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本編
12.人になれない狼の子(sideシルバー)
しおりを挟む獣を支配できぬ者、人にあらず。
それは獣人として生を受けた瞬間から課せられる呪いのような言葉だ。
獣を先祖に持ちながら獣を忌み嫌う、なんとも皮肉な差別意識はそれこそ自意識が芽生えるよりも早々に周囲の者から植え付けられる。
だからこそ獣人は幼いころから始める人化訓練に躍起になり、そこで少しでも遅れを取ろうものなら周りから孤立し、家族からも厳しい叱咤を浴びせられる。
そして代々純血であることを誇りとする狼獣人のブランシャール家嫡男として生まれた俺シルヴァルトは、常人よりも膨大な魔力を身に宿していた。
待望の嫡男が全属性の魔力持ち。それも平均値を遥かに超える膨大な魔力量を持っていると判明し、両親からは歓喜され、蝶よ花よと言わんばかりに溺愛されていた。
しかし、雲行きが怪しくなってきたのは5歳の誕生日を迎えた時のことだ。
獣人は物心がつく3歳以降から少しずつ人化コントロールを勉強していくのだが、俺はそれがどうしても苦手だった。早い者では5歳で、遅くとも10歳までには大抵の獣人が完璧に人化をコントロールして成人を迎える。
だが俺は一度も人化を成功させた事がなかった。最初は「まだ急ぐ事はない」と優しく慰めてくれた父も、一年、二年と時が経ち、それでも人化を習得できない俺に対して、次第に失望で澱んだ視線を向けてくるようになった。
毎日毎日課せられる厳しい人化訓練に、どうして俺は上手にできないんだと泣きながら母の胸に縋った。
そんな俺をいつだって優しく抱き止めてくれた母は俺を産んでから体調を崩し、ベッドから起き上がれない身体になってしまった。そのせいで次の子供は望めない上に、肝心の一人息子は未だに人化できない愚かな獣。
父だけじゃなく親戚や使用人にまで蔑まれ続けた母のストレスはどれ程のものだっただろうか。けれど、母は一度も俺を責めたりはしなかった。俺をシルバーと愛称で呼び、毛むくじゃらの醜い身体も愛おしそうに優しく撫でてくれた。
「私の愛しいシルバー。今日もとっても訓練を頑張ってきたのね。凄いじゃない」
「でも俺、今日も上手くできなかった……」
「毎日何か一つのことを続けるのってとっても難しいことなのよ?それなのにシルバーは訓練を投げ出したりしないでいつも頑張ってるのを知ってるわ。さすが私の自慢の息子ね」
そう言って優しく俺を抱きしめてくれる心優しい母だけが俺にとって心の拠り所だった。母の為にも1日でも早く人化をものにしなくてはと、より一層訓練に励んだ。しかし、そんな俺を嘲笑うように現実は無情だった。
ある日、俺の中の膨大な魔力のせいで人化できない事が判明したのだ。
俺は既に年齢としては6歳ではあるものの、身体自体は狼の姿のため、ほとんど生まれた頃と変わらず小さかった。それに対して俺の魔力量はその小さな器では収まり切れないほどに膨大で常に魔力暴走と隣り合わせの状態だった。
魔力暴走とは身体に溜まった魔力を上手く放出する事ができず、重度の発熱を起こし意識不明に陥る危険な現象だ。最悪の場合死に至ることもあるからか、本能からくる身体の自己防衛が無意識に働いているようだった。
常に身体に巡らせ続ける事で凌いでいる魔力を他の事に回せる余裕がない。つまりは俺の身体と、人化を司る器官に魔力を流して人化の術を覚えるコントロール法との相性は絶望的だった。そしてそれらの解決方法は、器の大きさが魔力を難なく受け止められるくらいにまで成長するのを待つしか他に道はないのだという。
つまり、俺は狼の姿のままで身体が成長するのを待ち続け、魔力暴走の危険から脱してからでなくては人化する事は叶わず、それまでは魔法を使うことも出来ないということだった。
