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   第一章 蛇さん、伯爵令嬢を食べる


 屋敷を抜けて外に出たイリス・ラングレーは、春のうららかな陽気に目を細めた。
 暖かな空気と共に、庭で咲き始めた花たちの匂いを吸い込んで、奥を目指す。
 キョロキョロと垣根の間を注意深く見て回りつつ歩くのは、数少ない彼女の友達を探しているためだ。

「蛇さ~ん?」

 鈴の音のような可愛らしい声で呼ぶと、彼女の数歩先の茂みが揺れた。
 イリスは頬をゆるめ、小走りに駆け寄る。
 そこには、小さな蛇が顔を出していた。
 深い緑と茶色が交ざった模様に、金色に輝く大きな目。ちろりと見え隠れする舌は真っ赤で、イリス以外の人間には不気味にも見えるだろう。
 けれど彼女は、にっこりと笑った。

「蛇さん、こんにちは。今日も来てくれたのね。嬉しい」

 そっと手を差し出す。すると蛇が彼女の指先に口付けるような仕草をした。
 ツン、とその口先の冷たさを感じた後、ぬるりと湿った感触がイリスの腕をう。

「ふふ。くすぐったい」

 普通の娘なら怖がって叫んだり逃げたりするところを、彼女は自分の腕に巻きつく蛇を嬉しそうに見つめた。
 イリスはジグリア王国に古くから続く伯爵家の令嬢で、両親ととしの離れた兄に過保護に育てられた。
 そのできあいぶりは激しく、彼女はほぼ毎日を屋敷の中で過ごし、数少ない外出には必ず兄か父がついてきた。
 けれど、父は仕事で留守にすることが多く、兄も王国騎士団に勤め始めてからは基本的に城で生活しているため、結局イリスは一人になってしまう。母は屋敷にいるものの、彼女も父と兄に守られており、自室にいるとき以外は、父と一緒にいる。
 母は元々屋敷内でのんびりと過ごすのが好きらしいのでいいが、イリスは外の世界にも興味があった。
 しかし、勝手な外出は許されていない。だから彼女は、もっぱら敷地内の庭園で遊ぶのを楽しみにしているのだ。
 そんな彼女の友達の大半は、庭に迷い込んでくる小動物たちである。
〝蛇さん〟はその中の一匹で、イリスの一番の親友だ。
 なぜなら、彼――イリスが勝手にオスだと思っている――は他の動物とは違う。

「蛇さん、私、明日の夜、王城のパーティに参加することになったのよ!」

 イリスは頬を紅潮させ、興奮気味に話しかけた。
 彼女の肩まで辿り着いていた蛇は、首を上下に動かし、まるで頷いているかのような仕草をする。

「だからね、明日はここへ来てはダメよ。見つかったら大変だもの」

 そう言うと、蛇はまた顔を上下に動かし、チロッと細い舌を出してみせた。「わかっている」と言いたいらしい。
 ――そう。蛇はイリスの言葉を理解しているようなのだ。
 庭園にいるたくさんの友達の中で彼女の言葉がわかるのは彼だけだ。
 同じとしごろの娘と交流する機会があまりなく寂しい思いをしているイリスにとって、会話ができる唯一の友達といってもよかった。
 庭師に歓迎される存在ではない庭の友達は、いつのまにか追い払われてしまうことがある。
 そうならないよう、いつもイリスは彼らに抜け道を教えたり、隠れ家を用意したりしているのだが、なかなかどうして彼女の言うことを聞いてくれない。
 だが、蛇だけはイリスの言いつけを守ってくれる。
 その上、季節によって会いにこなくなる動物が多い中、蛇は一年ほど前の出会いから今まで、ほとんど間をあけずに来てくれた。
 寒さに弱い蛇とは冬には会えないだろうと思っていたが、彼女の予想に反し、彼は冬でも定期的に庭に訪れたのだ。
 イリスはますます、蛇を好きになっている。
 寒い中自分に会いに来てくれる蛇に感謝を込めて、マフラーをプレゼントしたこともあった。

