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第3章 美しき華炎の使者
149.戻ってきた日常
しおりを挟む「よい……しょ、っと」
どさり、と重い音を立てて、一抱えはあるバスケットを机の上に置いた。
いつもの執務机の上に、どんと鎮座するバスケット。
中身はなんと、大量の妖精避けポプリである。
いつの間にか、上達しきってしまった妖精避けの薬草の調合と、ポプリ作り。
いくらこの世界の図書館司書にとって当たり前の仕事だとはいえ、さすがにこの量を短期間で、しかも何度も大量生産していれば、嫌でも手慣れてくる。
バスケットの中、ひとつひとつは手の平サイズの小さなポプリなのに、何百個と山を作っていると、香りももの凄い。
作業をしている合間にすっかり嗅ぎ慣れてしまった香りに、腰に手を当てて盛大に溜息を吐いた。
「んー……疲れた。やっと終わったよー……」
「お疲れ。いやー、ほんと頑張ったな」
長椅子でぐったりしながらそう返答したのは、黒い猫の姿をした、宝石のように美しい紅い瞳を持つ大賢者の使い魔。
液体のようにクッションの上で溶けている姿に、思わず苦笑いが漏れた。
「アルトもお疲れ様。手伝ってくれて本当に助かったよ」
「これぞ本当の、猫の手ってな」
「あはは。……うーん、それにしても、ほんとに急に増えたよね」
「そうみたいだな。ったく、面倒くせー」
急に増えた、というのは、図書館に出没する妖精のことだ。
ロランディア村での怒濤のような出張を終えて、こちらへ帰ってきてすぐのこと。
リブラリカ副館長として、シャーロットから焔さんへ、ある嘆願書が提出されたのだ。
「ここ最近になって、急に増えたって聞いたけど……」
本当に突然のこと、だったらしい。
私たちがリブラリカに帰ってきた翌日から、書架や禁書庫、作業室に現われる妖精の数が急に増えたのだそうだ。
図書館に出没する妖精というのは、大まかに2種類に分かれる。
ただ単に、本が好きで寄ってきて、害をなすわけでもなく居座る妖精。
それ以外は、本が好きか嫌いか、本に悪戯をするために寄ってくる妖精たちだ。
普段は妖精避けのポプリのお陰で、居座る妖精たちはほんの僅かしか見られないし、悪戯をする妖精たちは、出没したとしてもせいぜい月に1、2回といった具合だった。
それがここ数日は、毎日のように10匹以上の悪戯好きな妖精たちが問題を起こし、司書たちが対応に追われ走り回っている。
さらに、害がないはずの居座りタイプの妖精も、急激に数が増えたため、書架の邪魔になっているということだった。
実は今朝も、出勤してくるまでに、この最奥禁書領域内で悪戯好きな妖精2匹と遭遇し、アルトが撃退した。
居座り型の妖精たちも、この領域内で点々と群れて小山を形成していたりするから、本当に驚いたものだ。
焔さんの管理する、彼のための広大な結界書架――この最奥禁書領域内で、こんなに妖精を見かけるなんてことは、今までなかった。
どうしてなのか、なんてことは……相手が下級の妖精なので、聞いても答えなど返ってくるはずもないから、わからない。
まぁ、わかるはずのないことをいつまでも考えているより先に、今はやらなければいけないことがある。
いつだって、まずは目の前のお仕事優先だ。
「さて、みんな待ってるよね。届けに行かないと」
本日の私の仕事は、これらの大量の妖精避けポプリを、図書館内の各所に届けること。
もう一度、袖を捲って気合いを入れ直し、重いバスケットを両手で抱え直した。
「おー。頑張れがんばれー」
「アルトも一緒に行くのよっ」
「はぁ……かったりーなー」
「あ、ちょっと」
ぶつぶつと文句を言いながら、アルトは再び猫の形に戻ると、私の肩にひらりと飛び乗ってきた。
ずるい。私だって楽したいのに。
しかし当猫は、私の非難がましい声にもつんと知らん顔をして、肩に腰を落ち着けている。
仕方ないと諦めて、私はバスケットを持ち歩き出した。
向かう先は、最奥禁書領域の端。
この領域と外の世界を繋いでいる、扉が沢山並ぶ場所だ。
通り慣れた扉を選んでくぐればそこは、リブラリカ館内にある応接室のひとつ。
この部屋で、毎日のように淑女のレッスンを受けていたのが懐かしい。
応接室から廊下へと出れば、そこから見える中庭は、すっかり様子を変えていた。
ついこの間まで、青々とみずみずしい色の葉と、色鮮やかな花が眩しかったそこは、すっかりと印象が変わっている。
ぽつぽつと膨らみ、開きかけの花たちは温かみのある色合いのものが多く、茂る草葉も少し霞が掛かったような、落ち着いた色のものばかり。
「……もうすぐ、秋になるのね」
ぽつりと呟いた梨里の頬を、さらりとした涼しい風が撫でていった。
廊下沿いに、作業室、禁書庫、貴族専用窓口……と、各職場に予定されていた数のポプリを届けていく。
「ああ……リリー様!ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「……い、いえ……」
中でも禁書庫担当職員は、泣きながらその場に崩れ落ちんばかりの勢いで何度も頭を下げてくるので、少し……いやかなりやりづらかった。
やっと辿りついた、最後の届け先――一般書架へと通じる扉の前で、梨里は一度立ち止まり、深く深呼吸をした。
……正直なところ、この先にはあまり近づきたくないのだが……。
これも仕事。
仕方がないと割り切るしかない。
「……大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
