戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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電話ください@在シンガポール日本国大使館

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 防衛駐在官とは、日本大使館などの在外公館に勤務し、軍事情報の収集や防衛協力の調整にあたる自衛官である。

 在シンガポール日本大使館の防衛駐在官室で、近間恵介ちかまけいすけ3等空佐はワイシャツのボタンをぷちぷちと外した。
 シャツを脱ぎ、ベルトを外し、スラックスを脱ぐ。続いて、水色のシャツを羽織り、ぴしりとプレスされた紺色のパンツに脚を通した。

「近間、アポか?」
 応接セットのソファでザ・ストレーツ・タイムズに目を通していた岩崎哲也1等海佐が、近間が着替えるのに気づいて尋ねる。
 集団生活に慣れた自衛官同士なので、同僚の着替えには抵抗がない。

「はい。来週の空幕防衛部長の来訪の調整で、空軍司令部に」
「ついでに、次回のシンガポール・エアショーの概要について聞いてきてくれ」
「了解」
 近間は階級章をつけ、鏡の前で身だしなみを点検する。
 普段はクールビズでの勤務だが、国防省や国軍を訪問する時は制服を着用するルールだ。
「糸くず、ついてる」
 岩崎が甲斐甲斐しく糸くずを摘まんで捨ててくれる。
 長身で大柄な熊のような男だが、世話焼きなのだ。

 シンガポールの日本大使館には、岩崎と近間の2名の防衛駐在官がいる。
 階級が離れているから、近間は岩崎の補佐的役割を担うこともあるが、海自代表、空自代表として単独で仕事をすることも多い。
「おまえ、相変わらず細いよな」
「必要な筋肉はついてるんですけどね。岩崎さんみたいにムキムキにはどうもなれなくて」
「体質かな」
「身体デカくなると、コックピット狭いですしね。小柄なぐらいが十分です」
 自衛隊のパイロットには小柄な人が多い。
 近間は細身だが、身長は174センチあるので、まあまあ高い方ではある。

 制服姿で大使館の玄関を出ると、制帽をかぶった。
 今日も陽射しは強いし、野外では着帽するのが自衛隊ルールだ。

 玄関先に1組の男女がいた。後ろ姿だが、男の方はやたらと背が高い。
「タクシー、あと4分で来るので、お見送りは結構ですよ」
 男の方がスマホを見ながら言った。
 タクシー・アプリを確認したのだろう。
 低めでやや艶のあるその声は、どこかで聞き覚えがあった。
「4分なら、お喋りしてればすぐですよ」
 甘さを含んだ女の声は、経済班の三宅里奈みやけりな書記官だ。
 国土交通省からの出向者でインフラ・海洋担当の彼女の元には、日系企業が毎日のように足を運んでいる。男もその一人だろう。

「でも、三宅さんお忙しいでしょう」
「企業の方をお見送りする時間くらいあります。そんな、追い払おうとしないでくださいね」
 小首を傾げる三宅は20代半ばで、自分の若さと容姿の効力を十分把握している。
「そんなつもりは」
 困っているのか照れているのか、頭をかく男を見ていると、三宅が近間に気づいた。
「近間さん、お疲れ様です」
 声から先ほどまでの甘さが抜けているのは、着任したての頃に猛アプローチをかけてきた彼女を、近間がすげなく断ったという経緯があるからだ。
 別に女嫌いではないし、三宅は十分魅力的な女性だと思うが、今誰かと付き合いたいという欲求はないし、職場恋愛など面倒すぎる。


「お疲れ」
 軽く右手を上げると、背の高い男が振り返った。ばちりと視線が合う。

 あ、こいつ。梶だ。
 瞬時に、先週のチャイナタウンでの時間が蘇った。
 長身に精悍な顔立ち。20代特有の過剰な自信と自意識が浮かび出た表情。

 共働き世帯が普通のシンガポーリアンは自炊なんてほとんどしない。
 安くて美味いものが食べられる屋台は沢山あるし、外食の方が安くつくからだ。
 けれど、戦闘機パイロットである近間は、健康で強靭な肉体を維持するために、手間と時間と金がかかっても自炊をしている。
 ホーカーズへ行くことなんて週に1回もないから、あの日は本当にたまたまだった。
 初対面だったけれど、妙に話が合って、あれはなかなか楽しい夕食だった。

 営業かな。話、上手かったし。
 そう思いながら、「奇遇だな」と話しかけるが、直樹は近間が認識できないように戸惑っている。
 思い当って、近間は脱帽し、固めた髪をわしゃわしゃと乱した。
 そうすると、直樹は急に破顔した。
「あ。近間さん」
 すぐに名前が出てくるところが好ましい。
「お知り合いなんですか?」
 微笑み合う二人の間に、三宅が割って入ってくる。
「ちょっとね」
 近間が曖昧に誤魔化すと、直樹は丁寧に頭を下げた。
五和いつわ商事の梶といいます」
「防衛駐在官の近間3空佐です」
 互いに名乗り合った時、門の前にタクシーが滑り込んできた。

 三宅が大使館警備員に近づいていき、門を開けるよう指示している。
 その隙に、直樹はビジネスバッグの外ポケットから紙片を取り出すと、近間に差し出した。
 名刺だった。
 手書きで、プライベートのものらしい電話番号が走り書きされている。
「電話、ください」
 囁くように言うと、近間の返事を待たずにタクシーの方へ歩いていく。
 その背中がわずかに強張っているのを見て、近間は軽く噴き出した。
「なに緊張してんだよ。おもしれーヤツ」
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