

「――焔、さん」

 月明かりの下、こちらを振り返ったのは、間違いなく彼本人だった。
 色々聞きたいことはあるのに、まだまだ呼吸が苦しくて、まともに話すことも出来ない。
 どうしてローブも羽織らず、こんな夜中に外にいるのだろう。
 誰かに顔を見られてしまうかもしれないのに。

「……は、はぁ、……ふー」

 乱れた息はまだ整わない。
 膝に手をついて前屈みになっていた私が、ふと顔を上げた、その瞬間。

「わふ……っ」

 がばっと正面から抱きしめられて、一瞬視界が真っ暗になる。
 息を切らしながら情けない声を上げた私を、焔さんはぎゅっと力を込めて抱きしめてきた。
 な、何事……?!
 突然のことに、頭が真っ白になる。

「え、ちょ、あの……」

 わたわたしている私に覆い被さるように、焔さんはただぎゅっと、その腕に力を込めた。
 焔さんは、とても背が高いから……こんな抱きしめられ方をしたら、身長の低い私はすっぽりと収まってしまい、身動きが取れない。
 ほとんど仰向くような姿勢になった私の目の前に、焔さんの肩があった。

「……」

 その肩が、小刻みに上下している。
 耳に聞こえるのは、短く細かい息づかい。
 ……焔さんも、息をきらしてる?
 ますます状況がわからない。
 やがて、焔さんが大きく一つ溜息を吐くと、やっと口を開いた。

「……こんな時間に、何してるの」

 初めて向けられる低い声に、怒鳴られたわけでもないのにびくりと身が竦んだ。

「えっ、と……」

 月を背にした焔さんの表情は、見えない。
 ……どうしよう。
 結局焔さんには、まだ宝石池であったことも、夢のことも話してはいない。
 あの女性を追いかけていた、ってことを、どうやって説明すればいいのか。

「何、してたの」

 答えあぐねて黙っていると、また焔さんの低い声が尋ねてくる。
 怖い。
 本能的な怖さを感じて、一歩後ずさる。
 すると一歩、焔さんもこちらに足を踏み出してきた。

「……え、っと……あの、追いかけてて」
「うん」
「その、……この前も、会ったんです、けど……」
「うん」
「……ええと……」

 だめだ、頭の中がごちゃごちゃで、なんて説明したらいいかわからない。
 それに……怖い。
 影になった表情は今もわからないけれど、焔さんの視線を痛い程感じて、それが怖くて……まともに顔を見ていられなくなった。
 ひとつ、震える息を吐き出して、俯いたまま応える。

「……部屋に女性のゴーストが来たんです。それを、追いかけてました」
「こんな、夜更けに?」
「はい」
「君ひとりで?」
「はい」
「……どうして僕を呼ばなかったんだ」
「そ、れは……。呼びに行く暇が、なくてですね……」
「それでも。自分ひとりじゃ追いかけてもどうにもならなかっただろう?君にできる最善のことは、僕に知らせに来ることだったはず」
「……はい。すみませんでした」

 覆い被さるのをやめてくれた焔さんだけど、未だその身体は抱き合っているのでは、と思う程に近い。
 焔さんの胸元に置いた手の平からは、早い鼓動が感じ取れる。
 もしかして、私を心配して……?
 そろり、と私が視線を上げるのと同時。

「……チッ」
「?!」

 焔さんの方から、小さい音が聞こえて私は耳を疑った。
 ……え、ちょっと……今のって、舌打ち……?
 いやまさか。
 いつも紳士的な焔さんが、そんなこと――。

「……君はどうして何も言わずに行動してしまったんだ。それで危ない目にあったりしたら、取り返しの付かないことになる可能性だってあるだろう?」
「すみませ……」
「まったく、僕以外の人に魔術を習うって決めた時だって、僕に事前の相談なかったよね?それに、宝石池でゴーストから悪さされて、危うくな事態になったことだって、なんで言ってくれないの?そういうこと、言ってくれなきゃ僕だって対処のしようがないじゃないか」
「えっ」

 宝石池で……って、なんで焔さんが知ってるの?
 私何も、話してないのに。
 焔さんは、珍しく少し苛ついた様な口調で言葉を続けていく。

「夜だって、こっちの世界に居るなら前みたいに会いに来ればいいのに、本を読み終わったら全然来なくなるし。何でも自分で決めちゃって、相談も何もないって良くないと思う」
「それは……焔さんだって、忙しくされてたじゃないですか」

 一方的に言われる言葉を、受け止めるだけでなんていられなくなって、私も反論する。
 夜に会いに行くことは、私だって結構悩んだのだ。
 調査の邪魔をするんじゃないかって。
 それに、宝石池のことだって、自分からちゃんと話すつもりでいた。
 けれどあの夜は、焔さんとあの女性が一緒にいたから、結果的に話せなくて。
 色々、沢山、考えて悩んで――私も大変だったのだ。
 それは分かって欲しい、と顔を上げ、訴えようとする。

「私だって、色々考えて――」
「考えて?考えるだけで相手に相談しないのは、独りよがりじゃないか。君がどんなことを考えてるかも、僕は知らない」
「確かにそう、です。相談しなかったのは悪いと思ってます。でも――」
「でも、何?ああ、僕が忙しくしてたって?確かに調査のための出張だし、忙しくはしていたけれど、でも、君と話す時間くらいは取れた。君が来てくれたら、いつだって時間を作ったのに」

 私に対して、こんな風に責めるような話し方をする焔さんは初めてだ。
 段々と暗闇と月光になれてきた目に、焔さんの不機嫌そうな表情が映る。
 反論する私の言葉は全然聞いてもらえなくて、焔さんはずっと私への不満ばかりを口にする。
 それを聞いていたら、さすがの私も少し、苛立ってきた。
 ――私だって。
 そんな気持ちが、むくむくと心の中で膨れていく。
 最初から、私を気に掛けてくれていたら……一言、言ってくれていたら、私だって、毎晩会いに行っていた。
 あの夜、向かった保管書庫内であの女性と焔さんが会っていなかったら、宝石池であったことや、ゴーストの彼女のことも……私からちゃんと話をしていた。
 私の気も知らず、焔さんは大きく溜息を吐いて言葉を続ける。

「ああもう。梨里さん、君は僕の秘書でしょう?上司は僕だ。今までだって沢山の事を教えてきたし、君もちゃんと仕事をこなしていた。なのに……どうして今になって、僕以外から魔術を習い始めたり、大事なことを話さなかったり、勝手なことを始めたんだ。君のこと、信用していたのに」

 その一言が、思いのほか大きく、体中に響き渡った。
 がっかりした、とでも言いたげな、溜息交じりの一言。
 それに、私の中の何かが弾けるような感触があった。
 そうして生まれたどろりと暗いそれが、胸の中にじわりと溶け出す感覚。
 一度流れ始めたそれは、もう――止めることもできなくて。

「――っなんですか、それ」
「うん?」
「なんで、そんなこと言うんですか……っ!」

 気がつけば私は、手を置いていた辺りの焔さんのシャツをぐしゃっと握りしめて、大きな声を出していた。




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