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1巻

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 さっと吹いた風に、若木には重たくも見えるほど鮮やかに萌えた葉たちが、擦れあってさわさわと涼やかな音を立てる。いくつかが枝から千切れて舞いあがり、一陣、二陣と吹く風に翻弄されながら、やがてひらひらと舞い落ちていった。
 ミシュアル・アブズマールは、植込みの向こうにある池は、そろそろ葉っぱだらけになっているだろうかと考えた。
 細緻な彫刻が施された太い石柱が支える天井ははるか高くにあり、おかげで外に立っているミシュアルが直接日差しにさらされることはない。けれど、ミシュアルからぎりぎり屋根のひさしが見える位置にある、垣根向こうの四阿あずまやの白い屋根は、陽光に照らされて輝いていた。
 四阿あずまや自体は周囲を池に囲まれているので一見涼し気だが、影の下にいるのといないのとでは体感温度がかなり変わる。四阿あずまやの近くに配置されていても軒下に入ることは許されていない衛兵が二人、今もそこに立って任務にあたっていることを考えたミシュアルは、暑いながらも影に入ることが許されている自分の身を幸運だと思った。
 ミシュアルと彼らは同じように国に仕える衛兵だが、その役職が違う。彼らは広大な宮殿の各所を守るための任務についているが、ミシュアルは主一人を守るためにここにいる。その主は、ミシュアルが出入口を守る部屋の中にいた。

「ミシュアル。ねえ、ミシュアル。ちょっと来て」
「はい、ただいま」

 吹いてきた風に頬を冷やされて体の力を抜いたのもつかの間、呼ばれたミシュアルは入口に掛けられた紗をめくって室内に滑り込んだ。本来ならば頑健な木の扉があるが、ミシュアルの暑がりな主はこうやって扉を開け放ち、代わりに紗で入口を覆うだけにするのが好きだった。

「何かございましたか、ラナ様」

 外に比べると幾分か涼しい室内に入ると、ミシュアルの主であるラナ・サーディクと侍女のハシュマが壁際の背の高い収納棚の前に立っていた。

「刺繍をしたいから、布を下ろしてほしいの。ハシュマも私も全然届かなくて」

 あれなんだけど、とほっそりした指が指すのは棚の上に置かれたかごだった。
 上背があるミシュアルに比べて、女性であるラナは小柄だ。傍で申し訳なさそうにしているハシュマに試させた後で、自分でも手を伸ばしたのだろう。

「お取りします」

 ラナやハシュマには取れなくても、彼女たちより頭一つ分大きいミシュアルには余裕で手が届く高さだ。
 難なくかごを取るとずっしりと重い。それを近くのテーブルまで運ぶと、さすがね、とラナが拍手した。

「ありがとう、ミシュアル。ねえハシュマ、お茶をいれてくれる? ミシュアルとお茶がしたいの」
「かしこまりました、少々お待ちくださいね」
「ラナ様、私は……」

 ミシュアルは衛兵だ。まさか主であるラナと同席するなどありえない。それも、ラナはただの主ではない。
 そもそもミシュアルとラナがいるここは、広い池のある中庭と立派な宮を四つ有する広い敷地の一角だが、それも広大な敷地の一部に過ぎない。
 ここは宮殿内に三か所ある後宮ハレムのうちのひとつ、王族の妃候補が住まう、宮殿の中でもごくごく限られた人間しか足を踏み入れることができない場所。そして、ラナは後宮ハレムにそれぞれ四つずつある宮のうちのひとつを与えられた姫の一人だ。次代の妃候補の一人である彼女に触れられる男性は現王イズディハールただ一人で、同席や会話が許されるのも王のみとされていた。
 思わず言葉につまったミシュアルに、けれどラナはつんと唇を尖らせた。

「あのね、ミシュアル。陛下からお許しをもらってるって前にも言ったでしょ。それに、あなたの仕事だって本当は私の護衛じゃない。私の付き添いってことを忘れたの?」
「ですが、ラナ様」
「ラナ様もやめて。お茶をする時に様なんてつけたら、お茶をかける……ううん、もったいない。ハシュマにも悪いし。うーん……私が池で飛び込むなんてどう?」
「やめてください」

