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9人が返事するぞ@キャンドルナット
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梶直樹は手のひらに書いた何十個目かの「人」を飲み下した。
緊張している。
交通大臣に面会した時よりも、3億円の契約をかけたプレゼンの時よりも、遥かに緊張している。
1826年、シンガポールは英国の海峡植民地となり、1963年に独立を宣言した。
シンガポール植物園の近くにあるデンプシー・ヒルは、かつて英国軍の兵舎があった場所だが、現在はレストランやショップが立ち並ぶ人気スポットとなっている。
その中の1軒のレストラン「キャンドルナット」のテーブル席で、直樹は背筋を伸ばして恋人とその弟を待っていた。
年末年始に金沢の実家に帰省した近間は、直樹と交際していることを家族に告白したらしい。
直樹はそのことを嬉しく思うと同時に、近間の潔さに脱帽した。
自分にはとてもじゃないがそんな真似は出来ない。
事故的にバレてしまった岩崎防衛駐在官を除き、直樹は、近間との関係を誰にも漏らしたことはない。
昨日から、近間の末の弟とその彼女が休暇でシンガポール旅行に来ている。
二人は口を揃えて直樹に会いたいと要望したらしく、4人で食事をすることになった。
近間一家は直樹のことを否定はしていないらしいが、それでも緊張する。
近間は、恋人の欲目を除いても、いい男だ。
立派な職業についていて、思いやりのある性格で、誰もが振り返るような美形である。
そんな近間に相応しくないと失望されないよう、店選びにも身だしなみにも物凄く気を遣った。
今日は土曜日だ。
直樹は夕方まで接待ゴルフだったが、近間は朝から二人の観光に付き合っている。
約束の時間の10分前に、近間が店に現れた。5分前の5分前だ。
直樹を見つけると、にっこりと微笑んでくれる。それだけで緊張が和らいだ。近間の笑顔は「人」文字の何百倍も効果がある。
後ろにいる男女が弟とその彼女だろう。
直樹は席を立って、3人を迎えた。
「直樹、四男の保と、彼女の椿原市子ちゃんだ」
「梶直樹です。初めまして」
微笑んで、保に右手を差し出した。
「あ、ええと、近間保です。兄がお世話になってます」
保は戸惑うように直樹の右手を見ていたが、チノパンでごしごしと手を擦ってから、握手をした。
「こいつ、帰国子女でシンガポールも3年目だから。挨拶が外国人入ってんの」
近間が保に言った。
その説明で、日本人同士では握手は一般的ではないと思い出した。
仕事相手は外国人の方が多いし、気が張っているので、つい右手を出してしまったのだ。
「すみません、緊張していて」
「いえ」
保が屈託なく笑う。
近間とはあまり似ていない。背はそんなに高くないががっしりした体つきで、やんちゃそうな顔立ちをしている。
「椿原市子です」
ぺこりと頭を下げた市子は、大きな目が小動物を思わせる。
鼻の周りに散ったそばかすが愛らしく、オレンジ色のサマードレスがよく似合っている。
握手は求めない方がいいよなと躊躇っていると、市子の方から右手を差し出してきた。
にこにこ笑っている。いい子だ。
直樹はほっとして市子の手を握った。
挨拶が終わったタイミングで、ウェイターが市子の椅子を引いた。
座りやすいように近間の席を引いてやると、「さんきゅ」と礼を言われる。
この人は、どんな時でも「ありがとう」を欠かさない。
料理はコースを注文してあったので、食前酒にシャンパンを選んで乾杯した。
「すっごくオシャレなお店! 建物も素敵な一軒家だし、インテリアも可愛い!」
「床のタイルも、あそこのタペストリーの柄もいい感じだよな」
保と市子は手放しでレストランを褒めてくれている。
高級すぎずカジュアルすぎずと、苦心した甲斐があった。
はしゃいでいるのに、ボリュームはきちんと絞っているところが、両家の躾の良さを感じさせる。
「ここって何料理なんだ?」
保が直樹に訊いてきた。
いきなりのタメ口に驚くが、家族に話しかけるような親しさだったので、失礼な気はしない。
「プラナカン料理の店です」
「プラナカン?」
「マレー語で混血という意味で、東南アジアがヨーロッパに統治されていた時に、マレーシア周辺に移住してきた中華系の人のことです。プラナカン料理は、その人達のいわゆる母の味ですね」