『蛇さん、今日は貴方にプレゼントを用意したの。いつも仲良くしてくれるお礼よ。あっ、少し待って』

 いつものように自分の手に乗ろうとする蛇を制し、イリスは手にしていた小さな毛糸のかたまりを広げてみせる。

『マフラーよ。首に巻くものなのだけれど、知っている?』

 蛇はイリスの手のひらのマフラーを口先でツンとつつき、ぐっと身体を伸ばして首(?)を差し出すようにした。マフラーの用途もしっかりわかっているみたいだ。

『この辺が首かしら?』

 イリスは蛇の顔の少し下のほうにマフラーをそっと巻きつける。すると、ゆるすぎたのか、マフラーは肩のない蛇の身体をするすると抜け落ちてしまった。

『まぁ……!』

 マフラーを巻けない事態は予想していなかった。手袋や靴下は手足がない彼には無理だが、マフラーならば……と思ったのに。
 イリスが落胆していると、蛇はマフラーをくわえてイリスのほうへ差し出してくる。
 それを受け取ると、彼は再びぐぐっと背伸びをした。
 もう一度巻いてほしいということらしい。

『でも……あまり強く巻くと……』

 ――首を絞めることになる。
 イリスは迷ったが、蛇が何度も頷くので、もう一度挑戦することにした。
 ふわりと彼の身体に巻きつけ、今度はやや強めに結んでみる。しかし、ギュッとマフラーの両端を引っ張った途端、蛇の金色の目がまん丸に見開かれて赤い舌が口から飛び出た。

『へ、蛇さん!』

 イリスは慌ててマフラーを解こうとした。けれど、蛇は身体をくねらせて彼女の手から逃れてしまう。そのまま器用に彼女の手に乗って、腕を伝い肩へ上がった。

『蛇さん、苦しかったら……』

 心配そうなイリスの頬をツンとつつき、じっと彼女を見つめる蛇。彼女の肩の上で丸まって、マフラーに顔を埋めるような格好になった。
 目を細めてぬくぬくと温まっているような表情に、イリスはホッとする。

『気に入ってくれたの?』

 その問いに、蛇がゆったりと目を開けて顔を上下に振る。満足そうな彼の様子に、イリスも頬をゆるめたのだった。
 ところが、次に会ったときの蛇の首には手編みのマフラーは巻かれていなかった。それは少し残念に思っている。
 やはり首が絞まって苦しかったのでは、とイリスはちょっと後悔もした。
 しかし、嬉しそうにしてくれていたのは確かだし、イリスの言葉を理解するほどの珍しい蛇だ。もしかしたら、寒さに強い特別な種類でもあるのかもしれない、と考えていた。
 新種ならば大発見だが、家族や庭師に教えるとどこかへ連れていかれてしまうかもしれないため、自分だけの秘密にしている。
 とにかくイリスは、蛇が会いに来てくれることに舞い上がり、彼を特別な存在だと感じていた。

「お城ってどんなところなのかしら? 蛇さんは行ったことがある?」

 そうイリスが問うと、蛇は頭を上下に動かした。
 さすがに蛇がしゃべり出すことはなく、いつもイリスがしゃべり、蛇が何かしら相槌あいづちを身体で表現する形になる。

「まぁ……! そうなの? じゃあ、フェルナンド王子にもお会いしたことがあるかしら? 私は初めてお会いするから、緊張しているの」

 イリスが本物の王子を見たことは、ない。
 通常、貴族の娘は十八歳になると、王城で開かれるパーティに招待される。彼女は今年、十八歳になったばかりで、つい先日王城から招待状が届いたのだ。
 屋敷からほとんど出たことがないイリスは、初めて出席を許されたパーティをひかえ、興奮を隠しきれず、天にも昇る気持ちでいた。
 イリスの火照ほてった頬を蛇がツンツンと顔でつつく。彼の金色の瞳はじっと彼女を見つめていた。
 心配要らないと励ましてくれているのだろう。

「ありがとう。そういえば、お兄様に『フェルナンド王子は遊び人だから気をつけろ』と言われたわ。王族の方々はご公務でお忙しいのに、遊んでいるだなんて失礼よね?」

 招待状が届いたときの兄の恐ろしいぎょうそうを思い出し、イリスはため息をつく。
 父も言葉をにごしていたし、せっかくのイリスの社交界デビューなのに喜んでくれていない様子だった。
 彼女がうまく振る舞えないかもしれないと心配したのだろうが、いつまでも子供扱いされるのは悲しい。
 うつむく彼女に、蛇がチロチロと舌を出しつつ身体をくねらせている。そのままイリスの首にゆるりと巻きついて頭をこすり付けた。その舌が肌をかすめる。
 くすぐったさにクスクスと笑うイリスの首周りをい、蛇は身体半分を立たせて彼女と視線を合わせた。

