偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

13 ミリヤム、イグナーツに乗せられる

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 フロリアンの去った執務室では、ヴォルデマーは休む間もなく机に向かい次の仕事を捌いていた。イグナーツと二人、書類を参考にあれやこれやと難しい顔をしている。

「……リヒター家の騎士や兵士達ですが、この辺りの配置を少し変更した方がよさそうです」
「そうか。ならば具体案を紙に起こしてリヒター殿にも確認と許可を頂いておいてくれ」
「はい。あとは……やはり彼等に夜間の立ち番は向きませんね。全員検分致しましたが毛もなく皮下脂肪もあまりありませんから寒さに負けます。夜目も利きませんし、日中担当が妥当かと。まあ、その辺りは夜行性の隊士達とうまく合致しそうです」
「その方が効率がいいだろう、まだ盗賊の残党の報復もないとは……ん……?」

 何かに気がついたヴォルデマーは、机の上に広げられていた砦の配置図から視線を上げる。と、同時に廊下に賑やかな足音が近づいて来て、それは扉の前でぴたりと止まった。
 それが誰の足音かはヴォルデマーにはすぐ分かって、その目元がとろりと和らぐ。が、その足音の主は入室を躊躇っているのか、部屋の前で行ったり来たりを繰り返す。その様子が彼等にも手に取るように分って、ヴォルデマーは更に目を優しくして小さく微笑んだ。

「……ミリヤムですね。廊下をバタバタと……走るなとあれ程言っているのに……」
「また怪我をせぬか気遣ってやってくれ」
「はあ……しかし今度はなんでしょうねえ。一向に入ってきませんが……」

 足音は相変わらず扉の前を行ったり来たりしている。不思議に思ったヴォルデマーは壁際にある美しい飴色の柱時計に目をやった。時刻は夕方には少し早いといった時間帯だ。

「……この時間は仕事中の筈だが……」

 仕事熱心な彼女にしては珍しいなとヴォルデマーが首を傾げた時、ついにその決心がついたのか、落ち着かない足音がぴたりと止まる。躊躇いがちに扉がノックされ、その乾いた木を打つ音にヴォルデマーが静かに入るよう応じると、扉はゆっくりと開かれた。

「……失礼致します……あの、ヴォルデマー様……」
「どうしたミリヤム」
「……」

 その問い掛けの柔らかさにイグナーツは感嘆のため息を落す。

(やはりこれが一番のようだな……)

 自分が幾ら休憩して欲しいと進言しても手を休めない彼が、ミリヤムが顔を見せるとぴたりと止まる。今日はそれだけではない。フロリアンとの会話で室内の空気は重く緊張したものとなっていた。
 しかし今、ヴォルデマーの纏う空気はあっという間に軟化して。その様を見たイグナーツは密かにミリヤムの銅像か絵姿でも作らせてヴォルデマーの目の前に置いてはどうかと半分本気で考える。

「……」
「(? なんかイグナーツ様めっちゃ見てくる……?)ええと……」
「型を取って……ん?」

 ヴォルデマーの手招きにミリヤムが部屋の中に足を踏み入れると、彼女を真剣に観察していたイグナーツが、その後ろ手に不審なものを発見して顔を歪める。

「ちょっと待て、なんだその桶と……」
「桶?」
「あ、えーと……」

 イグナーツの視線は不審者を見るものに変わった。ヴォルデマーは不思議そうに首を傾げている。
 ミリヤムが手にしているのは風呂場で使う木桶と石鹸、それにブラシと櫛、手拭いという品揃え。イグナーツは思った。嫌な予感のする取り合わせだ、と。彼の頭には、衣服を剥ぎ取られ尾を掴まれ、さんざん泡だらけにされた記憶がよみがえった。否応なしに白豹の耳が警戒に倒されるのを見て、ミリヤムはイグナーツがいない時に来るべきだったかと小さく後悔し木桶を守るようにしっかりと抱きかかえた。

「……お前、今度は一体何を企んでいる……」
「失敬な。そんなんじゃありません」

 そんな二人が警戒しあって睨み合うのを、席に着いたままのヴォルデマーは愉快そうに見守っていた。もう以前の様にこの二人がじゃれ合って(?)いてもあまり嫉妬も感じなかった。ヴォルデマーはやれやれと首を振り、低いが柔らかみのある声でミリヤムに問うた。

「それで? 如何した。私に用があるのでは?」
「は、そうでした!」

 促されたミリヤムは一瞬何と言えばいいものかと考え込む。勢いで飛んできたものの、ヴォルデマーに喜んでもらいたいなどと言うことは口に出すのが無性に恥ずかしかった。

(……お礼、お礼よミリ……やれる……やれるわ……! ヴォルデマー様の綺麗な毛並みが埃にまみれたら嫌でしょう!)