説明していると、タイミングよく前菜が運ばれてきた。
彩りよく盛られたサテやタルトに保と市子が歓声を上げる。
「母の味、おしゃれすぎない?」
市子がぐるりとレストランを見回した。
瀟洒な一軒家を利用したレストランは、真っ白な壁に、天井からは琥珀色のシェードがいくつもぶら下がっていて、大理石のテーブルにはナプキンとカトラリーがセットされている。
「ここ、ミシュランだろ?」
近間の問いに首肯すると、保が眉を上げた。
「マジか。俺、ミシュランのレストランなんて初めて来た」
「あたしも! もしかして凄く高かったりするの?」
この二人はカップルというより双子みたいだ。反応がいちいちシンクロしていて微笑ましい。
「星1つだし、そんなに高くないですよ。今日は俺がご馳走しますから、好きなだけ飲み食いしてください」
「え、そうなのか? 俺が払おうと思ってたのに」
美味そうに前菜を食べていた近間が言う。
「店選んだの俺ですから」
「おまえ、奢り癖あるなよ」
「そんなことないです。奢りたい相手にしか奢りません」
「俺にはいつも奢るだろ」
「近間さんは奢りたいリストの一番上にいますから」
「なんだよそのリスト」
やりとりを聞いていた保と市子は、顔を見合わせた。
「仲良しー」
ひやかすように言われて、人前なのについいつもの調子で話してしまったと焦る。
「すみません」
思わず詫びると、二人は首を傾げた。
「直樹、なんで謝んの?」
「そうそう。それに、なんで直樹君はあたし達に敬語なの?」
言われている意味が分からない。
というか、いきなり呼び捨て&君付けにされている。大海を飛び越えるかのような距離感の近さに困惑してしまう。
「えーと」
助け舟を求めて横を見るが、近間は海老のカレー煮込みに夢中になっている―フリをしている。
「俺、近間さんにも敬語ですよ」
「それはそういうプレイなんでしょ。あたし達は直樹君より年下だよ」
「プレイって……。年下でも初対面ですし。近間さんのご家族にいきなりタメ口は無理です」
それを聞いた保が、食事の手を止めた。まっすぐな視線がはす向かいに座る直樹を射抜く。
「なんだよその言い方。直樹は、俺らの家族になるんじゃねえの」
詰問するような口調だった。
「おい保」
近間が静止するが、保は止まらなかった。
「恵兄、親父に頭下げたんだぞ。俺ら家族の中に、おまえを受け入れてほしいって。別れるくらいなら二度と家に帰らないって言ったんだぞ」
驚いて近間を見る。
そんな話は聞いていない。
「保、おまえ、その話はすんなって言っただろ」
近間はバツが悪そうに呻いている。
「いいだろ別に。直樹は、恵兄の覚悟を知っておくべきだ」
保が強い口調で言う。
「近間さん、どうしてそんなこと」
鼓動が早い。胸が、熱くて、痛い。
この人が自分を好きでいてくれることは充分に分かっていたつもりだった。
それでも、いつだって、自分の方が近間のことを好きなんだと思っていた。
でも、違う。仮にそうだとしても、俺はそれだけのものをこの人に与えられていない。
「どうしてもこうしてもないよ。思っていることをそのまま言っただけだ」
気まずさから立ち直ったのか、近間はなんでもないことのように肩をすくめている。
直樹は唾を飲み込んだ。
試されているのだ。
ナプキンで口元を拭いて、保と市子に向き直った。
保は、直樹の不甲斐なさに苛立っているようだ。瞳には、近間と同じ鉱石のような強い光が宿っている。
市子は、お転婆そうに見えて賢明な女性なのだろう。家族同然でも兄弟の話に口を挟むべきではないと心得ているらしく、静かにシャンパンを飲んでいる。
「俺は、生涯もう近間さん以外好きにならないと決めています」
惹かれて、付き合い始めて、同じ時を過ごすうちに加速度的に好きになった。
一緒にいると、1分1秒ごとに好きが積もっていく。
好きが溢れて零れ落ちるんじゃないかと怖くなるけれど、そんなことはなくて、好きを溜め込む直樹の器もどんどん大きくなっている。
「俺も近間さんも1人の男だから、幸せにするなんておこがましいことは言えない。それでも、この人が家族より俺を選ぶと言ってくれた、その気持ちには必ず応える。
この人を何より大切にするし、傷つけるようなことは絶対にしないと約束する」
思いを言葉にするのは難しい。
どれほど言葉を尽くしても、この痛いくらい切ない気持ちは伝わらない気がする。