 ラナは美しい女性だ。細く美しく縒った絹糸を黒く染め抜いたような髪を綺麗に結い上げて、その束を精緻な飾り彫りが施された金環でまとめていた。装いも華やかで、キトンと呼ばれる鮮やかな赤に染められた一枚布を華奢な体に巻き付け、肩部分をブローチなどで留めている。しなやかなむき出しの腕には金のメダルが無数についたストールをまとい、細い手首を金細工のブレスレットで飾ったその見た目こそ深窓の令嬢といった風情だが、実際はとんでもなく活発で、池にだって容易に飛び込みかねないお転婆な姫だった。
 飛び込まれてたまるかと、とっさに言葉尻をさらうように早口でミシュアルが止めると、赤い唇がにっこりと弧を描いた。

「それなら、せめてお茶の間は様付けをやめて。それと敬語も」
「ラナ様、それは」
「泳ぐにはいい季節よね」
「……ラナ。頼むからそれは本当にやめてくれ」
「飛びこまれたくなかったら、前みたいにして。外に出る時は今みたいなのがいちばんだとは思うけど、あなたはもともと私の話し相手も兼ねてここにいるんだから」
「それは……そうですけど」
「敬語」
「……そうだけど。でもラナ、ラナは陛下の妃殿下の候補の一人で……」
「あっ、ハシュマ! なあにそのお菓子、美味しそう!」

 幾分も高い背をしょんぼりと縮めて、それでも言い募ろうとするミシュアルの横をラナはすりぬけて行ってしまう。振り返ると、ハシュマが銀盆に茶器とお菓子をのせて戻ってきていた。

「ちょうど陛下から、ラナ様へとお届けいただいたとのことでお持ちしました。ミシュアル様もぜひにと」
「陛下から? それなら仕方ないわね、お茶をしないと。ねえミシュアル」

 ラナがにっこり笑い、ハシュマもおっとりと微笑んでいる。
 これは仕方がない。なんと言ったって陛下からの賜りものになるのだ。拒否などできるはずもない。思わずため息をついたミシュアルだったが、ころころと鈴を転がすような声で笑うラナは、おやつの時間よ、とにっこり笑った。


