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第一章

19.私の心、曇りのち雨

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 次の日、私は夏期講習を休んだ。
 どうせ休むんだったら平原さんと海に行きたかったけど、今さらそんなことを言ったって仕方ない。
 朝ごはんも食べないで、私は自分の部屋のベッドに寝転がってじっと天井を見つめていた。
 
「……会いたい、な」
 
 ぽつりと呟いた願望は、私しかいない部屋で響いて消えた。
 きっと、こんなに会いたがっているのは私だけだ。だって、平原さんは私と会えなくたって我慢できるんだから。
 
 そんなひねくれたことを考えていたら、枕元に置いてあったスマートフォンが鳴った。起き上がりもせずに、腕だけ伸ばしてそれを手に取る。長く振動しているから電話だと思うけど誰だろう。
 
「えっ……!?」
 
 着信画面に表示されていたのは、「平原さん」の文字だった。
 動揺して思わずスマートフォンを取り落としそうになる。一気に手に汗をかいてしまった。
 普段通りに彼と話せる自信は無かったから、彼から電話をくれたのは嬉しいけれど出るのに勇気がいる。そうやってまごついているうちに切れちゃうかな、と思ったけれど、コールはなかなか止まない。
 それでもやっぱり平原さんの声を聞きたくて、私は画面をタップした。
 
「も……もしもし?」
『出るの遅いよ、倫。やっぱり今日は家にいたんだね』
「あ……はい、夏期講習は、休んじゃいました……」
『だと思った。今から迎えに行くから、準備して』
「へっ!? じゅ、準備?」
『うん。海行くよ。ああ、海水浴場に行くわけじゃないから水着はいらない』
「え、あ、ええ……?」
『じゃあ、三十分後に一条団地前ね。それじゃ』
 
 私が返事をする前に、一方的に切られてしまった。
 海って、本当に行くつもりなのだろうか。確かに私の夏期講習が無ければ海に行こうと言っていたけれど、今日は曇りだ。しかも天気予報ではこれから雨が降ると言っている。海水浴をするわけではないとは言っていたが、こんな天気の中で海を見に行っても荒れているだけなのに。
 
「……まあ、いいか」
 
 私がここで渋ったところで、平原さんは迎えに来てしまう。それに彼の態度に引っかかりがあるとはいえ、やっぱり会いたい気持ちは抑えられなかった。私はなんて単純な人間なんだろう。
 
 部屋着を脱いで、最近お気に入りのワンピースに袖を通す。前に平原さんとデートしたときもこのワンピースを着て行った。その時彼が「それ可愛い」と言ってくれただけで、この服は私の一番のお気に入りになったのだ。
 今日は少し寒そうだから、その上に薄手のパーカーを羽織った。お母さんに髪を結ってもらう時間は無いから、今日は簡単なポニーテールにする。それから小さめのショルダーバッグの中にお財布とポーチとスマートフォンを突っ込んだ。
 その格好で階段を下りてリビングに向かうと、お母さんと千尋が二人でソファに座ってテレビを見ているところだった。
 
「あら? 倫ちゃん、お出かけ?」
「あ……うん。ちょっと、七海の家に行ってくる」
「えー、またー? 姉ちゃん、最近よく出かけるなぁ」
「うん、ごめん……帰る時間分かったら連絡するから」
「そう……雨降りそうだから、気を付けるのよ」
 
 不満気な千尋と、どこか心配そうに私を見つめるお母さんに、私はまた嘘をついた。本当はこんなくだらない嘘なんかつかないで平原さんと会いたいのに。
 昨日彼が両親に私との関係を打ち明けてくれたら、こんな思いはしなくて済んだのだろうか。
 それとも今すぐにでも彼と結婚したら、堂々と一緒にいられるのだろうか。
 どうすればこんな醜い感情を抱えずに、ずっと平原さんと共に過ごせるのだろうか。
 
 そんな馬鹿げたことを考えながら、私は二人に背を向けて玄関の扉を開けた。
 




 一条団地前のバス停の近くには、すでに平原さんの車があった。小走りで近付いて助手席の窓から中を覗く。私に気付いた平原さんが、薄く笑って車に乗るように手招きをした。
 
「……おはよう、ございます」
「おはよう、倫」
 
 ぎこちなく挨拶をしてから、助手席に乗り込んでそっとドアを閉める。私がシートベルトを締めたのを確認すると、平原さんは車を発進させた。
 
 曇り空の中を走りながら、車内にはずっと沈黙が流れていた。
 平原さんはじっと前を見てハンドルを握っているだけだし、私も何を話したらいいのか分からない。彼と一緒にいて、こんなにも居心地が悪かったことはないだろう。
 昨日の話を切り出すのも憚られるし、かといって「海に行くの久しぶりです」なんて何事もなかったかのように言える雰囲気でもなかった。
 
