【完結】秀才の男装治療師が女性恐怖症のわんこ弟子に溺愛されるまで

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二人の変化

それは、目覚めでした

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 クリスがベッドから下りようとしたところで、ノックの音が響いた。見知らぬ部屋と覚えのない状況にクリスが息を殺し、動きを止めて警戒をする。

「おはようございます」

 聞き馴染みのある声にクリスはスッと力を抜いた。ドアが開き、予想通りの人物が紅茶を載せたトレイを片手に入る。

「クリス様、今朝の紅茶は……」

 カリストが空いている手でドアを閉めながら前を向く。そこで、クリスと目が合った。その瞬間、カリストの動きが止まり、滅多に動じることがない表情が少し崩れる。

 クリスが珍しいものを見た、と思っていると、カリストはすぐにいつもと同じ優雅な微笑みを浮かべて頭をさげた。

「おはようございます。随分と長い眠りでしたね」
「感覚的には一晩寝たぐらいだが、そんなに寝ていたのか? あと、何があった? ここはどこだ?」

 カリストがカップに紅茶を注いでクリスに差し出す。

「簡単に説明しますと、クリス様は記憶喪失になっておりました」
「記憶喪失? 原因は?」

 クリスが他人事のように聞きながら紅茶を口にする。フルーティーな甘みと花の香りが鼻を抜け、朝から優雅な気分になる。
 初めての紅茶の味を堪能していると、カリストが懐から鼈甲の櫛を取り出した。

「馬車から降りる時に足を踏み外し、背中と頭を強打したのが原因だと思われます。一応、シェットランド領から治療医師を呼び、診察してもらいましたが、体に異常はないということでした」
「ふむ。と、いうことは一時的なもので、そのうち記憶が戻ると判断したか」
「はい。ですので、治療院研究所は休んでいただき、自由に過ごしておりました」
「それが妥当だな。記憶がないから治療など出来ないだろうし」

 納得しながら紅茶を飲んでいたクリスの手がふと止まる。しかし、カリストは櫛で髪を梳かしながら話を続けた。

「記憶がないため魔力のコントロールが出来ず、駄々洩れになっておりました。ですので、怪しまれないためにケリーマ王国へ療養という名目で移動しました。今はケリーマ王国の王城の離れの一室に宿泊しております」

 クリスからの返事はない。無言なのだがカタカタとカップが揺れる音がする。

「どうかされましたか?」

 カリストの問いに、クリスは空になった紅茶のカップを放り投げた。

「おっ……と」

 放物線を描きながら落ちてきたカップをカリストがキャッチする。そして視線を下げると、クリスは頭から布団に潜り込んでいた。

「いかがされましたか?」

 良い笑顔で訊ねるカリストに、クリスが怒鳴る。

「分かってて言っているだろ! 私は……私は……だあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!」

 クリスが何かを振り払うように叫ぶ。

「あれは私ではない! 私ではない! 私は! 私はぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 布団の下からベッドを殴る音がする。
 カリストはニッコリと良い笑顔で感想を述べた。

「記憶がないクリス様は、なかなか可愛らしかったですよ」
「言うなぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!!」

 クリスが布団の中で絶叫する。走馬灯のように次々と甦る記憶たち。羞恥で死ねる内容の数々。いや、死なせてほしい。いますぐ、この世から消してほしい。

 悶えていたクリスが突然ベッドの上に立ち上がる。布団を頭から被ったまま仁王立ちをしている姿は子どもの絵本に出てくる幽霊のよう。
 実際に布団の隙間から見える目は不気味な輝きを放つ。

 カリストが黙って見守っていると、クリスは被っていた布団を投げ捨てた。そのまま勢いよく窓へ走り出す。
 が、その動きを予測していたカリストがクリスの首根っこを掴んで止めた。

「はい、落ち着いてください」
「落ち着けるか! 殺せ! 一思いに殺せ! それが出来ないなら窓から飛び降りて死ぬ! 放せ!」
「はい、はい。これぐらいの高さから飛び降りても、足の骨を折るぐらいですから。治療が面倒なので、無駄な怪我はしないでください」

 力の限り暴れるクリスをカリストは首根っこを持ったまま軽く持ちあげた。母猫に首根っこを咥えられて持ちあげられている子猫のような光景だ。

「大人しくしないと、犬を連れて来ますよ?」

 それまで暴れていたクリスがピタリと制止する。
 クリスは錆びた金属のように、ギギギッと音がしそうな動きで、顔をカリストの方へ動かした。

「……犬は重傷と魔力不足で、動けないだろ?」
「おや。そこまで思い出していましたか」
「……たぶん全て思い出した」

 呟きながらクリスがカリストを睨む。その顔は羞恥と怒りに震えていた。

「そもそも、なんだ!? あの痛いの痛いの飛んでけ、は! しかも、想い人にしか効かない魔法だと!? そんな魔法あるわけないだろ! 簡単に信じすぎだ! 記憶がない時の私!」

 叫びながらクリスが絶望の淵に沈む。カリストがやれやれと肩をすくめながらクリスを床に下ろした。

「過ぎたことを言っても、しょうがないですよ」
「そもそもの原因がなにを言っている! おまえが! おまえが変なことを教えなければ!」

 クリスが床にしゃがみこんだまま、目元を赤くして、うっすら涙目でカリストを睨む。その顔を見ながらカリストは平然と言った。

「まさか、あんなに簡単に信じるとは思わず……ブフッ」
「笑うなぁぁぁぁ!」

 思わず吹き出してしまったカリストがクリスに背を向けて笑いを堪えた。だが、肩が小刻みに震えているのが後ろ姿でも分かる。
 クリスは再びベッドに潜り込んだ。

「もう、生きていけん!」
「はい、はい。それより犬が記憶のない時のクリス様をどう考えるか、ですね」
「……あんなの私であってたまるか。知識不足で一緒にいられない、力になれない、と嘆く暇があるなら、少しでも知識をつけろ。何もせずに嘆くのは時間の無駄だ」

 カリストが面白いものを見るかのように苦笑する。

「ご自分のことなのに辛辣ですね」
「自分だからこそ、余計に腹が立つんだ。ただ、知識をつけるより記憶が戻るほうが時間的に早いと考えたのであれば、その通りだが……我ながら面倒なヤツだった」
「面倒よりも、可愛らしいの方が勝っておりましたね」

 クリスが無言で枕を投げつける。カリストはあっさりと枕を受け止めてベッドに置いた。

「朝食はいかがされますか?」
「食べるしかあるまい。どうせ犬は動けないし、顔を合わすことはないだろ。そもそも、犬も忘れれば……そうか!」

 クリスが名案とばかりに手を叩く。

「私は記憶がなかった時のことは、なにも覚えていないことにすればいい! それがいい!」
「……うまくいきますかね?」

 呆れた顔をしているカリストにクリスが迫る。

「いいか!? 余計なことは言うなよ!」
「わかりました」
「よし! これで解決だ!」

 窓から降り注ぐ光明をクリスが安堵の表情で浴びる。そこにバタバタと走る音が迫って来た。
 息を切らしたラミラがドアを開けながら叫ぶ。

「クリス様! 犬が!」

 一瞬で室内に緊張が走る。クリスはラミラから詳細を聞く前に部屋を飛び出していた。





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