        ◇


 ミシュアル・アブズマールは、本来ならば後宮ハレムにいられる人間ではなかった。
 生家アブズマール家は歴代軍人を輩出する名家であり、父も国に二人しかいない将軍のうちの一人だ。兄二人も軍に属しているため、ミシュアルもいずれは軍人として王宮に仕えるのだと、周囲はもちろん彼自身もそう思っていた。
 しかし、ナハルベルカの軍属は一部の例外を除いてアルファもしくはベータで構成されていた。
 この世界には、男女以外、むしろそれよりもはるかに重要な性別がある。
 アルファ、ベータ、オメガの三性徴だ。
 三つに分かたれた性別は男女にかかわらず備わり、誰もがいずれかに分類される。
 まずいちばん多いのがベータだ。ノーマルとも呼ばれ、特筆すべきことはない。大体の国で人口の七割から八割を占めるのが彼らであり、上流階級にこそ少ないものの、中流階級から貧困層まで、幅広くに分布している。彼らは他のアルファやオメガの持つ体質に左右されることはなく、子どもを産めるのは女性だけだった。
 次に数が多いのがアルファだ。アルファは様々な能力に秀でており、カリスマ性にも富むとされている。主に上流階級や支配層に多く、その中には王族や貴族、大臣などが多く含まれている。特徴的なのはその性徴で、アルファでも出産できるのは女性だけだが、アルファ女性には陰茎に準じる器官があるため、彼女たちは子宮があるオメガの男性を懐胎させることも出来た。そしてアルファ性はオメガの発情を誘発させるフェロモンや他のアルファと戦うための威圧プレッシャーなどの体質も持ち合わせ、同時にオメガから放たれるフェロモンにアルファとしての本能を刺激されることもあった。
 三性徴の中でいちばん数が少ないのがオメガだ。身体能力はベータと変わらないが男性女性ともに子宮があり、出産が可能な性。それがオメガだった。
 個人差はあるものの、オメガは十代の半ば頃から三ヶ月に一週間ほどの強い性衝動に襲われる、発情期ヒートが始まる。同時にアルファの興奮を煽り、性的欲求を増幅させるフェロモンを本人の意思に関係なく放出して、つがいとなるアルファを求めるようになる。つがいを持たない限りは、同じようにつがいのいないアルファの性衝動を誘発させるフェロモンを発情期ヒートのたびに放出するのが厄介だったが、つがいとなるアルファが見つかれば、当事者にのみ作用するフェロモンへと変わった。
 そのためほとんどのオメガが一定の年齢になるまでには許婚を決めており、場合によっては複数のオメガと契約しているアルファに頼み込んで、つがい契約を結んでもらうことも多々あった。
 そうでもしなければ望まぬ性交が乱発し、国の風紀や文化に乱れが生じる。地域や風習、宗教によってはオメガは性に一生を振り回されるものとして蔑視し、酷ければオメガとわかった時点で子どもを捨てるような国もあった。けれど一方では、男性でも子供を授かれることから多産の象徴としてあがめる国もあった。
 そんな中、ミシュアルは生まれた時から「きっとこの子はアルファになる」と言われて生きてきた。
 それと言うのも、ミシュアルの他よりも恵まれた体格に理由があった。
 気性は穏やかで内気ながら、父や兄のようにいつかは軍属につくのだと幼い頃から鍛え上げた体は立派な厚みを持ち、身長もぐんぐん伸びて、父や兄たちと並んでも遜色なく立派に育った。顔立ちもはっきりしており、母によく似ていると言われる目はくるりと大きく丸い。そのうえにあるしっかりとした一の字を描く眉と同じ黒々とした髪は豊かで、ゆるく癖のあるそれが日差しに照らされると、つややかな褐色の肌をした立派な体躯も相まって、まるで黒い獅子のようだとさえ言われた。
 そして、アブズマール家はアルファの多い家系でもあった。父はアルファで、四人いる兄姉も全員アルファだ。家でオメガであると明白なのは母のラテアスだけで、ミシュアルが十歳の頃には彼の身長を抜いてしまっていた。
 そもそも、オメガは男女ともに見た目はベータの男女とあまりかわらない。むしろやや小柄な者が多い。ミシュアルの母であるラテアスは男性だが、屈強な体躯をした父ファルークの肩よりも少し下に頭がくるほど小柄だ。アルファ、オメガの体つきにも個人差があるが、それでもミシュアルは一見してアルファであると万人が思うような恵まれた体躯に成長した。
 主にそういう理由があり、ミシュアルはもちろん周囲も、性徴検査が行われる十三歳の誕生日までアブズマール家の末っ子はアルファと判定されるだろうと思っていた。
 ミシュアルは今でも覚えている。
 十三歳の昼下がり、神殿に連れて行かれたミシュアルは、性徴検査まで無事育ったことを大神官から言祝がれた。壁面に彫りこまれた緻密な透かし彫りから差し込んだ陽の光が、広い神殿の中に満ちていた。付き添っていた母が喜びの涙で頬を濡らし、その肩を抱いた父に、さあやってごらんと促されたミシュアルは磨きこまれた大理石のタイルの上を数歩進み、神官に手のひらを差し出した。

「少し痛みますよ」
「はい」

 緊張して硬い声で返事をしたミシュアルに微笑んだ神官が、指先にぷつりと針を突き立てる。みるみるうちに浮いた赤い雫がその下に置かれた杯に落ち、白い器に満たされた清水に靄のように薄く広がった。