獣人社会において、人化の遅れは致命的。それは格式の高い名家ほど顕著であり、我がブランシャール家においてもそれは例外ではなかった。
医師からその診断を知らされた父は、完全に俺と母を切り捨て親戚筋の狼獣人の女を第二夫人として迎え入れた。
そうして一年後に生まれた腹違いの弟は、至って普通の狼獣人の子供だった。魔力も平均値、人化訓練を始めて一年後には成功し、5歳になるころには他所の獣人と変わらない安定した人化コントロールを手に入れていた。
その頃には俺たち母子は本邸から別邸へと追いやられ、完全に存在しないものとして扱われた。使用人からも世話を放棄され、広い別邸でたった二人きりの生活は、苦しく侘しいものだった。
そして最悪な事に、この頃から母の容態はどんどん悪化していった。それもそうだ。充分な治療も受けられず僅かな食事しか与えられないのだ。悪化はすれど良くなることなんて皆無だった。
「お母様……いやだ、死なないでッ!」
「私の愛しいシルバー……よおく顔を見せてちょうだい……まぁ、可愛いまんまるお目々が真っ赤じゃない。そんなに泣いたら取れちゃうわ」
「そんなの、どうだっていい!お母様が生きててくれるなら俺の全部あげるから……だから、だから死なないで……置いていかないで……」
「シルバー……」
すっかりやつれた骨ばった母の手がそっと俺の身体を抱き寄せる。そして止めどなく溢れる涙を優しく拭うと、慈愛に満ちた顔で微笑んだ。
「獣人は獣の姿を醜いと言って嫌うけど、私はそうは思わないわ。だって私はシルバーが狼のままでもこんなに愛おしいんだもの……他の人がなんて言おうと、貴方は私にとって世界一自慢の可愛い息子よ」
「お母様……」
「貴方を一人置いていくことになって……ごめんなさい。でもきっと、この世界のどこかにそのままの貴方を愛してくれる人が必ずいるから……だからそれまでは、希望を捨てないで、私の分まで…生きて……ね」
「うっ、あぁ……ッ、いやだ、いやだ!お母様!」
「愛してるわ……シルバー」
その言葉を最期に、母がこの世を去ったのは俺が12歳のときだった。ひっそりと身内だけの葬儀が終わり、ひとりぼっちになってしまった広い屋敷で、母のいないまっさらなベッドの上で現実を受け止めきれず、来る日も来る日も泣き暮れた。
精神的にも身体的にも不安定になった俺は、ついに恐れていた魔力暴走を起こしてしまった。
熱くて、苦しくて、脳が焼き切れるような痛みが絶え間なく襲う。誰もいない。誰も助けてくれない。優しく撫でてくれるお母様ももういない。死にたい。死にたくない。助けて。誰か助けて。
誰か……俺を愛して。
******
何日が経過しただろう。
永遠とも思われる苦しみの末、俺はしぶとくも生きながらえてしまったらしい。そうして久しぶりにベッドから身を起こした時、最初に感じた違和感は視界がいつもより高いことだった。
病み上がりと脱水症状でぼうっとする頭で見下ろした俺の手は人間のものだった。
いつもの見慣れた獣の手じゃない。
ふらつく身体で床を這いずって鏡台を覗き込んだ俺の視界に飛び込んできたのは、銀色の髪をした少年の姿だった。
これは仮説だが、魔力暴走により死の危機に晒されたことで強制的に器の成長を余儀なくされたのかもしれない。あんなに何年もの間成し遂げられなかったことがこんなたった数日で叶うなんてと失笑が漏れた。
喜びは無い。
ただただ虚しかった。
もっと早く人間になれたら。
そうしたらお母様は死なずに済んだかもしれないのに、と。
人化コントロールを身につけた俺は、当然のように魔法も使えるようになっていた。全ての属性を試し、確認したから間違いない。膨大な魔力も問題なくコントロールできている。
だからこそ俺は決めた。
絶対にこのことを本邸の奴らに悟られてはいけないと。