必死で言葉を紡ぎ出すと、テーブルの下で、近間がそっと手を握ってくれた。
隣を見ると、優しく直樹を見つめている。
その瞳に宿る水気に、直樹は胸をつかれる。
この人を抱きしめたい。
この場で、今すぐ、強く。この人が壊れるくらい。
胸がいっぱいになって震えていると、それまで黙っていた市子が、指先でちんとグラスを叩いた。
「あのー、ここで欲情しないでよね。いちゃこらするのは帰ってからどうぞ」
からかうような声音に、張りつめていた空気がほぐれる。
保を見ると、呆れたように苦笑している。
「そんな激しい愛の告白までは求めてなかったんだけど。でも、敬語、取れたじゃん」
「保君もあたしも、直樹君のこと家族だと思って、ここにいるんだからね」
4人のグラスが自然に重なる。
ガラスが震える音は、認められた証のように聞こえた。
それからはすっかり打ち解けて、食事の間中笑いが絶えなかった。
「ねえ、気になってたんだけど、直樹君は恵ちゃんのこと近間さんって呼んでるの?」
デザートのココナッツアイスを食べながら、市子がチェシャ猫のように笑う。ポニーテールがぴこぴこ揺れている。
「そうだけど、なんで?」
「二人きりの時も? 恋人なのに? 敬語と言い、やっぱりなんかのプレイなの?」
唐突な追及に、直樹は苦笑する。
「うーん、近間さんって近間さんって感じだから」
「うちの実家来て近間さんって呼んだら、9人が返事するぞ」
と保が参戦する。
両親に4兄弟に長男の嫁にその息子に市子で9人だ。
「あたしはまだ椿原だけどね」
主張する市子の口元についたアイスを、保が拭った。
「そのうち近間になるだろ」
「えへへ」
市子が照れている。はにかむ様子が可愛らしい。
「ってことで、直樹も恵兄のこと名前呼びしよう」
保の提案に、すかさず市子が便乗する。
「恵介、恵兄、恵介君、恵ちゃん。お好きなのでどうぞ」
「じゃあ、恵ちゃんで」
直樹がノリで答えると、紅茶片手に3人のやりとりをのんびり聞いていた近間が噴き出した。
「え、おまえ、本気なの? まあ、俺はなんて呼ばれてもいいけど」
「いや、冗談です。無理です。恥ずか死にます」
直樹は急いで首を横に振る。
恵ちゃんなんて無理だ。可愛すぎて呼ぶたびに体力消耗する。
直樹と近間のやりとりに、保と市子が爆笑している。
思いがけず楽しい一夜だった。
緊張している。
交通大臣に面会した時よりも、3億円の契約をかけたプレゼンの時よりも、遥かに緊張している。
1826年、シンガポールは英国の海峡植民地となり、1963年に独立を宣言した。
シンガポール植物園の近くにあるデンプシー・ヒルは、かつて英国軍の兵舎があった場所だが、現在はレストランやショップが立ち並ぶ人気スポットとなっている。
その中の1軒のレストラン「キャンドルナット」のテーブル席で、直樹は背筋を伸ばして恋人とその弟を待っていた。
年末年始に金沢の実家に帰省した近間は、直樹と交際していることを家族に告白したらしい。
直樹はそのことを嬉しく思うと同時に、近間の潔さに脱帽した。
自分にはとてもじゃないがそんな真似は出来ない。
事故的にバレてしまった岩崎防衛駐在官を除き、直樹は、近間との関係を誰にも漏らしたことはない。
昨日から、近間の末の弟とその彼女が休暇でシンガポール旅行に来ている。
二人は口を揃えて直樹に会いたいと要望したらしく、4人で食事をすることになった。
近間一家は直樹のことを否定はしていないらしいが、それでも緊張する。
近間は、恋人の欲目を除いても、いい男だ。
立派な職業についていて、思いやりのある性格で、誰もが振り返るような美形である。
そんな近間に相応しくないと失望されないよう、店選びにも身だしなみにも物凄く気を遣った。
今日は土曜日だ。
直樹は夕方まで接待ゴルフだったが、近間は朝から二人の観光に付き合っている。
約束の時間の10分前に、近間が店に現れた。5分前の5分前だ。
直樹を見つけると、にっこりと微笑んでくれる。それだけで緊張が和らいだ。近間の笑顔は「人」文字の何百倍も効果がある。
後ろにいる男女が弟とその彼女だろう。
直樹は席を立って、3人を迎えた。
「直樹、四男の保と、彼女の椿原市子ちゃんだ」
「梶直樹です。初めまして」
微笑んで、保に右手を差し出した。
「あ、ええと、近間保です。兄がお世話になってます」
保は戸惑うように直樹の右手を見ていたが、チノパンでごしごしと手を擦ってから、握手をした。