「こちらを」

 どうぞ、と差し出された石は小指の爪ほどの小さなかけらだ。この小さなかけらを杯に落とし入れるのがナハルベルカでは昔から行われている性徴検査であり、検査が終われば大体の人はこれを小袋などに入れて、その後は持ち歩いたりするのが習慣だった。
 本来は純白のかけらだが、水に一滴だけ混じった血に反応してそれぞれの性徴を示す色に変わる。大体はベータをあらわす赤になり、アルファとしての素養が強ければより深い青に、オメガとしての素養が強ければより明るい黄色になる。特に王族や貴族は血統的にアルファであることが多く、王族の石は黒にさえ近いほどの青に染まるとも噂されていた。
 そして、ミシュアルに四人いる兄姉たちは、全員がアルファだ。長兄であるジュードの性徴検査の頃はまだ物心がつく前だったので覚えていないが、兄弟たちの石が青く染まったのを見た両親が喜んだのを、次兄や長姉、次姉の分、三度も見てきた。
 母の、まるで宝石のように澄みきった黄色い石も美しいと思うが、自分の石はきっと青く染まる。そう信じていた。
 白いかけらは、蜂蜜の雫によく似た黄色に染まった。
 ナハルベルカはオメガ差別の少ない国だと言われている。歴代王にはオメガを正妃にした王もおり、オメガだからといって奴隷にしたり捨てたりすることは国の規律で厳しく禁じられている。国にオメガであることを申請し、許可札をもらえればフェロモンや発情の抑制薬や避妊薬を無償で受け取ることも出来た。
 貧困層では薬を手に入れることもできず、適当なアルファに契約してもらったあとは体を売る仕事を押し付けられてしまったり、より優秀なアルファを得るためにと人身売買にかけられることもある他国に比べれば、ナハルベルカははるかにオメガが生きやすい国だ。
 けれど、それでも性徴自体の特徴が国によって変化するわけではない。いつか軍属になって国に仕えようと思っていたミシュアルにとって、オメガであるということは夢を断たれたも同然だった。
 体格や体の丈夫さはアルファが抜きんでており、ベータとオメガは同等程度だが、軍属ともなればアルファとベータしかいなくなる。階級が上がればそれは顕著になり、オメガが入軍することなど、そもそも考えられることではなかった。
 万が一、オメガが戦場に出ることになった時、もしつがいがいなければ敵のアルファだけでなく、味方のアルファまで使い物にならなくしてしまう可能性があるからだ。つがい契約の済んだ体だとしても、発情期ヒートが来れば戦うことなどできはしない。家にこもってひたすら劣情に泣き、己のつがいの精を求めるしかなくなる。抑制剤もあるが、副作用が出ないわけではない。そういった理由があり、オメガが軍属になることは認められていなかった。
 将軍の座は長兄が継ぐので思い描いたこともないが、兄や父と並んで賊や他国軍と戦い、立派に功績をあげて国のためになることを夢見ていた。
 しかし、たったひとかけらの石が黄色になったことでミシュアルの夢は潰えた。
 信じることができず、もう一度お願いします、と大神官に頭をさげた。ミシュアルは左手の他の指をそれぞれ一度ずつ針で突いてもらい、全部で五個の石を血の混じった水に沈めた。どの石も鮮やかな黄色に染まった。
 母が縫ってくれていた小さな布袋に五個の石を入れて、ミシュアルは家に帰った。
 家では祝宴の準備が行われていた。駆け寄ってきた次姉のサルゥハに「石、どのくらい青くなった?」と言われると張りつめていた糸が切れてしまって、ミシュアルはその場でしくしくと泣き出してしまった。
 アブズマール家の男が泣くとは、とは誰も言わなかった。母は背中から抱きしめてくれた。父は頭を抱いてくれた。兄姉たちは困惑しながらも、お前が自分たちの家族であり、可愛い末弟であることは変わらないと慰めてくれた。
 ぐすぐすと泣くミシュアルの手からは袋が落ちて、黄色の石がころころと床に転がった。
 その日から、ミシュアルは自分が何をすればいいのかわからないままだった。
 とりあえず日課だった鍛錬は欠かさなかった。動かずにいると、逆に体がもぞもぞしてしまって落ち着かなかったからだ。けれど軍には入れない。それならばつがいを探したらどうかと兄や姉は言ってきたが、好きにしていいと、両親は急がせることもなかった。
 やがて発情期ヒートが始まった。最初こそ体が不慣れなためか高熱を出して意識がもうろうとし、わけのわからない疼きに泣いて悶えた。
 抑えようのない情欲と疼きと渇望は辛い。けれど、抑制剤を飲めばどうにか抑えられる。そして、幸いにしてアブズマール家は国内でも有数の富豪だった。同じオメガである母の提案で広い敷地の一角には私室とは別に囲いのある小さな離れが建てられ、ミシュアルは発情期ヒートになるとそこで過ごした。
 けれど三ヶ月に一度程度とはいえ、発情期ヒートのたびにそこで一人でこもり、薬を飲んでは悶々とした一週間を送るのはひどく寂しい。発情期ヒートのたびに心がすり減っていくようだった。やがてミシュアルは、せめてつがいがいれば、こんな寂しさや虚しさから解放されるのかと思い始めた。十六の時だった。しかし同じ頃、自分の体がおかしいことにも気付いた。
 ミシュアルの体は、フェロモンを出していないようだった。
 そもそもオメガはアルファを刺激するフェロモンを放出する。これは発情すると特に放散されるものだが、そうでない期間でもわずかながら漏れているもので、性徴の強いアルファなどはすぐに嗅ぎ分けられる。
 しかし、普段から特に抑制剤を飲んでいるわけでもないのに、ミシュアルからは発情期ヒートになってもフェロモンが放たれている様子はなかった。一度など、家に来たアルファの来客がうっかり迷ってミシュアルの離れまで行ってしまったことがあったが、それでも気付かれることはなかった。