気遣わしげなアルトの声に頷いて、私は扉の前にいる警備のための騎士たちに会釈をして、扉を開いた。
燦々と降り注ぐ陽の光は柔らかく、吹き抜けの広い書架はとても気持ちが良い。
国立大図書館リブラリカ、その一般開放区域。
オルフィード国が誇る、大陸いちの大図書館の、一般書架、メインロビーだ。
そんな素晴らしい空間へ、コツ、と踏み出した靴音が小さく響いただけで、何十もの視線が一気にこちらに突き刺さってきた。
「…………」
『これ』が、嫌だったのに。
思わず盛大に溜息を吐いてしまいそうになるのを、ぐっと堪える。
視線なんて何も気になりません、といった涼しい顔を保ちながら、カウンターへと歩いて行き、中にいた顔見知りの職員に声を掛けた。
「ポプリ、お届けにきました」
「リリー様、わざわざありがとうございます。ええと、そちらの籠にお願いできますか」
「はい」
気にしないように、気にしないように……。
バスケットから指示された籠へ、ポプリを移す間も、背中には痛い程の視線が突き刺さる。
この現象は、私たちがリブラリカに帰ってきて翌々日くらいから始まった。
――あの大賢者様と、その秘書が出張から帰られたらしい――。
王太子の婚約話の裏側で、そんな噂が流れたと思ったら、こんなことになった。
この鋭い視線を送ってくる人たちというのが、本来なら一般書架になんて来ることのないような、貴族令嬢、令息の方々だ。
以前、王宮の舞踏会でダンスを踊った焔さんと私を見て、隙あらば会って話をしたい、と――そんなことを考える人たちが、未だ後を絶たない。
踊っている最中に、ほんの僅かな時間素顔を晒してしまった、あの大賢者イグニスの美丈夫ぶりに熱を上げる令嬢たちや、恐らく大賢者との繋がりを作りたいがためだけに、私とお近づきになろうと考える令息の方々が……という、ことらしい。
全く、今はシャーロットのことで悩むのがいっぱいいっぱいだというのに。
……まあ、ね。確かにね。焔さんは、本当にかっこいい人だから……女性たちに騒がれるのも仕方ないというのは、私にも理解できるけれど。
焔さんという権力のためだけに私に近づこう、という男性たちについては……うん、どんな目的があろうと、一切お断りだ。
そして、実は今の私にとって、このふたつの他に、さらなる悩みごとが追い打ちをかけるように頭痛の種になっている。
その『さらなる悩みごと』の事態にならないためにも、今は一秒でも早く、ポプリを渡し終えて、素早く職員通路へと戻らなければ。
「……、よし。個数も確認しました。私はこれで失礼します」
「はい、ありがとうございました、リリー様。……お気を付けて」
職員さんの気遣いに見送られ、足早にカウンターから出て歩き出した――その背に、やはり声を掛けてくる人がいた。
「あの、リリー様!」
「…………」
一度目は、聞こえないふり。
少し毛を逆立てて警戒したアルトを肩に乗せたまま、走らないように、足を素早く動かすことに集中しようとするけれど……突然目の前に、3人の貴族男性が現われて驚いた。
職員通路へ向かおうとする私の進路を塞ぐように立つ男性たちに、仕方なしに足を止める。
そうすれば、先ほど背中に声を掛けてきた人物が、追いついてきたようだった。
「その上品な葡萄酒色の制服、大賢者様の秘書でいらっしゃる、リリー様でお間違いありませんか?」
……前後を挟まれてしまって、私が足まで止めてしまえば、もう相手するほかない。
私は、嫌だという気持ちが顔に出ないよう、表情筋を必死に微笑みの形へ動かした。
「ええ、私はリリーと申します。マスターの秘書で間違いございません」
彼らが私に話し掛けてきたことによって、先ほどまでより容赦ない視線が突き刺さるのを感じる。
「何か、私にご用でしょうか?」
このリブラリカで働いている職員として、また焔さんの秘書として、恥ずかしくないように。
教え込まれた淑女としての作法を守りながら、控えめに問いかけた。
男性たちはにや、と目配せし合い、ほんの僅か笑みを深めると、私に向かって軽く頭を下げてみせた。
最初に声を掛けてきたひとりが、こちらへと手を差し出してくる。
「ああいえ、ご用という程のことでは。麗しきご令嬢へ、ご挨拶差し上げる栄誉を頂きたいと……」
つまり、貴族の挨拶として、手の甲へキスをさせろ、ということらしい。
……ああもう。だから、厄介なことになってしまうからやめてほしい。
「私はリブラリカで働くいち職員で御座いますので、光栄ですが、ご挨拶については遠慮いたしますわ。今も、仕事の途中ですので失礼させて頂きます」
丁重に、はっきりと断って、小さく頭を下げて踵を返す。
3人の男性を避けて脇を通り過ぎようとしたところに、小さな舌打ちが耳に届いた。
「ちょっとお待ちを――」
まずい、と思ったのは一瞬。
振り返りかける私を捕まえようと、男性たちが手を伸ばしている様を、視界に認めるのと――ほぼ同時。
自分を中心にして、ふわりと紅いマナの粒子が立ち上るのを感じて、私は諦めに目を閉じた。
「ああ、ここに居たんだね。リリー」
しゃら、と、聞き慣れた飾り同士の擦れる音。
閉じた視界の外、柔らかく私の腰を抱き寄せ、寄り添うように現われた彼の体温。
きゃあああ、と、図書館内だというのに響き渡った、令嬢たちの黄色い歓声。
――こうなるから、厄介ごとには遭いたくなかったのに……!!
心の中で地団駄を踏んでも、もう遅い。
観念して目を開ければ、至近距離に想い人の優しい微笑み。
『さらなる悩みごと』――その元凶である彼が、私を庇うようにして出現していた。
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