「ふふ。蛇さんもそう思う? ジグリア王国の建国の歴史を学べば、ご先祖様の功績は素晴らしいとわかるのよ」

 イリスが住むジグリア王国は、何千年もの歴史を誇る国だ。
 王政ではあるが、貴族院など議会がしっかり整備され、国民の意見が反映されやすくなっている。外交面でも大きな問題はなく、国を守る騎士や魔術師は統制がとれていた。ここ数百年、平和な日々が続いている。
 昔々は、ジグリア王国がある大陸には、たくさんの小国が存在し、小競り合いを繰り返していた。それらを統一し、王国を建国したのが、今の王家の始祖――〝龍王〟とあがめられている英雄だ。
 龍王という名は、大陸の争いを止める力を得るために、彼が龍の血を飲んだとされることに由来する。
 つまり、ジグリア王国の王族は龍の血を受け継いでいるのだ。
 そのため、王家の者は龍に変身できるという言い伝えまであった。
 イリスは実際に彼らが龍に変身するところを見たことがないから、それがどんな魔法なのかはわからない。けれど、今代の王子であるフェルナンドは本当に龍になれるのだそうだ。

「今、この国が平和なのも、フェルナンド王子や国王様が私たち民のために尽力してくださっているからなのにね」

 龍王の誇りを忘れず、国をまとめあげ、建国後も幾度となく訪れた危機を乗り越えた王たちのおかげで、今のジグリア王国の平和がある。
 現国王のパトリスは、歴代の王の中でも英明な君主と評判だ。
 その一人息子であるフェルナンド王子も、最近は領地の視察などに精を出しているという。特にここ一年は頻繁に地方へ視察を行い、将来国を治めるときのために国民のことを知ろうとしているようだと、イリスの家庭教師が随分褒めていた。
 だから彼女は、自分の住む国を守ろうとしてくれる王子をとても尊敬している。
 兄は王国騎士団に勤めており、王子の警護を任されているので、身近でそれを感じているはずだ。
 それなのに一体どうしてフェルナンド王子を遊び人だと思うのか。彼女には見当もつかない。
 イリスの言葉を聞き、蛇が彼女の鼻にツンと口を近づけた。彼女の言葉を肯定してくれているように見える。それから、彼女の肩と腕を伝って地面に下りた。

「もう行ってしまうの?」

 まだ少ししか話していない。
 名残なごり惜しそうなイリスに向かって、蛇は頭を下げた。「失礼する」と言っているみたいな仕草に、彼女が落胆した、そのとき――

「イリス様ー!」

 ちょうどイリスを呼ぶ使用人の声が聞こえ、彼女は慌てて立ち上がった。
 蛇との密会現場を見つかってしまうのは困る。

「ごめんなさい、蛇さん。私も行かないといけないみたいだわ。また来てね」

 イリスが手を振ると、蛇もにょろにょろと茂みの中へ戻っていく。
 それを見届けて、彼女は声のほうへ急ぎ歩いた。


  ***


 パーティ当日。
 今夜のために仕立てた薄緑色のドレスを着て、イリスは父と兄にエスコートされ王城へやってきた。
 社交界デビューということで、大人っぽいデザインにしてもらったドレスの仕上がりには、とても満足している。
 大胆に露出したデコルテにえる、黒いレースと刺繍ししゅう。同じく黒いチョーカーであでやかな雰囲気を出しつつ、スカートは五段フリルで可愛らしさも忘れていない。
 長い金色の髪はアップにして、真珠をちりばめてもらった。
 兄も父も「よく似合っている」と褒めてくれたのだが、すぐに怖い顔になってパーティでは一人にならないよう注意してきた。
 今も――

「いいかい、イリス。パーティを抜け出す誘いに乗ったり、たくさんお酒を飲んだりしてはいけない」

 兄のセシリオが、パーティ会場の入り口で彼女の肩をつかんでさとす。
 もう何度、この小言を聞いただろう。
 イリスと同じ金髪碧眼きんぱつへきがんの彼は、端整な顔を鬼のようにゆがめてイリスに迫る。
 龍の紋章の入った紺色こんいろ詰襟つめえりに長いマントをなびかせ、腰には剣をくといった王国騎士団の制服で身を固めている彼は、どうやら急に夜の警備を任されたらしい。
 自分がイリスについていけないとわかってから、ずっと同じ言葉を繰り返していた。

