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アンネリーゼ

悪い虫

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 午後からは城内の大聖堂で結婚式の進行の説明があった。

 新年の祈祷はここで行うので私は何度か来ているけれどリードは署名式以来。早めに着いたはずの私よりも先に中にいて懐かしそうに辺りを見回していた。

 「お待たせして申し訳ございません」
 「いや、時間にはまだ早い」

 昨日出てきた箱の中身が頭に浮かび私は頬をポリポリ掻いた。

 「どうした?」
 「……とっても嫌な虫が止まって……」
 「あぁ、夕べの」

 何気なく、本当に何気ない様子でリードは私の手を握り頬から離すと何処か刺されたのかと覗き込んできた。けれども私は咄嗟に息を呑んで飛び退いた。

 どうやら思い出したばかりの記憶はその位置に戻るまでに一定の時間が掛かるみたいだ。13歳のほっぺにチューも今の私にとっては昨日の出来事のようなもので反射的にやってしまったのだけれど、あっと思った時にはもうリードは酷く不愉快そうな顔をしていた。
 
 「ごめんなさい、とっても嫌な虫だったので思い出してしまって……」

 今のは全面的に私が悪い。それは自分でも良くわかっているけれどもいかんせん記憶が生々しくて言い訳を付け加えずにいられない。元はと言えばほっぺにチューをしてくれちゃったリードが悪いのだ。四年以上前だけど。

 「詰め所の護衛騎士まで駆け付ける騒ぎになったそうだな」

 リードは呆れたように言うとじろじろと私の頬を見た。リリアに散々止められたんだけどついつい手が延びちゃって赤みが出ているそれを虫刺されの跡だと勘違いしたようで、いくらか不機嫌レベルの数値は下がったようだ。

 「申し訳ございませんでした」

 リードは私の謝罪を無視して中央通路をつかつかと一人で歩いて行き最前列の座席に座った。ついていくのは癪だけれどもこのままここに居るのも不自然なのでノロノロと後を追い、それでも椅子には座らずに背筋を伸ばして座っているリードの後ろ姿を見下ろした。

 「ハルメサンから聞かされた」
 「そうですか」
 「朝食を共にしたそうだね」 
 「はい」 
 「そうか、朝食をね」
 「それがなにか?」
 「いや……何でもない」

 ですよね。自分だって朝からイケイケドレスのエレナ様と召し上がったんですもの。私とは帰国以来一度だって同席していませんけれどね。

 「封印した箱の中身が漏れたそうだね。何か思い出したりは」「虫です!」

 驚いて振り向いたリードを私は思わず睨んだ。

 「悪い虫が耳元でブンブン羽音を立てて……いきなりほっぺに止まったんですもの!」
 「それは……漏れ出た中身の話だったのか?」

 ポカンとしているリードに指差された私は慌てて左手で頬を押さえた。

 リードの目がほんの僅かに瞠られ、直ぐに本心を探るように細められる。

 「それで……?」
 「虫は…………走って逃げました」
 「でも君は……思い出した君は、悲鳴を上げたんだな」

 リードはまた前を向き、そんなリードの背中を見ながら私は胸に湧き上がって来た罪悪感に戸惑っていた。何だろう、悪気なくつい口にしてしまった言葉でリードを深く傷付けてしまったような感覚は?

 『あ!』

 私は口から出そうになった声を押し殺した。やだわ私。『虫は走って逃げた』ってそう言ってしまった。リードは気が付いたのかも知れない。それがあの時にしたほっぺにチューだって。

 だけど、例え私がそれを思い出して嫌悪感から悲鳴を上げたって、今のリードにとってはどうでも良いことじゃないの?だってリードはもう私の事を…………

 急に目の前が霞んで見えてパチパチと瞬きをした。ぽろんと頬を伝ったものを指で拭うとそれはやっぱり涙だ。どうして涙なんて流してしまったんだろう?何にも悲しいことなどないというのに。

 濡れた指先を信じられない思いで見つめている私の前にいつの間にかリードが立っていた。見上げたリードはすっかり見慣れた刺々しい瞳で私を見ている。

 「何故エレナを挑発するんだ?おとなしくしていられないのか?」
 「は?」
 「エレナが君から侮辱されたと泣いていた」
 「わたくしに、ですか?」

 リードの冷ややかな瞳には、怒りもなければ傷付きもせずただあまりの濡れ衣の酷さに驚いている私が映っている。私はうつむき、それから小さく肩を震わせふらっと近くの椅子に座りそして我慢できずに……

 ボロボロ泣いた。何故ってそれは大爆笑したせいで。

 ヒイヒイ言っている私を苛立って顔をピクピクさせながらリードが睨み付けている。すんごく怒っているのは重々承知しているし失礼この上ないのもわかっているのだけれど、目が合う度に面白さがぶり返してどうしても笑いが込み上げちゃうんだもの。

 「いい加減にしたらどうだ!」

 遂にリードは声を荒げて私を怒鳴り付けた。怒鳴ってる……大きな声で……目をつり上げて…………ダメだって、面白すぎる!

 危険を察知した私は咄嗟に机に伏せ必死に声を押し殺して笑った。でもやっぱりこれには無理があったのかリードは溜め息と共に前の椅子に腰を下ろし、あとは私が落ち着くのを憮然として待っていた。

 「何がおかしい?」

 普通なら吐き捨てるように言う筈のその一言だが、リードはまた私の爆笑スイッチがオンになるのを警戒したらしくおっかなびっくりの疑問文として口にした。それが逆に面白くてまた笑いそうになったけれど。

 「嬉しいわ、殿下は理由を聞いて下さいますのね」
 「何?」
 「帰国されて以来、両陛下からも殿下からもわたくしは理由を聞かれたことなんて一度もありませんでした。いつもいつも一方的な話を鵜呑みにしてわたくしが悪いと決めつけておしまいになるのです。わたくしには反論の機会なんて与えられずただ責められて叱られるばかりで。でも殿下はやっと何故と聞いて下さったのですね」

 そう、リードは理由を尋ねたのだ。誰あろう物言う王太子妃になった私に。
 
 
 
 

 
 
 
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