今更人間になったことがバレてしまえば、これまでの態度をひっくり返して媚を売ってくるのは目に見えていた。ただでさえ複数属性持ちは稀少なのに、俺はそれを超える全属性。しかも、魔力量は桁違い。そんな喉から手が出るほど欲しくてたまらない美味しい駒が実の息子?そんな事を知られてしまったらあの腐った権力主義者が黙っているはずがない。
母と俺を見捨てたあの男の思い通りになることだけは、死んでもごめんだった。
獣人は一度人化コントロールを身につけると今度はその状態がデフォルトとなるので、獣化する事の方が魔力を消費するようになる。だから俺はこの日から魔法で常に獣化した状態で過ごす特訓を始めた。いくら魔力量が多くとも魔法を四六時中使い続けることはかなり負担が大きかったし度々寝込むこともあったが、屋敷には俺以外誰もいないのでこの状況は返って好都合だった。そうやって練習を繰り返してついに24時間狼の姿を保つことに成功したのだ。
ただひとつだけ誤算だったのは、満月の夜だった。狼獣人にとって満月の夜は獣の本能を呼び起こされる日だ。この日だけは理性で本能を抑える事が出来なくなり、凶暴性や性欲が増す。そして魔法においても月がもともと持つ魔力に引き上げられ、魔力暴走とまではいかなくてもコントロールが不完全になるのだ。
だから俺は満月の日だけは安定して獣化し続ける事が出来なくなる。獣化できなくもないのだが、昼間は耐えられても夜になるとどれくらい保てていつ人型に戻るかまでは不確定だ。だからこそ、細心の注意を払って万が一にも人化した姿を見られないように警戒していた。
そうして15歳になり成人を迎え、久しぶりに俺の様子を見にきた父は、未だ獣型のままの俺の姿を一瞥すると、一枚の書類を突きつけてきた。
「醜い獣風情はこのブランシャール家に必要ない。今すぐこの書類にサインしてここから出ていけ」
「………分かりました」
歓喜で震えそうになるのを必死に抑え、無機質な声を心掛けて項垂れる。そして口でペンを咥え絶縁状にサインをすると、父だった男はそれをひったくるように奪い、呪文を唱えて紙に火をつけた。一瞬にして消えた魔法契約書は書面上で交わされた内容を二度と覆すことが出来なくなる拘束力の最も高い代物だ。
その瞬間、俺はついに堪えきれない笑みが溢れたが、狼の姿ではそれを判別することは出来なかっただろう。こうして俺はついにこの男から、そしてブランシャール家から縁を切る事に成功したのだった。
その日のうちに屋敷を出た俺は狼の姿のまましばらく進み、何人か見張りでついてきていた奴らが帰って行ったことを確認してから、獣化の魔法を解いた。
久しぶりに人型になり、コキリと首を鳴らす。
そうしてあらかじめ空間魔法で隠し持っていた衣服を取り出し身に纏った。
そうして俺は当てもなく旅をした。
生活資金は魔獣討伐で稼いでいたので困ることはなかったし、世の中の常識についても母が亡くなってからこっそり屋敷を抜け出しては魔法で姿を変えて社会勉強をしてきたから問題はない。
むしろ屋敷にいる頃よりずっと充実した毎日を送れていた。俺のいた世界はなんてちっぽけだったのだろうと思い知る。
それと同時に、俺が本当の意味で誰かを愛し、愛されるなんてことはもう無いと思っていた。
母は死の間際、「この世界のどこかにそのままのシルバーを愛してくれる人がいる」と言っていたけれど、今となっては人化を成し遂げ、俺のありのままの姿というものの境界線がよく分からなくなってしまった。
どうせこの先、必死で習得した獣型魔法の常用もそう使うことはなくなる。獣型の差別意識が根強いこの世界で、わざわざ狼の姿を必要としてくれる存在なんてありはしないと、そう思っていた。
ケイトに出逢うまでは。
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