「母上。俺はアルファにもなれなかったのに……オメガとしても、だめな体なのかな」

 フェロモンが出せないなら、アルファに見つけてもらうことが出来ない。オメガであることを秘匿しているわけではないが、フェロモンが出ていないのならば、つがいを見つけることが難しくなるのは明白だった。
 ミシュアルは家族の中で唯一同じ性徴である母に相談した。すると母はしばらく考え込んだあと、父とアブズマール家お抱えの医者を呼んだ。
 あれやこれやと調べられ、あの性徴検査をもう一度やった結果、ミシュアルはとんでもないことをつきつけられた。

「大変………申し上げにくいことなのですが……」

 頭蓋布を取り、はげあがった頭に浮いた汗を拭く医者はひどく顔色が悪かった。
 彼はミシュアルが生まれる前からアブズマール家に仕えていて、いつも陽気だった。会うたびに冗談を言っては笑わせてくれ、ミシュアルの抑制剤がなくなりそうになると「頃合いかと思いましたよ」と美味しい菓子を一緒に包んでくれたりもした。
 いつもにこにこ笑っていた彼は、まるで罪人のように膝をつき、同席していたミシュアルの父ファルークを見上げた。

「誓って偽りは申しません。幾度か確認いたしましたが……坊ちゃんは……、ミシュアル様は……契約が……つがい……その、……ミシュアル様は、つがいのいらっしゃるお体です……」

 衝撃を受けたのはもちろんミシュアルもそうだったが、倒れたのはラテアスだった。細い体がふらりと後ろに傾ぎ、とっさにファルークが支えた。

「つがいがいる……?」

 青ざめた顔でぐったりとしている母を抱えた父の視線がミシュアルに突き刺さる。青くなるのはミシュアルの番だった。

「お、俺はまだ……。父上、母上、お……俺は、誰の前でもこれを外したことはありません。誓って、誰かとつがうような、せ、せ、性交を……性交をしたこともありません」

 見合いどころか、誰かと付き合ったこともない。心当たりがないのに契約がなされた、すなわち誰かしらつがいのいる体だと言われても、納得することはできない。
 思わず波打つ黒髪のさらに下、うなじに手をあてる。牛の革で作られたベルトはオメガとわかってからつけるようになったもので、週に何度か、風呂あがりに取り換える時以外は外すことのないものだ。
 どこかで勝手にベルトを外し、知らぬ誰かに牙を立てさせたのかと疑われていると思うと、いたたまれなさと焦りが手を震わせる。とっさに腰に差していた短剣を取り、首とベルトの隙間に差し込んだ。

「ミシュアル、違う、やめるんだ」

 父の焦った声が響き、坊ちゃん、と医者の声もする。けれど構わずベルトを短剣で引き裂くと、刃が肌を撫でて、首からは血がしたたった。
 さすがにひりひりしたが、ざっくりと切ったわけではない。痛みになど構っていられず、ミシュアルは普段はベルトと髪に守られているうなじを、まるで斬首を待つ罪人のように父に向って差し出した。

「噛み跡などありません。俺は、俺は誓って父上や母上に顔向けのできないような不貞はしていません……っ」

 ぼろぼろと涙が出てきて、そのままミシュアルは床に突っ伏して泣いた。
 その後、ミシュアルは発情期ヒートがくるたびに検査を受けた。血縁関係のないアルファを呼び、ミシュアルからフェロモンが放たれているかという確認もしてもらったが、やはりすでに契約のなされた体という結果が出た。
 つがうどころか、誰とも性交をしていない。それなのに誰かの手つきになってしまっている。いったいなぜなのか、つがいが誰なのかもわからない。それでも発情期ヒートがくれば、体はつがいを求めて疼いた。
 もはや日課となった鍛錬を積みながらも、それを活かす夢はもう潰えている。かといって、誰がつがいなのかわからない以上、簡単に外に出ていくこともできない。これが一般的な家庭に生まれ育ったオメガならば、それでも働かなければ生きていけないが、ミシュアルの生家は国内でも有数の名家だ。途方にくれながら定期的にやってくる発情期ヒートを軸にするように日々を過ごしても、衣食住に困ることもない。
 それに甘えて無為に日々を過ごしていたミシュアルに転機が訪れたのは、二年前に後宮ハレムへ上がった幼なじみのラナが会いに来た日のことだった。


