大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第3章 美しき華炎の使者

153.彼女の願い

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 結局、ひとまず冷静に戻ってくれた王子は、本来の目的を果たすとすぐに王宮へと帰ってしまった。
 貴族用の玄関で、豪奢な王宮仕様の馬車を見送り、その後。
 夕暮れに染まり始めた中庭を見ながら、焔さんが「今日はもう、お仕事終わりにしようか」と笑い、今日は早めに帰宅することになった。
 最奥禁書領域の片隅にある、小部屋の中の扉をくぐればそこは、小さなアパートの玄関口だ。
 突然目の前に広がる、日常――それは、あちらの世界とは明らかに違う、『私の世界』だった。

「……ただいまー」
「おう、お疲れ」

 誰もいないはずの部屋に、思わず声を掛けてしまうけれど、思いがけず足下からアルトが返事をしてくれた。
 ……こうして返事が返ってくるのが当たり前になったの、いつからだったっけ。
 焔さんと出会ってから、私の日常は大きく変化した。
 鞄を置いて、洗面台に寄ったらもう、部屋着に着替えてしまう。
 リラックスできる恰好になると、ほっと身体から余分な力が抜けた気がした。
 リビングの小ぶりなソファにぼすん、と沈み込むと、クッションとぬいぐるみが疲れた身体をふわりと包み混んでくれる。
 部屋の中は、傾き始めた陽の光でうっすら橙色に染まりかけていた。
 閉めたカーテンの隙間から覗く夕陽に、小さく欠伸をする。

「……今日、疲れたなぁ」
「だなぁ。色々あったし」
「すこし、寝ちゃおうかな」
「いいんじゃねーの。たまには」
「うん……」

 ソファの背に引っかけておいたブランケットを引き寄せて、もぞもぞといもむしのように潜り混む。
 ふわふわの毛布の感触に、一気に眠気が強くなった。
 ……アルトが言うように、今日は本当に色々あったなぁ。
 一般書架での出来事も、殿下がリブラリカまで来たのも。
 ザフィア様と初めて会話したことも……。
 眠気に抗うことなく、静かに目を閉じる。
 ライオット王子が私たちに会いに来たのは、王家からの手紙を渡しに来たからだった。
 先日王宮から届いた、舞踏会の招待状。
 その舞踏会当日に、私と焔さんが着るドレスと礼服を王室から贈りたい、という国王陛下からの申し出だった。
 建前上は、ロランディア出張調査に貢献した、私たちへの褒美ということらしい、けど……。
 ドレスと礼服そのものについては、好きな洋服店で好きなデザインで作って良い、ということで。
 今週末、焔さんと洋服店へ選びに行くことになったのだ。
 ……私も焔さんも、前の舞踏会で着たドレスがあるからいい、って言ったのに……。
 ライオット王子が、是非王家からの贈り物にさせて欲しい、なんて、頭下げるんだもの……断れない、よね……。
 ドレスなんて、めったに着ない高価なものを、何着も持っててもなぁ。
 いいや、それはまた今度考えよう……。
 目を閉じて、ブランケットの暖かな感触に、まどろみへと沈んでいく。
 シャーロットと殿下の、婚約発表をする舞踏会のためのドレス、なんて……気が乗らない、なぁ……。



 すう、すうと、段々と薄暗くなっていく部屋に、リリーの寝息が微かに聞こえる。

「……寝たか」

 足下のほう、ブランケットがめくれている場所を見つけて、俺は猫の手を器用に使って整えてやる。
 半分ブランケットに埋まった寝顔からは、ほんの少し疲れが覗いているように見えた。
 イグニスも、リリーの身体を気遣って早めに帰宅を促したのだろう。

「今日も頑張ったな」

 ぽんぽん、と肉球で叩いてねぎらってやると、リリーはほんの少し、口角を上げたようだった。
 さて、暇だ。
 俺も寝ちまうか。
 ぴょんと軽やかにソファの縁に飛び上がり、リリーを見守る位置で丸くなった。
 もう少ししたら、イグニスの奴に夕飯持ってってやらんとな……面倒だ。
 くあっと欠伸をして、紅い瞳を閉じる。
 ほんの少し残った夕陽の欠片が、小さなアパートの一室をあたたかく見守っていた。




 疲れて見えた梨里が自宅へ帰ったとアルトから報告を受けて、ひとり執務机に向かう宵の口。
 最近の妖精被害の報告書を確認しながら、はぁと溜息を吐いた。
 本当に、日に何件も被害が増えている。
 梨里に指示を出して、妖精避けのポプリを増やしてはいるが……それでも被害報告は減らない。
 これも、これも被害報告か……。
 頭痛を感じながら書類を一枚、また一枚と処理していくうちに、やっとそれに気がついた。

「……ん?」

 これは……今日分の、リブラリカの決済書類。
 束になったそのうちの一枚に、小さなメモのようなものが貼り付けられていた。
 メモの内容にざっと目を通して、席を立つ。
 梨里が整えてくれたローブを羽織って、最奥禁書領域を出た。
 扉の先にあるこの応接室は、副館長や特別な来客のみ使用できる部屋だ。
 その応接室のソファには、今日、執務をしながら俺を待っている人がいた。

「君がこんな風に俺を呼び出すなんて、珍しいじゃないか。ロイアー」
「ご無礼をお許しください、大賢者様。おいで頂いたこと、感謝致します」

 優雅にソファから立ち上がり、こちらに礼を取る彼女の肩から、豊かな金髪がこぼれ落ちる。
 優秀な副館長が、可能ならここで会いたい、だなんてことを言ってくるのは、これが初めてだったような気がする。

「いい、楽にしろ」
「はい」

 彼女の正面の長椅子へと腰掛けると、新しい紅茶が差し出される。
 それに手を伸ばしながら、ちらりと見えた書類の山。
 副館長は今日も、沢山の仕事をこなしているようだ。
 そんなに忙しい中、わざわざ呼び出してくるなんて。

「それで?どうしたんだ?」
「はい……。あの、本当に恐縮なのですが、大賢者様にお願いがありまして」
「頼み?」

 よく見ると、彼女の艶やかな金髪は少しぱさついて、綺麗な白磁のようだった頬も、ほんの少し荒れてしまっているようにも見える。
 目の下には隈……何か、悩みごとでもあるのだろうか。

「君には、リリーが世話になっているからね。気分次第ではあるけど、取り敢えず聞くよ」
「ありがとうございます。……オリバー、を」
「オリバー?」
「近頃、出勤しなくなってしまったオリバーに、会いに行ってくださいませんか……!」

 思いがけない頼みに、少し面食らう。

「お願いします……!オリバーと仲良くされていた、大賢者様にしかお頼みできなくて……」

 縋るように言葉を続けるロイアーの瞳は、今にも泣き出しそうに見えた。




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