大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

141.白夜、想いの色

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「――っ」

 息を吸ったはずなのに、息苦しいのは何故だろう。
 誰かに告白されるなんてことは初めてで、驚きに鼓動が跳ね上がる。
 彼の気持ちは嬉しいけれど……私の気持ちは、今背後にいる焔さんへと向いている。
 自分の気持ちはこんなにも明らかで。
 ――伝えなくちゃ。
 目の前にいる、私に想いを向けてくれた相手に、私も真剣に向き合わなければならない、と強く思った。
 もう一度、大きく深呼吸をして、目を開く。

「……レグルさん」
「はい」
「そんな風に思って頂いて、ありがとうございます。とても、嬉しいです」
「――っ、では!」

 ぱっと顔を明るくした彼から、今度こそ自分の手を引き戻して、私は深く頭を下げた。

「嬉しいけれど、私……貴方の気持ちに、応えることができません。申し訳ありません」

 頭を下げている間は、レグルの表情はわからない。

「…………」
「本当に、ごめんなさい」

 これが、私からの精一杯の誠意。
 彼はほんのわずか沈黙した後、小さく息を吐き出した。

「顔をお上げください、リリー様」

 優しい声に、素直に顔を上げる。
 再び見えた彼は、ほんの少し残念そうにしながらも、微笑んでいた。

「……どなたか、心に決められた方が?」
「一方的にですが、想っている方がいます」
「そうでしたか」

 私の答えに、レグルは満足したように頷いて、胸に手を当て目礼した。

「正直にお答えくださいまして、ありがとうございます。……よろしければ、お手紙をお送りしても?」
「是非。また面白い本や魔術について、教えてください」
「はい。お引き留めして、申し訳ありませんでした。お気を付けて」
「レグルさんも、お元気で」

 私は、きちんと振る舞えているだろうか。
 動揺を押し殺して、友人から教えられた通り、淑女として背を伸ばし、凜と立てているだろうか。
 こんな時、何度もそんなことを考える。
 別れの挨拶をして振り返り、立ったままじっとこちらを見ている、焔さんへと向き直った。
 その表情は、目深に被ったフードの影になってわからない。
 ぎゅ、と、胸が少しだけ痛んだ。

「マスター、すみません。お待たせしました」

 そう声を掛けて彼の元まで走って行くと、彼は僅かに首を傾げた。

「もう話は済んだの?」
「……はい」
「そうか。じゃあ行こう」
「……は、い」

 いつも通りの声の調子で、いつも通りの仕草で。
 焔さんは、まるで何事もなかったかのように、歩き出している。
 数歩遅れてその背を追いかけながら、私はほんの少しだけがっかりしていた。
 ……がっかりって。
 自分は一体、焔さんに何を期待していたのだろう。
 そもそも、彼に相手にもされていないのに。
 そんなのは、ずっと前から分かっていたはずなのに。
 さっきのレグルの告白について、何か言って欲しかったのだろうか。
 妬いたような一言でも、期待していたのだろうか。
 ずぶずぶと思考の沼にはまっていく感覚。
 それでも、足は動かしている。
 ――馬鹿な私。
 焔さんとお付き合いしているわけでもないのに、そんな『何か』を期待して、勝手にがっかりするなんて。
 こんなことじゃ、焔さんに呆れられてしまう。
 気持ちを切り替えようと、軽く目を閉じて深呼吸する。
 よし、と小さな呟きを零す頃、気がつけば私たちはもう、見慣れたリブラリカの最奥禁書領域へと戻ってきていた。
 私の机がある場所まで来た焔さんは、ローブを被ったまま肩越しにこちらを振り返る。

「さて、と。まだ早い時間だけれど、今日はもうこれで解散にしようか」
「え、お仕事は……」
「大丈夫。国王への報告は、書状で済ませてあるし、残りも僕が処理する書類が少しあるだけだから。梨里さんも疲れてるでしょう?食堂に行くなり、書架に行くなり帰るなり好きにしていいから、仕事はまた明日からってことで。いいね?」
「わかりました……」
「うん、それじゃあまた明日」
「はい、また明日」