        ◇


「ミシュアル、あなたに後宮ハレムに来てほしいの」

 ラナ・サーディクは昔からさっぱりとした気性の令嬢だった。
 アブズマール家と双璧をなす名家サーディク家の次女で、サーディク家では唯一のベータだ。彼女の母がミシュアルの母ラテアスの妹で、ミシュアルにとっては一つ年上の従姉にあたる。昔から何かと会う機会も多く、実の姉弟のように仲が良かった。
 そんな彼女は二年前に現王イズディハール・カリム・ナハルベルカに請われて後宮ハレムに上がっており、妃候補の一人でもあった。いとこ同士で仲が良くとも、さすがに後宮ハレムにいては気安く会いに行くことも出来ない。それでも手紙のやり取りはしていた。
 そんな中、突然ラナがアブズマール家に遊びに来るという連絡が寄こされたのだ。何事かと思いながらも、ミシュアルに断る理由はなかった。
 一緒に育ったとはいえさすがに妃候補なのだからと、室内で二人きりになるのは避け、ミシュアルはラナを中庭の四阿あずまやへ案内した。二年ぶりに会ったラナは相変わらずミシュアルよりも年下に見える愛らしい童顔をにこりと微笑ませると、来客用の茶や菓子が運ばれてくるよりも先に、後宮ハレムへ来ないかという誘いを向けてきた。
 見当もつかなかった従姉からの誘いに、ミシュアルの口は薄く開いたきり閉じない。けれどやってきた侍女たちが水差しと果物や菓子を並べ、ラナが遠慮なくクッキーをひとつ口に運んだところで、ミシュアルはようやく瞬きをした。

「はっ……後宮ハレムは、陛下の妃候補の方や、王妃様がお住まいになられる場所だろ。俺が、なんのために……」

 現王イズディハールは、三年前に即位した青年王だ。未だ正妃や妃はおらず、代わりに後宮ハレムでは妃候補として集められた者たちが生活している。
 ナハルベルカ王国の後宮ハレムはアルファの住まう青玉の宮、ベータの住まう紅玉の宮、オメガの住まう黄玉の宮の三区画に分かれている。そこには妃候補となる男女が四人ずつ身を置いていて、ラナもその一人だった。
 つがいを持たないベータや、そもそも王と同じ性徴であるアルファは別として、オメガとして後宮ハレムに上がるならば、そのつがいは絶対的に王でなければならない。
 けれど、ミシュアルはつがい契約の済んでいる体だ。それに、アルファにしか見えないほど体格に恵まれたと自認している。王族はもちろん、誰かのつがいとして愛される自分の姿など想像もできなかった。
 なぜそんな誘いをとラナの真意がわからずにいると、運ばれてきた果実水を受け取った彼女はこくりと一口飲んで、白い器から唇を離した。

「私の護衛になってほしくて」
「でも、衛兵はいるはずだろう、……ちゃんとした、軍属の」

 後宮ハレムにはそれぞれ護衛がいる。アルファの宮とベータの宮にはアルファの衛兵が、オメガの宮にはフェロモンに左右されないベータの衛兵が配置されているはずだった。
 今更自分など必要ないし、オメガなので衛兵にもなれない。そのくらい知っていると、ささくれだつ心を態度や言葉にしてぶつけてしまわないよう、ミシュアルは器に山と盛られた果実を摘んで口に含んだ。しかしすぐに、そんなのいや、と不機嫌な声が返った。

「衛兵はいるけど、話はしてくれないし、部屋にも入ってくれないのよ。お願いしたいことがあるのに」
「そんなことをしたら首が飛ぶ」
「飛ばない。陛下は優しい方よ。あなたも知ってるでしょ」
「知ってる……けど」