 そう己を納得させようとするミリヤムの脳裏には、先程鼠色化していたローラントの言葉が思い出された。

『ヴォルデマー様が皮膚病になってもいいの……? ノミにやられたらどうする?』

(……皮膚病……蚤……)

「ひいい……っ」
「?」
「?」

 ミリヤムは想像して青くなった。想像上ではヴォルデマーはそれでも机に向かって仕事をしていた。あり得ると思った。

(そ、そんな事にしてしまうわけには……でも出来るかしら……今の私にヴォルデマー様のお背中を流す事が……)

 他の隊士や少年達だったら抵抗されても引ん剥いて風呂場に放り込む自信のあるミリヤムだったが、ヴォルデマーを前にすると二の足を踏まざるを得なかった。ヴォルデマーの鍛えられた肉体を覆っている隊服を剥ぎ取り、その毛並みで石鹸を泡立てるのだと思い浮かべると、それだけで足だけでなく心臓もじりじりして中々前に進めない。

「ぐ……み、道は険しい……」
「……ミリヤムどうした? 顔が真っ赤だが……」
「真っ赤ですか、やはり真っ赤でございますか……! 羞恥心消去機能……ヴォルデマー様の前では弱体化、消滅の危機……今は勤務時間内なのに!!」

 以前なら仕事であると割り切ればなんでも機械的に処理する事が出来たのに、とミリヤムは呻いて床に撃沈した。
 床の上で四つん這いで呻いている娘にヴォルデマーが困ったような顔をする。

「ミリヤム? 一体何を……そんなところで絨毯をむしってないで立ちなさい」
「……やはり禄でもないことを考えていますね……」(←イグナーツ)
「ううう……しかし消去しなければヴォルデマー様が蚤にやられる……」
「蚤?」

 その言葉にヴォルデマーが首を傾げた時、やっとミリヤムの中で決意が固まった。綺麗なあの毛並みに蚤なんて絶対に許せないと思った瞬間だった。

「ヴォルデマー様!!」
「ミリヤム?」

 行き成り立ち上がった娘の勢いに獣人二人が少し仰け反っている。ミリヤムはそんな事には気がつきもせず必死で叫んだ。

「一緒に……っ、お風呂に入りましょう!!!!」
「っ!?」
「!?」

 途端、目の前の二人が目を丸くして。ヴォルデマーは生まれて初めて椅子から落ちそうになった。
 ミリヤムはその台詞の方が余程恥ずかしいものであることには気がついていない。

「わわたくしめが蚤の脅威からヴォルデマー様を守って見せます!!」
「……いや……ちょっと……ちょっと待ってくれミリヤム……」

 ヴォルデマーは体制を立て直すと、顔面を押さえミリヤムに制止の手を広げて見せた。黒い毛並みで分りづらいが、どうも赤面しているらしい。その発言に何かを思い浮かべてしまったか、そのままミリヤムの方を見ようとしない。
 反対に傍に立っていたイグナーツは、突っ込みたいのを耐え、目を細めて状況を冷静に窺っている。

「……」
「お背中お流しします!」
「いや、だから……」
「……いいではありませんか。行ってらっしゃいませヴォルデマー様」
「イグナーツ……!?」

 配下の裏切りにヴォルデマーが目を丸くして顔を上げた。イグナーツは平坦な顔で続ける。

「今日はまだ一度も休憩されておりません。最近は色々とご心労も多いようですし……入浴でもして少しゆっくりなさって下さい」
「!? 休憩、していない!?」

 驚くミリヤムにイグナーツはするりと言った。
 
「昨日もその前もだ」
「ええ!?」

 イグナーツの言葉にミリヤムが眉間の谷を思い切り深くしてヴォルデマーを振り返る。
 
「いや、此処のところ忙しいゆえ……食事時は一緒に休んでいるではないか……」
「……そういえば最近その時間も短いと思っていたんですよ……は!? イグナーツ様、夜……睡眠時間は!?」
「昨日の睡眠時間は……“無”だ」
「ええ!?」

 その発表にミリヤムは叫ぶ。

「……」

 ミリヤムは最早ヴォルデマーを睨んでいる。その視線を受けるヴォルデマーは結託し始めた二人に無言になった。イグナーツは明らかにミリヤムを利用してヴォルデマーを強制的に休ませようとしている。実際イグナーツはこの際食事だけでなく休息もミリヤムに任せればもっとヴォルデマーが己を労わるのではと考えていた。銅像なんかよりも余程手っ取り早いとイグナーツはほくそ笑む。
 ミリヤムはヴォルデマーににじり寄った。

「ヴォルデマー……様……?」
「……(顔すごいな……)」

 ミリヤムは胸の前で両手を開き今にも飛び掛りそうな様子でじりじりと詰め寄って行く。表情が怖い。声音はまるで幽鬼の様におどろおどろしい。ミリヤムはがっしりとヴォルデマーの腕を掴んだ。

「ヴォルデマー様、一緒にお風呂、行きましょう……ね……?」
「…………自分で……」

 行く、と言い掛けたヴォルデマーにミリヤムは「なりません!!」と、叫ぶ。

「私めがしっかりと! ご自分では手の届かぬ背の毛の根元まで! 尾の先までも、しっかりと! お手入れさせていただきます!!!」

 そう言いヴォルデマーを引っ張って出て行く娘にイグナーツは、リヒター殿とルカス殿に見つかるなよ、と手を振るのだった。


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