「こいつ、帰国子女でシンガポールも3年目だから。挨拶が外国人入ってんの」
近間が保に言った。
その説明で、日本人同士では握手は一般的ではないと思い出した。
仕事相手は外国人の方が多いし、気が張っているので、つい右手を出してしまったのだ。
「すみません、緊張していて」
「いえ」
保が屈託なく笑う。
近間とはあまり似ていない。背はそんなに高くないががっしりした体つきで、やんちゃそうな顔立ちをしている。
「椿原市子です」
ぺこりと頭を下げた市子は、大きな目が小動物を思わせる。
鼻の周りに散ったそばかすが愛らしく、オレンジ色のサマードレスがよく似合っている。
握手は求めない方がいいよなと躊躇っていると、市子の方から右手を差し出してきた。
にこにこ笑っている。いい子だ。
直樹はほっとして市子の手を握った。
挨拶が終わったタイミングで、ウェイターが市子の椅子を引いた。
座りやすいように近間の席を引いてやると、「さんきゅ」と礼を言われる。
この人は、どんな時でも「ありがとう」を欠かさない。
料理はコースを注文してあったので、食前酒にシャンパンを選んで乾杯した。
「すっごくオシャレなお店! 建物も素敵な一軒家だし、インテリアも可愛い!」
「床のタイルも、あそこのタペストリーの柄もいい感じだよな」
保と市子は手放しでレストランを褒めてくれている。
高級すぎずカジュアルすぎずと、苦心した甲斐があった。
はしゃいでいるのに、ボリュームはきちんと絞っているところが、両家の躾の良さを感じさせる。
「ここって何料理なんだ?」
保が直樹に訊いてきた。
いきなりのタメ口に驚くが、家族に話しかけるような親しさだったので、失礼な気はしない。
「プラナカン料理の店です」
「プラナカン?」
「マレー語で混血という意味で、東南アジアがヨーロッパに統治されていた時に、マレーシア周辺に移住してきた中華系の人のことです。プラナカン料理は、その人達のいわゆる母の味ですね」
説明していると、タイミングよく前菜が運ばれてきた。
彩りよく盛られたサテやタルトに保と市子が歓声を上げる。
「母の味、おしゃれすぎない?」
市子がぐるりとレストランを見回した。
瀟洒な一軒家を利用したレストランは、真っ白な壁に、天井からは琥珀色のシェードがいくつもぶら下がっていて、大理石のテーブルにはナプキンとカトラリーがセットされている。
「ここ、ミシュランだろ?」
近間の問いに首肯すると、保が眉を上げた。
「マジか。俺、ミシュランのレストランなんて初めて来た」
「あたしも! もしかして凄く高かったりするの?」
この二人はカップルというより双子みたいだ。反応がいちいちシンクロしていて微笑ましい。
「星1つだし、そんなに高くないですよ。今日は俺がご馳走しますから、好きなだけ飲み食いしてください」
「え、そうなのか? 俺が払おうと思ってたのに」
美味そうに前菜を食べていた近間が言う。
「店選んだの俺ですから」
「おまえ、奢り癖あるなよ」
「そんなことないです。奢りたい相手にしか奢りません」
「俺にはいつも奢るだろ」
「近間さんは奢りたいリストの一番上にいますから」
「なんだよそのリスト」
やりとりを聞いていた保と市子は、顔を見合わせた。
「仲良しー」
ひやかすように言われて、人前なのについいつもの調子で話してしまったと焦る。
「すみません」
思わず詫びると、二人は首を傾げた。
「直樹、なんで謝んの?」
「そうそう。それに、なんで直樹君はあたし達に敬語なの?」
言われている意味が分からない。
というか、いきなり呼び捨て&君付けにされている。大海を飛び越えるかのような距離感の近さに困惑してしまう。
「えーと」
助け舟を求めて横を見るが、近間は海老のカレー煮込みに夢中になっている―フリをしている。
「俺、近間さんにも敬語ですよ」
「それはそういうプレイなんでしょ。あたし達は直樹君より年下だよ」
「プレイって……。年下でも初対面ですし。近間さんのご家族にいきなりタメ口は無理です」
それを聞いた保が、食事の手を止めた。まっすぐな視線がはす向かいに座る直樹を射抜く。
「なんだよその言い方。直樹は、俺らの家族になるんじゃねえの」
詰問するような口調だった。
「おい保」
近間が静止するが、保は止まらなかった。
「恵兄、親父に頭下げたんだぞ。俺ら家族の中に、おまえを受け入れてほしいって。別れるくらいなら二度と家に帰らないって言ったんだぞ」
