大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

147.月の下、迷うのは

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「ちょおっとぉ、オリバーちゃん!」
「無駄だよラガート。もう聞こえてないって」
「んもう……。最近毎日こうなんだから」

 オルフィード城下街、大衆酒場ダックスビーク。
 あひるのくちばし亭という名前で親しまれているこの店で、カウンターに頬杖をついた大男、マスターのラガートの正面では、赤毛の青年が酔い潰れてテーブルに突っ伏していた。
 女将であるシェリーが、オリバーの前からグラスや皿を片付けながら、呆れたように大きな溜息を吐いた。

「もう、ここんとこずっと毎晩こんな感じよね。オリバーどうしたのかしら」
「本当よねぇ……こんな馬鹿な飲み方、する子じゃなかったのに」

 体格の良いラガートが、しなを作りながら溜息を重ねる。
 少し考え込んだ後、シェリーはオリバーの隣の椅子に腰掛け言った。

「やっぱり、前に話してたやつなのかな?ほら、婚約がどう、とか……」
「やだ、オリバーちゃんったら失恋なの?!」
「しっ!」

 つい大きくなったラガートの声に、シェリーが慌ててその禿頭をひっぱたく。
 しかしオリバーは、それでも僅かに身じろぎをしただけで、そのまま眠り続けているようだった。

「よっぽど疲れてる……いや、違うわね。連日酔い潰れるまで呑んで、もういっぱいいっぱいなのねん……」
「こんな良い子が、どうしてこんな風になっちまうんだか。……お貴族様ってのは、本当に……」

 ラガートとシェリー、夫婦で心配そうな視線を向けられても、突っ伏して寝続けるオリバーが起きることはない。
 シェリーはそっとその背にブランケットを掛けてやろうとして、ふと、オリバーの着崩している制服にだいぶ余裕ができていることに気づいた。

「こんなにやつれて……。何がオリバーを、こんなに追い詰めてるんだろうね」

 他の客が帰ってしまった、深夜のあひるのくちばし亭。
 二人は静かに店じまいをしながら、オリバーのことを起こすことなく見守ってやっていた。





 コンコン。

「……はい」

 静かなノックの音に振り返ると、侍女がひとり、燭台とトレイを手に部屋へと入ってきて、頭を下げた。

「夜分遅く失礼いたします、お嬢様。本日、こちらがお嬢様宛に届いておりました」
「……ありがとう。そこに置いて」
「はい。……失礼いたします。おやすみなさいませ」

 侍女は、手紙を乗せた銀のトレイをテーブルの端に置くと、すぐに部屋を出て行く。
 ようやく帰宅して、これから寝ようとしていたところだった。
 机の上の魔道ランプだけが、頼りなく揺れる部屋の中。
 寝間着が衣擦れの音を立てるのを聞きながら、トレイに乗せられていた上質な紙の封筒を手に取る。
 封蝋の紋章を見れば、それがどこから送られたものかなんて、ひと目でわかった。

「…………はぁ」

 小さく漏れた溜息を連れて、机ではなく、窓際に向かう。
 指先で撫でた封筒は、魔術ですっと開封される。
 中から取りだした便箋から、ふわりと花の香りがして――その香りに気づいた途端、胸のあたりがざらついた。
 開いた便箋に、肩から滑り落ちた金髪がさらりと触れる。

 ―― シャーロット・ロイアー嬢
    以下に、婚約披露の場として開催する、パーティーの詳細について記載を ――

 そこまで目で追って、すぐ耐えきれなくなって視線を逸らした。
 ……胸が、痛い。
 とん、とカーディガンを羽織った肩が、窓枠に触れる。
 窓の外、夜空を見上げれば、そこには綺麗な月があった。
 ――ああ、今夜は月が明るいわね。
 今頃彼も、同じ月を見ているのだろうか。
 もう何日、リブラリカに来ていないのだろう。
 何処で何をしているのか……。
 手には、王子との婚約披露パーティーに関する手紙を握っているというのに、考えるのは、全く別の男のこと。
 傷ついている自分。
 ……そして、恐らく、傷つけただろう彼のこと。
 一緒になって悲しんでくれた友人。
 彼女に背後から抱きしめてもらった温もりを思い出して、空いた手で自分の肩に触れた。
 閉じた瞼の裏にも、月の明るさを感じる。
 ――ああ、今夜も私は、眠れないのでしょうね。





 むくり、と。
 灯りの消えた部屋の中、豪奢なベッドの上に、身を起こした影があった。
 成人男性が5,6人は余裕で寝そべることが出来そうなほど、広いベッド。
 びっしりと繊細な刺繍が施された上掛けを、男性の手が避けた。

「……あー、今、何時だ?」

 小さな声が呟いて、暗闇の中、ベッドに座り込む男性が、瞼を開ける。
 光のない天蓋の影でも、その相貌は鮮やかに美しい紫色に輝いた。

「……ふむ」

 意識を凝らしてみると、身の内にあるはずの、「本来の彼」は深く眠っているようで、覚醒しそうにない。
 ひたり、と裸足の彼の足が、床に下ろされる。
 月明かりに惹かれるように歩いていった窓際で、彼は躊躇うことなく窓を開け、バルコニーへと出て行った。

「あれ、懐かしい。ここ、城じゃないか」

 再び独り言を呟いて、さわりと頬を撫でたぬるい夜風の中、うんと伸びをする。

「目が覚めてから、どのくらい経ったのかな。ロランディアから王都に戻ってきた……うん、それならまた、色々とやりたいことが……」

 ぶつぶつとしゃべり続ける男性の背後で、扉が控えめにノックされた。

「失礼いたします、ライオット王子殿下。物音がいたしましたので……お目覚めでしょうか?」

 寝て居るならば邪魔をしないように、と配慮された、抑えられた声。
 恐らく、護衛の騎士のものだろう。

「ああ……あー、うん。気にするな。何もない」
「承知致しました。何か必要なものが御座いましたら、お呼びください」
「わかった」

 適当に返事を返したが、特に怪しまれることもなかったようだ。
 面倒ごとは、少ないほうがいい。
 再び、バルコニーの手すりに寄りかかりながら、夜空を見上げた。
 ……こうして見る星空は、月は、感じる風は……昔と何も変わらないのに。
 もう、あの幸せだった時代は、遠い遠い過去の出来事に成り果ててしまった。
 こうして王子の身体を動かしていると、何ともいえない、不思議な感覚がもどかしい。
 自分はここにいるのに、いつも傍にいた人たちは……もういないのだ。
 ライオット王子の腕を上げたザフィアは、その手を月へと伸ばした。

「さて……何から始めようか」

 そう呟いて、見上げた月を握りしめるように、拳を固く結ぶ。





 ――恋に悩める青年は。
   運命に嘆く彼女は。
   数百年の刻を越えて、ひとつの想いを掲げる王は。
   美しい月の下、
       それぞれの想いに、夜空は沈黙を湛えていた。





第2章、終

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