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3巻
3-1
しおりを挟むプロローグ
風見心悟がムラメントの町で火鼠狩りを終え、その賞金でリズを買い取ってから数日が経過した。
事件もない穏やかな日常の中、面倒事と言えば、そろそろ帝都に戻って来いと、アウストラ帝国皇太子のユーリスが催促のハトを飛ばしてくることくらいである。
だが、当の風見はすぐに帰るつもりはさらさらなかった。帝都に戻る前に、竜の巣と呼ばれる火山地帯にある遺跡洞窟を訪れる予定でいる。
そもそも、風見は帝都に腰を落ち着ける気はない。
というのも、帝都は国の心臓部であり、末端から豊かさを吸い上げている場所だからだ。なら、どちらに助力すべきか明白だろう。加えて、風見たちが滞在するラヴァン領は帝国の畜産と農業の中心地であり、獣医である風見の技術を活かすのにお誂え向きなのである。
そんなわけで、帝都には顔を見せに行くのみだ。風見が旅の前準備としておこなっているのも、留守の間にこの地で進めてもらう仕事のマニュアル作りである。
その仕上げとして、彼は実用試験の真っ最中なのだが――
「ようやく軟禁生活が終わったと思ったら、まーた部屋にこもって何をしている?」
椅子の背にもたれかかったリズに、白い眼差しを向けられる。
本日の風見は半ば実験室と化した自室の片隅でタライの前に座り込み、何かを揉み洗いしていた。それはもちろん衣服の類ではなく、動物的な生の何かだ。怪しいことこの上ない。
「手術用の縫合糸を作っているとこです」
「……そんなもので?」
「こんなもので」
ざばーっとタライから引き上げたのは腸の薄皮――正確には羊の小腸表面の薄皮を剥いだものだ。
それを見たリズは、益々胡散臭そうに目を細める。
「理解出来んね。それがどうやって糸になる?」
風見の手にある小腸漿膜は言ってみれば半透明のラップのようなものだ。どこから見ても糸には見えない。
「まず、灰を溶かした水で洗って、漿膜から脂肪を抜く。そうして、漿膜が固くなったら均一に引き伸ばして糸にするんだ。あとは二酸化硫黄とかのガスで防腐処理をすればほぼ完成。それをカットグットって言ってな、弓や楽器の弦になるくらい強度があるし日持ちもするんだぞ?」
「私はそんなスジっぽそうなものより、腸の肉詰めの方が好きだね」
「ホルモンのみそ炒めとか、もつ鍋もいいな。〆にうどんを入れるとなおいいと思う」
「うどん?」
リズは相変わらず異世界の医療には興味がないらしい。興味を持つものといえば、食べ物と武術の話題くらいだ。作品に興味を持ってもらえない風見としては複雑な心境である。
それはともかく彼がわざわざ、こんな物を作っているのには理由がある。それがわかるかと問いかけてみると、リズは考える素振りすら見せずに肩を竦めた。
「縫えるなら何でも一緒だろう? 手間がない分、そこらの糸でいいじゃないか」
「いいや。皮膚ならともかく、体内で分解出来ないそこらの糸で内臓を縫うのはまずいんだよ」
「……? 違いがわからんね」
手術において、縫合糸を体内で分解出来るかどうかという点は、かなり重要だ。
仮に絹や綿のような吸収出来ない糸で腸を縫ったとする。それは言い換えると、ずっと残る異物を体内に埋め込むということだ。マイクロレベルの花粉にも反応する体に、そんなものが残されていて影響がないわけがない。
悪ければ拒否反応で糸の周囲に炎症や壊死が起きたり、糸が通った腸管の穴から腸内細菌が腹腔に漏れて腹膜炎になる場合もある。良くても異物ごと瘢痕化して腸の動きが制限されたりと後遺症を残しかねないのだ。これらの危険を防ぐために、分解吸収出来る糸が不可欠なのである。
「吸収糸は俺が治療の成功率を高めるためにも必要だし、この効果が広まれば当然需要も出てくる。命に直結する医療道具が売れないはずがないんだよ。それに、武器と違っていくら広まっても悪用される恐れがない」
と、掻い摘んで説明し、目を向けてみたらどうだ。リズは椅子にもたれたままうとうとしているではないか。当然、話なんて聞いていなかったのだろう。
「んぁ?」
「……」
今になってようやく気が付いたらしく、ぽけっとした顔を上げる。作業の手を止めて、いろいろと説明してやったというのに、彼女は口の端からよだれを垂らしている始末だ。
じとーっと恨みがましく見ていると、犬もとい、ウェアウルフのリズはマイペースにあくびを噛み殺し、悠長に伸びまでしてから、ようやく返答してきた。
「シンゴの話はつまらんね」
「はっ倒すぞ、お前!」
つい口を突いて出てしまったが、それも無理ないだろう。自分で聞いておいてこれなのだ。しかも、どことなく迷惑そうに眉を寄せた顔がかなり癪に障る感じである。