「ええ、わかっています。お兄様、それをおっしゃるのはこれで二十四回目よ」
「何度でも言う! 男は狼だ。ついて行けば、すぐに食べられてしまうんだぞ!? わかったな、イリス。くれぐれも気をつけてくれ。誰であっても、どんな肩書きであっても、男は信用してはいけない」

 イリスが若干うんざりした様子なのに気づいていないのか、セシリオはさらにまくし立てる。

「ああ……俺が今日の夜警を休めれば良かったんだが……あの腹……子め……イリスを……したら許さん」

 最後はブツブツと小さな声で言うものだから、よく聞こえない。
 イリスはため息をついて首をゆるく横に振った。

「お兄様、これも何度も申し上げていますが、残念ながら狼さんはパーティに招待されませんわ」
「狼さん……イリス、狼というのはたとえであってだな、食べられるのは……。あー、その……男がだな、あああ……!」

 セシリオが頭をガシガシといて言葉をにごした。

「まぁ良い。セシリオ、もう任務に就いたほうがいいだろう。イリスには私がついているから安心しなさい」

 何やら一人で葛藤かっとうしている兄に苦笑し、隣に立っていた父――ラングレー伯が彼の肩を叩いた。
 彼はパーティのために飾りのついたジャケットを羽織はおってはいるが、その下はシャツにベストといういつもとあまり変わらないよそおいだ。白髪しらが交じりの茶髪をでつけているのも、普段仕事に出るときと同じだった。
 見るからに穏やかで優しそうな初老の紳士である。

「父上……」

 セシリオのすがるような視線に頷いて、彼は娘の背に手を添える。

「さぁ、イリス。行こうか」
「はい、お父様」
「イリス! 本当に気をつけるんだぞ!」

 そんな二人の背に向かってセシリオが叫んだ。
 戦場に行くわけでもあるまいし、一体何をそんなに気をつけることがあるのだろう。まったくわからない。
 イリスは首を傾げた。
 そもそも森に住む狼が、こんな城の中にいるわけがないのに。
 兄の心の内など露知つゆしらず、彼女はわくわくとパーティ会場へ進む。
 純真無垢じゅんしんむくな妹に男女のあれこれを教えるべきか迷う兄の心配そうな視線には、当然気づかなかった。


 パーティはイリスが想像していたものより、さらに華やかでキラキラしたもよおしだった。
 こんなにたくさんの人々の中に身を置いたことがなかった彼女には、すべてが新鮮に感じられる。
 シャンデリアは家にあるものよりも輝いて見えるし、聴こえてくる音楽もコンサートのそれとは違う。
 大勢の招待客のために作られた料理も豪華で、乾杯のときに一口だけ飲ませてもらったお酒はとても美味しかった。
 そして自分と同じとしごろの娘たちのドレスを眺めるのも楽しい。
 何より驚いたのは、フェルナンド王子の姿だ。
 紺色こんいろの龍の紋章が刻まれた正装に身を包む彼は、この場の誰よりも凛々りりしい。特徴的なさんぱくがんの瞳は金色で力強く、目元の黒子ほくろが印象的だ。柔らかそうなこげ茶色の髪は思わず触りたくなるほどだった。
 彼は今、上位貴族に囲まれ、穏やかに談笑している。ときおり真剣な顔になるのは、政治向きの話をしているからだろうか。
 さすが王子と言うべき、遠目にも風格のある立ち姿に、イリスは思わずため息をこぼした。
 優しさと厳しさを兼ね備えた、まさに理想の男性といった完璧なフェルナンド。
 イリスは自然と彼を目で追ってしまう。

(素敵……)

 まるで、御伽噺おとぎばなしに出てくる王子様みたいだ。屋敷で何度も読み込んだ、王子と姫の物語が思い出される。
 他の令嬢たちも、直接声をかけることこそしないが、ぽぅっと熱い視線を送っていて、フェルナンドがみんなの憧れであることがわかった。
 眉目秀麗びもくしゅうれいで、国のことを考え、国民を守ってくれる王子様なんて、非の打ち所がない。