驚いて近間を見る。
そんな話は聞いていない。
「保、おまえ、その話はすんなって言っただろ」
近間はバツが悪そうに呻いている。
「いいだろ別に。直樹は、恵兄の覚悟を知っておくべきだ」
保が強い口調で言う。
「近間さん、どうしてそんなこと」
鼓動が早い。胸が、熱くて、痛い。
この人が自分を好きでいてくれることは充分に分かっていたつもりだった。
それでも、いつだって、自分の方が近間のことを好きなんだと思っていた。
でも、違う。仮にそうだとしても、俺はそれだけのものをこの人に与えられていない。
「どうしてもこうしてもないよ。思っていることをそのまま言っただけだ」
気まずさから立ち直ったのか、近間はなんでもないことのように肩をすくめている。
直樹は唾を飲み込んだ。
試されているのだ。
ナプキンで口元を拭いて、保と市子に向き直った。
保は、直樹の不甲斐なさに苛立っているようだ。瞳には、近間と同じ鉱石のような強い光が宿っている。
市子は、お転婆そうに見えて賢明な女性なのだろう。家族同然でも兄弟の話に口を挟むべきではないと心得ているらしく、静かにシャンパンを飲んでいる。
「俺は、生涯もう近間さん以外好きにならないと決めています」
惹かれて、付き合い始めて、同じ時を過ごすうちに加速度的に好きになった。
一緒にいると、1分1秒ごとに好きが積もっていく。
好きが溢れて零れ落ちるんじゃないかと怖くなるけれど、そんなことはなくて、好きを溜め込む直樹の器もどんどん大きくなっている。
「俺も近間さんも1人の男だから、幸せにするなんておこがましいことは言えない。それでも、この人が家族より俺を選ぶと言ってくれた、その気持ちには必ず応える。
この人を何より大切にするし、傷つけるようなことは絶対にしないと約束する」
思いを言葉にするのは難しい。
どれほど言葉を尽くしても、この痛いくらい切ない気持ちは伝わらない気がする。
必死で言葉を紡ぎ出すと、テーブルの下で、近間がそっと手を握ってくれた。
隣を見ると、優しく直樹を見つめている。
その瞳に宿る水気に、直樹は胸をつかれる。
この人を抱きしめたい。
この場で、今すぐ、強く。この人が壊れるくらい。
胸がいっぱいになって震えていると、それまで黙っていた市子が、指先でちんとグラスを叩いた。
「あのー、ここで欲情しないでよね。いちゃこらするのは帰ってからどうぞ」
からかうような声音に、張りつめていた空気がほぐれる。
保を見ると、呆れたように苦笑している。
「そんな激しい愛の告白までは求めてなかったんだけど。でも、敬語、取れたじゃん」
「保君もあたしも、直樹君のこと家族だと思って、ここにいるんだからね」
4人のグラスが自然に重なる。
ガラスが震える音は、認められた証のように聞こえた。
それからはすっかり打ち解けて、食事の間中笑いが絶えなかった。
「ねえ、気になってたんだけど、直樹君は恵ちゃんのこと近間さんって呼んでるの?」
デザートのココナッツアイスを食べながら、市子がチェシャ猫のように笑う。ポニーテールがぴこぴこ揺れている。
「そうだけど、なんで?」
「二人きりの時も? 恋人なのに? 敬語と言い、やっぱりなんかのプレイなの?」
唐突な追及に、直樹は苦笑する。
「うーん、近間さんって近間さんって感じだから」
「うちの実家来て近間さんって呼んだら、9人が返事するぞ」
と保が参戦する。
両親に4兄弟に長男の嫁にその息子に市子で9人だ。
「あたしはまだ椿原だけどね」
主張する市子の口元についたアイスを、保が拭った。
「そのうち近間になるだろ」
「えへへ」
市子が照れている。はにかむ様子が可愛らしい。
「ってことで、直樹も恵兄のこと名前呼びしよう」
保の提案に、すかさず市子が便乗する。
「恵介、恵兄、恵介君、恵ちゃん。お好きなのでどうぞ」
「じゃあ、恵ちゃんで」
直樹がノリで答えると、紅茶片手に3人のやりとりをのんびり聞いていた近間が噴き出した。
「え、おまえ、本気なの? まあ、俺はなんて呼ばれてもいいけど」
「いや、冗談です。無理です。恥ずか死にます」
直樹は急いで首を横に振る。
恵ちゃんなんて無理だ。可愛すぎて呼ぶたびに体力消耗する。
直樹と近間のやりとりに、保と市子が爆笑している。
思いがけず楽しい一夜だった。
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