 しばらくそのまま、二人とも何も言葉を発しなかった。
 しかし住宅街を抜けて大通りに出たあたりで、平原さんが難しい顔をしながらようやく口を開いた。
 
「……倫、昨日はごめん。怖かったでしょう」
「あ……い、え……平原さんが謝ることじゃないです」
「ううん。俺がもっと早く気付いて、もっと早く止められたら良かったんだ。滅多に無いことだから対応が遅れた」
 
 そう言って平原さんは、本当に申し訳なさそうに眉を下げる。
 やっぱり、彼は優しい。悪いのは100パーセントあの痴漢だ。それなのに彼は、気付けなかった自分のせいだと言う。一人の被害者に対して、こんなにも真摯に向き合ってくれる運転手さんはきっとそう多くない。でも。
 
「……いらない」
「ん? ごめん倫、聞こえなかった」
「……そんな言葉、いらないです。ごめん、とか、早く気付いたら、とか、そういうのじゃ、ないんです……私が欲しいのはっ……!」
 
 そこまで言いかけて、はっとして口を噤んだ。
 駄目だ。こんなことを言って、平原さんを困らせちゃいけない。彼だって、昨日の事件があったせいで大変な思いをしたのだ。事件の後処理だって面倒だっただろうし、ただその場に居合わせただけなのに警察の事情聴取を受けるなんて、厄介事でしかなかっただろう。
 ただでさえ面倒に巻き込んでしまったのに、これ以上困らせては駄目だ。それに、私が我慢すれば済む話だ。だってこれは、ただの我が儘なのだから。
 
「……欲しいのは、何? 倫」
「いっ、いえ……ごめんなさい、何でもないです……」
 
 私が俯いて首を振ると、平原さんはすぐ近くにあったコンビニの駐車場に入ってそこで車を停める。しかし車を降りてコンビニに入るわけでもなく、ぎゅっと口を噤んで俯いている私の方に体を向けた。
 
「もう一回だけ聞くよ。倫が欲しいのは、何?」
「だ、だから、本当に、何も無いんです……」
「本当に?」
「……は、はい」
 
 私を見つめる彼の瞳を、見つめ返すことができない。
 ぽつ、ぽつ、と車のフロントガラスに水滴が落ちるのが見える。天気予報より随分と早く雨が降ってきたみたいだ。雨音はすぐに大きくなって、そのうちにフロントガラスには雨が滝のように流れ落ちてきた。
 これじゃあ、とても海を見に行くなんて状況ではない。なのに平原さんは雨が降り出したことに気付いていないみたいに、穴が開きそうなくらいじっと私を見つめたままだ。
 
「……ひ、平原さん? あの、こんな天気ですし、今日はやめた方が……」
 
 沈黙に耐えきれなくなって、私は彼から目を逸らしたまま中止を提案した。雨もそうだけど、さっきから平原さんの様子がおかしい。確か前もこんな雨の中彼の車に乗って、そして彼の機嫌が悪くなった気がする。
 
「……分かった。海に行くのはやめよう」
「あ、は、はい、そうですよね」
「家に帰る。車の中じゃちゃんと尋問できない」
「はっ……? じん、もん……?」
 
 この展開も、前と一緒だ。
 私が同じ学校の女の子たちに嫌がらせを受けて、平原さんが助けにきてくれた、あの時と。
 
 それに気付いた時にはもう平原さんは素早く駐車場を出て車を走らせていた。向かっているのは、たぶん彼の家だ。たぶんじゃない、絶対。
 
「ひ、平原さ」
「黙って。家に着いたら聞くから」
「え……」
 
 家に着いたら聞くって、私は行きたくないのに。
 このまま平原さんと一緒にいたら、きっと我慢できなくなる。みっともなく彼に縋りついて、ひどく自分勝手な言葉をぶつけてしまう気がした。
 でも、彼もまた私のように何かを我慢しているみたいな、何かにひどく苛立っているような険しい顔をしていた。なんで平原さんまで、こんな顔をするんだろう。
 そんな彼に言葉をかけることができなくて、私はただ俯いて次第に強くなる雨音だけを聞いていた。
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