大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第3章 美しき華炎の使者

154.酒と男と、夜話を<1>

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 もう、ここ数日……ずっとこうだ。

 寝て起きて、この店に来て、酔い潰れるまで強い酒を飲む。

 自分が、現実から逃避しているだけなんだって……嫌になるほどわかっている。

 それでも今は、他に何もする気力が沸かなくて……そんな自分からも、屋敷の使用人たちの視線からも逃げるように、今日もここに来て、何杯も酒を煽っていた。



「…………」



 時折、マスターからの心配そうな視線を感じるけれど、もう最初の時ほどうるさく言ってくることはなくなった。

 何を言われても同じことを続ける俺に、愛想を尽かしたんだろう。

 少し乱暴にテーブルに置いたグラスの中で、丸くカットされた氷が、場違いなほど涼やかな音を立てる。

 じっと見つめると、酒で濡れた氷がきらきらと店内の光を反射して……。

 酔いが回っていたというのもあるけれど、その光にあいつのことを思い出していたから、また新たにやってきた客が、まっすぐに俺の隣の席に腰掛けたのにも、気づくまでに数分かかった。



「やあマスター」

「あら?貴方、確かオリバーちゃんの……」

「うん。彼と同じもの、頂けるかな?」

「勿論よ、ちょっと待ってね!」



 そんな会話が聞こえてくる。

 マスターの声が嬉しそうなのが、気になった。

 なんだ、隣に座ったの……俺の知り合いか?

 こんな酒の飲み方をしているうちは、友人たちはみんなそっとしておいてくれたってのに……。

 かなり億劫に感じたが、顔を上げて隣が誰なのか見てやろう、と思った。

 ゆっくりと上がっていく視界の中で、隣のやつは足下からずっと、黒い上質なローブが続いていて……。

 ……ん?あの装飾、見覚えがあるような。

 ったく、こんな大衆居酒屋に、こんなずるっずるのローブなんか着て来るやつなんて――。

 と。

 ついにその人物と正面から目と目が合って、次の瞬間に俺は、ぽかんと阿呆のように口を開けてしまった。



「やあ、オリバー。聞いてはいたけど、随分とやつれたんだね」

「え……あ……」



 男の顔は見えない。

 いつも通り目深に被ったフードから、にこやかな口元だけが覗いている。

 でもこの声を、このローブ姿を、どれだけ酔っていても見間違えるはずなんてなかった。



「だめだろ、ちゃんとご飯も食べなくちゃ。……あ、ありがとう」

「どういたしまして」



 俺に小言を言いながら、マスターからグラスを受け取るローブの男。



「あ……ちょ、ちょっと……」



 彼は俺の言葉をスルーして、カウンターの上に無造作に金貨を置いた。



「マスター、ちょっと奥の部屋、借りれるかな?しばらくふたりきりにしてほしいんだ」

「もちろんよ。でもこれじゃあ貰いすぎだわ」

「構わないよ。気が引けるなら、後で声掛けるから、また美味しい料理頂いてもいいかな?」

「まぁ!そういうことなら喜んで。そっちの通路、一番奥の部屋を使って頂戴。隣も開けておくようにするわ」

「ありがとう。……ほら、行こうオリバー」

「え、え」



 さっさと話を付けてしまって、そのまま俺の腕を引いて席を立たせようとする男に、俺はずるずるとついていくしかない。



「あの、ちょっと……い、いぐに」

「相当酔ってるみたいだな。まったく……僕より若いんだから、ほら、しゃきっとするんだよ」

「……はい」



 酔いなんて、さすがに醒め始めてしまっている。

 いつになく強引な彼に逆らう元気もなく、何故彼がここにいるのか、と、混乱する頭のまま、俺は奥の個室へと連れて行かれたのだった。









 個室に腰を据えて、向かい合って座ること数分。

 イグニスはいつものように優雅に足を組んで座ると、酒のグラスを軽く煽った。

 顔を隠しているのに、そんな仕草が様になる……本当に、格好いいやつだなと、男の俺でも思う。

「あ、これ美味しいね。お酒は久しぶりに飲んだ気がするけど」

 呑気にそんなことを言う彼に、俺はのろのろと口を開いた。



「……それ、結構強いお酒だけど。イグニスって、割とお酒、飲めるんだな」

「んー……よくわからないけど。お酒で酔うって経験は、今までしたことないかな」



 ……それって、相当強いんじゃ。

 俺の前に置かれたグラスは、溶けかけた氷がゆらゆらしている。

 くい、と一口飲むと、混乱で固まっていた口がまた、少し緩んだ気がした。



「それで?……なんでこんなとこに来たんだよ」

「たまたま、って答える所なんだろうけど。君は馬鹿じゃないからね。正直に言うよ」



 イグニスの置いたグラスは、飲み始めたばかりだというのに、もう中身が半分ほどなくなっていた。



「ロイアーに頼まれたんだ。君が急に仕事に来なくなったから、心配だって」

「……シャーロットが」

「うん。それでこう、ちょちょっと魔術で探して、会いに来た」

「……そう」



 ぎゅうと胸が痛んだのは、きっと気のせいだ。

 ……あいつが、心配している、なんて。



「それで、どうしたんだ?何か用事があって休んでいるみたいじゃなさそうだけど」

「…………」

「僕には、言いづらい?」

「……いや……」



 本音を言えば、言いづらい。

 こんな気持ちを吐露なんてしたくない。

 だが……心の何処かで、多分。

 誰かに話を聞いて欲しいとも、思っていた。

 黙り込んだまま、ちらり、と彼の様子を盗み見る。

 彼は沈黙に焦れるでもなく、自分のグラスを手にまた酒を楽しんでいるようだった。

 彼のグラスはもう、空になりそうだ。

 ……これ、本当に強い酒、なんだけど。

 どうなってんだ大賢者。

 そんなことを思って――そこでハッとした。

 目の前にいる彼は、大賢者イグニスだ。

 普段から他者と関わることなく、リリーだけを傍に置いて、最奥禁書領域に引きこもっている男。

 何百年も生きているという……。

 この、苦しい痛みも、気持ちも……もしかしたら、彼ならば受け止めてくれるんじゃないだろうか。



「別に、言いたくないならいいんだ。無理に聞こうなんて思ってないから」

「あ……」



 彼は、優しく口元を緩めてそう言った。

 淡泊な物言いから、本当に俺のことなどどうでもいいと思っているのが伝わってくる。

 だから、かもしれない。



「話しないならさ、さっき言ってた食事。持ってきて貰って一緒に食べようか?」

「あの、さ……イグニス」

「ん?」



 かり、と爪の先で、グラスの表面を撫でる。

 今まで誰にも話したことがなかったこの気持ちを、この相手になら、話してもいいと思ったのは。



「聞いて、もらえないか……?お、俺……」

「うん」

「俺さ……その、シャーロットの婚約話が……その、ショック、で……」

「うん」



 ひく、と喉が鳴ったのは、不可抗力だ。



「俺……おれ……」

「うん」



 優しい相づちは、俺の返答を柔らかく促してきて。



「おれ……っ、もう……くそ……」

「……うん」



 その後はもう、嗚咽ばかりが口から漏れて、言葉が出てこなかった。

 向かいから伸ばされたイグニスの手が、ぽんぽんと俺の肩を叩く。

 ――俺の淡い想いを、そういえばこいつは知ってるんだった。

 会いに来てくれたのがイグニスで良かったと、心からそう思った。









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