 少しだけ、いつもより強引なような気もしたけれど、上司にこう言われてしまっては仕方がない。
 焔さんはひらりと軽く手を振ると、最後までローブを被ったままで、書架の間へと去って行ってしまった。





「…………はぁー……」

 ぱたん、と背後で自室の扉が閉まってから、特大の溜息を吐き出した。
 やっと、ひとりになれた……。
 ふらふらと長椅子に向かう途中で、ばさっとローブを脱ぎ捨てる。
 軽くなった身体でクッションへと飛び込めば、どっと全身の力が抜けていくのを感じた。
 アルトは梨里について行ったし、これで本当にひとりだ。

「……あー……」

 クッションに埋まったまま、情けないような呻き声を上げる。
 強制的に真っ暗になった瞼の裏には、先ほどの光景がまだちらついていた。
 ――走って追いかけてきて、梨里を呼び止めて。
 彼女の両手を握って、好きだと――梨里のことを慕っていると、真っ直ぐに伝えたリヒトー・レグルの真剣な表情。
 驚いたように肩を強ばらせていた、梨里の背中。
 思い返す度に、胸の辺りが激しくざわついて苦しい。
 ぎゅっと胸元のシャツを、皺がつくのも構わず荒っぽく握りしめる。
 そんなことをしても、胸のざわつきは一向に収まらない。
 あの時。
 あのレグルの告白の瞬間から、自分を保つことに必死になっていた。
 激しい苛立ちに、溢れそうになるマナを必死に抑えて。
 その苛立ちは、梨里がレグルへ断りの気持ちを伝えた後も、続いていた。
 彼の告白に、頭が真っ白になるほど驚いて――苛立ちを必死に抑えて、梨里の答えに、ほっとしたのもつかの間。
 レグルと梨里の会話にまた、胸が激しく波打った。
『――……どなたか、心に決められた方が?』
 レグルの言葉に、梨里は。
『一方的にですが、想っている方がいます』
 そう、そう答えたんだ。
 クッションを引き寄せる腕に、更に強く力を込めた。
 ――梨里が誰かを、一方的に想っている。
 その事実が、何よりも激しく俺の心を揺さぶった。
 彼女と長く一緒に過ごすうち……勝手に、彼女は自分のことを一番に考えてくれている、と思い込んでいた。
 彼女と一番親しいのは、近しいのは自分だと、根拠もなく思っていたことに気づかされた。
 でも……彼女は、誰かに想いを寄せているのだという。
 それが、俺であったなら――。

「――っ!」

 そこまで考えて、がばりと身を起こした。

「……俺は何を、馬鹿なことを考えて……」

 長椅子の上、行儀悪く片膝を抱えて座り込みながら、頭を抱えた。
 ――ほんの一瞬とはいえ、今俺は――何を。
 何を考えた?
 ぎり、と噛み締めた奥歯から軋んだ音が鳴る。
 本当に……何を馬鹿なことを。
 俺は、あの時決めたじゃないか。
 これから先の年月、誰も愛さない、と。
 覚悟を決めたあの誓いを、忘れるわけにはいかないんだ。

「……梨里」

 ぽつり、と呟いた声は固く、感情の色はない。
 胸ポケットから取り出したのは、美しいマナペン。
 純白の軸に、透明な宝石。
 いくつかの星の彫刻が施された、まるで白夜のようなマナペンだ。
 彼女が選んでくれたそれを、優しく握り、祈るように額に押し当てる。
 きつく閉じた瞼の裏には、彼女の笑顔が浮かんでいた。




 誰もいない自室にひとり。
 頭を抱えて、肩を震わせる青年の拳は、爪が食い込み、真っ白になるほどに強く、握りしめられていた――。





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