 後宮ハレムで妃候補として過ごしているラナはもちろん、ミシュアルも現王イズディハールには会ったことがある。ミシュアルより三つ年上で、穏やかな顔立ちをした青年だ。
 最後にイズディハールに会ったのは去年だ。兄ジュードの第二子でありミシュアルの甥にあたるレイスが一歳になった祝いの宴に、国王であるイズディハール自ら訪れてくれたのだ。
 話しかけたいのはやまやまだったが、宴の主役はイズディハールの近衛軍の長であるジュードと、その子だ。ミシュアルは挨拶あいさつもそこそこに部屋へ戻った。
 本当ならば、叔父として立派に立ち振る舞うべきだったのかもしれないが、大勢の集まる場は苦手なのだ。もともと内気で人見知りするきらいがあるうえ、アルファが多く集まれば集まるほど、そこにミシュアルのまだ見ぬつがいが現れる可能性も高くなる。それが怖くて部屋に戻ったのだが、宴が終わった頃、使用人が珍しい果実をいくつか載せた皿を持ってきてくれた。

「陛下が本日、お持ちくださったものです。それから、こちらをお預かりしています」

 そう言って差し出された手紙には、使用人に持たせた果実は珍しいものだが日持ちしないので、美味しいうちに食べてくれると嬉しいということ、それからせっかくの機会だったから話がしたかった、次に会えたらぜひ二人きりで昔の話でもしたいということが短く綴られていた。
 本来ならば、王が宴に参加しているというのに中座したことを責められても仕方がないはずだ。それなのに、責めるどころか気にかけてくれたのだと思うと嬉しいやら申し訳ないやらだ。けれど結局は嬉しさに頬を緩ませてしまいながら味わった果実の甘さを、ミシュアルは今も覚えている。
 そもそも、昔の話、とイズディハールが手紙に書いてくれたように、二人は幼い頃からの知り合いだ。
 イズディハールと初めて出会ったのは、イズディハールに年の離れた妹、ナジュマが生まれた祝いの席でのことだった。
 年の離れた兄姉たちに溺愛されて過保護に育ったせいで他の人にはなかなか懐かないミシュアルに手を差し出してくれたのが、彼との最初の記憶だ。幼いミシュアルがおずおずと手を握り返すまで待ってくれた辛抱強さを持ち、その後何度か会うたびに、自分が読んで面白かったという本をくれたり、きっと似合うからと装飾のされた懐剣をくれたりと、ミシュアルを弟のように可愛がってくれた。
 大人になるに従って会う機会は減ったが、即位してからのイズディハールは王としても民の尊敬を集め、その評価はいくらでも耳に入ってくる。オアシスが干上がりそうだと報告を受ければ灌漑設備に長けた部隊を派遣し、虫害による作物の不作が訴えられれば即座に年貢の軽減や免除が言い渡され、場合によっては国からの援助が受けられる。賊が国内に侵入したとなれば即座に軍を派遣して民の守護にあたり、被害が出ていればすぐにこれも援助や保護がされた。
 もともと軍事国家ではなく、荒れた国風でもない。そういう地盤はあるものの、それでも前王に引き続き現王も聡明で優しく国を思いやる方だと、将軍である父が話しているのをミシュアルは何度も聞いていた。
 そんな彼が、頼まれた用事をこなすために妃候補の部屋へ入った一兵卒の首を跳ね飛ばすとは確かに考えられない。
 けれど、それとはまた別にイズディハールを思い出すと、ミシュアルは自分の狭隘な心中が曇っていくことに顔を俯けた。
 自分に優しくしてくれたイズディハールが立派に国王としての責務を果たしているのに対し、自分は何も出来ずに家に閉じこもり、相手もいなければ披露する場もない剣技を無為に磨いている。その落差に心が沈んだ。
 すっかり意気消沈したミシュアルだが、ラナは辛気臭いわね、と容赦なかった。

「ねえミシュアル。いつまでそうしてるつもり? 確かにあなたはオメガだけど、それを変えることはできないでしょう。生きていく道を、ちゃんと見つけなきゃ」
「それはわかってる。……でも、衛兵は無理だ。軍属にはなれない」
「そんなことないわ。陛下の推薦ももらってるんだから」
「は?」
「ハシュマ、書状をミシュアルに」
「はい、ラナ様」

 脇に控えていた侍女のハシュマがどうぞ、と書状を差し出す。
 民が普段使うような、不純物が混じってさまざまな色味をした薄い紙とは違い、密度の濃いしっかりとした眩く白い巻物は、美しい金の糸で織られた紐でくくられている。それを目にしただけで、ミシュアルの胸はどくどくと高鳴っていた。

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