「イリス、少し挨拶回りに……」

 王子にれていた娘の肩に、父の手がそっと置かれる。イリスはハッとして、すぐに頷いた。

「はい。参りましょう。お父様のお仕事の――」
「イリス!」

 そのまま父についていこうとしたイリスは突然、左手を握られた。目を丸くして振り返る。
 そこには、さっきまで離れた場所で談笑していたフェルナンド王子がいた。
 背が高く細身で、表情はとても優しい。近くで見るとますます圧倒されるが、相手を威圧するようなものではなく、上品な王族の雰囲気がにじみ出ていた。
 周囲の人々は、王子である彼がおおやけの場で特定の女性に声をかけたということに驚いているようだ。
 目をまたたかせて二人の様子をうかがう人や、ひそひそと隣とささやき合う人、いぶかしげにイリスを見る人もいた。
 衆人環視の中、フェルナンドは堂々とイリスに笑いかける。

「イリス、やっとここで会えた! 来てくれてありがとう」
「え……あの、ご招待いただき、ありがとうございます」

 イリスは王子が自分の顔と名前を知っていることに戸惑いながらも、招待してくれたお礼を述べた。
 この会場にいる誰ともまだ面識はないはずなのだけれど、もしかしたら、父がイリスのことを話しているのかもしれない。

「この日を待っていたんだ。イリス」

 きらきらと輝くような笑みを浮かべ、フェルナンドはイリスの左手を持ち上げた。
 そしてその場に膝をつき、彼女の手の甲にちゅっとキスをする。

「僕と結婚してください」
「え……?」


 イリスの困惑は、会場のどよめきにき消えた。
 フェルナンドは満面の笑みで彼女を見上げ、さらに続ける。

「僕は君を妻にしたいんだ、可愛いイリス」

 イリスはあまりに衝撃的な出来事に固まってしまい、ただその場に立ち尽くした。
 彼女の隣では父が真っ青な顔をしてわずかにふらつく。
 ――僕と結婚してください。
 イリスの聞き違いでなければ、フェルナンドはそう言った。
 彼はひざまずいたまま、ほほ笑みを崩してない。
 周りの人々は王子の唐突な求婚に好奇の目を向けている。
 そんな驚きと困惑から一早く回復したのは、ラングレー伯だ。

「お、恐れながら、イリスはフェルナンド様のはんりょとなるには未熟かと存じます。このような場にも今夜初めて連れ出しましたので、世間を知りません。王家に嫁げるだけの器量はとても――」

 そこまで口にしたところで、フェルナンドにさえぎられた。

「イリスは優しく、何に対しても平等だ。僕の妃、そして王家の一員としてこの国の民を守る器量は十分にある」

 彼は綺麗な所作で立ち上がり、娘を守ろうとする父にさわやかな笑顔を向ける。
 その手はイリスの左手を握ったままだ。
 イリスの意識はやや冷たい彼の手のひらに集中する。異性に触れられるのが初めてだからなのか、なんだか落ち着かない。

「しかし、フェルナンド様は娘のことをご存じないでしょう。失礼を承知で申し上げますが、この子の容姿だけを気に入られたというのならば、父親として認めるわけには参りません」

 最初こそ遠慮がちだったラングレー伯だが、できあいする娘をどうにか守ろうと次第に口調が強くなる。
 ラングレー伯爵家がいかに建国からの忠義を誇る家門といえど、王子の求婚を断るとは豪胆な、とその姿を見た周りの者たちはおののく。
 もっともとしごろの娘を持つ父親たちは同じ気持ちらしく、こぶしを握ってラングレー伯の言葉に何度も頷いていた。
 それには理由がある。
 イリスは知らないことだが、フェルナンド王子の女癖はお世辞にも良いとは言えなかったからだ。
 そんな伯爵の気持ちに王子は気づいているらしく、言いつのる。

「僕の過去の行いを言っているのなら、それは認めざるを得ない。でも、今は違うよ。僕はイリスを愛している。『遊び人』はとっくにやめた。それは皆も知っていると思ったけど」

 彼は周囲を見渡し、眉を下げた困り笑いで両肩を上げた。

「それに、イリスと僕は初対面じゃないよ。ね、イリス?」
「えっ?」

 王子に繋がれた手をぼんやりと見つめていたイリスは、急に話を振られてビクッと肩を跳ねさせた。
 まずい。よく話を聞いていなかった。

「イリス、それは本当か?」


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