さらに犬は、ほほうと頷くと挑戦的に笑んだ。
「いいよ? 好きにすればいい。もしシンゴが私を捕まえられたら何をしてもいいさ。何でもしてあげよう」
「言ったな、この野郎。どんなに恥ずかしい罰ゲームでも容赦はしないからな!?」
キリッとしながらも、よだれを拭き忘れているバカには、一泡吹かせてやらねば気がすまない。風見はいきり立って、リズに飛びかかるのだった。
……そうして数分が経過した。
風見は年甲斐もなく頑張ったのだが、結論を言うと、ダメだった。
いくら飛びつこうとも宙を舞う木の葉のように、ひょいひょいと腕をすり抜け、捕まえられる気配もない。
「はぁっはぁっ。だぁぁぁっ、くそう! もういい……!」
「なんだもう終わりか? ほれほれ、あと一歩で捕まえられるよ」
「やなこった。終わりだ、終わり。捕まえられる気がしない」
目の前でぱたぱたと嬉しそうに揺れている尻尾が憎らしくて仕方なかったが、引き際が肝心である。頭を低くし、その一方で尻をうずうずと揺らして遊びに誘ってくる犬を、普通に追っても捕まえられないのと一緒だ。
「明るいうちじゃないと細かい作業が出来ないから後でな」
「……むぅ、つまらんね」
「なら、俺に構わず外にでも行けばいいじゃないか」
「それもいいが、あの贅肉に会ったら面倒なんだよ。けれどシンゴの傍にいれば何事もないし、ぐぬぬとあれが歯噛みする顔も見られるからね。周囲からも清々すると好評だよ?」
そう言ってリズはケケケと笑う。おそらく贅肉とは、このラヴァン領領主ドニのことだろう。元主人だというのに、彼女はとても悪い顔をしている。
「それに他の護衛が今は別の仕事でシンゴの傍にいないんだから仕方がない。一応、シンゴは私が護衛すべきご主人様だから、私は忠犬らしくここにいるしかないんだよ。健気だろう? 褒めていいよ」
リズはそう言ってカットグットの材料を束ねていたロープを輪にして自分の首に通し、リードのように一端を差し出してくる。
これを引っ張れば捕まえられるかもと一瞬考えたが、風見はやはりそれを放置することにした。これはきっと釣りなのだ。引っかかってやるのは癪である。
風見はカットグットを灰汁につける作業を終わらせ、机に積まれた羊皮紙の束へ目を向けた。
すると残念そうに耳と尾を萎れさせたリズはロープを後ろへ放って捨てる。
「それは?」
「教会簿の写しだよ。ハイドラの大まかな人口と、死亡者の死因が分かる範囲で書いてある」
「死に方なんてどれもたいして変わらんだろうに。そんなのを調べる意味なんてあるのか?」
「あるさ。死因がわかっていれば、その対策をすることで死亡率は減らせる。俺が何をすれば人を助けられるのか、その答えが書いてあるんだ。調べなきゃ始まんない」
人口は二万人程度だが、これでも数少ない大都市らしい。現代日本とは大違いだが、中世ヨーロッパの都市人口もこの程度だったそうだ。そして死因は低所得国の主な死因と同じく、風邪をこじらせた気管支炎や肺炎、流行病として患う下痢や結核などだそうだ。衛生観念がほとんどないこちらでは細菌や寄生虫が猛威を振るうのだろう。
「リズはこの国の現状――誰がどんな理由で、どのくらい死んでいるか知っているか?」
「私は調べたことなんてないし詳しくは知らんよ。けれど食い物がなくて餓死したり、弱ったところで風邪を引いてあっけなく死ぬのはよく見るね。あとはそうだね……冬なら家のない人間が凍死することはちらほらある。刀傷や魔物が原因で死ぬのはまれかな」
「そうだな。まずは子供や老人、弱った人から死ぬ。新生児なんて四人に一人が産まれて一年以内に死んでる。だから、ハイドラの人口はここ数十年変わってない。人口の大半は子供を作れる四十歳以下が占めているにもかかわらずだぞ? それもこれも、ちゃんとしたご飯と、正しい治療法がないからなんだ。だから俺は、それを改善しようと、こうして色々やっているわけだ」
「シンゴ、それはおかしいよ。食い物がなくて人が死んでいるのに、病気だけ治したところで餓死や衰弱死を増やすだけだろう?」
「うん、それは人間だけを治療すればな。けど思い出してほしい。俺の本業は獣医さんだ」
難しい顔をしているリズに頷き、風見は席を離れた。彼が向かったのは窓際である。陽が当たる場所にクッションが置かれており、その上ではグリとグラが丸くなっていた。
「はい。取り出したるは可愛い動物です」
「かわいい……?」
風見が持ってきたそれは人に慣れず、きしゃーっ! と牙を剥くグリフォンと毛玉ウサギだ。「可愛い」という言葉にはどうしても違和感がある。
「人は飢えと感染症がヤバい。じゃあ、動物たちの衛生や健康状況はどうでしょう?」
「動物なんて糞と泥まみれでも平然としてるんだから、気にすることないだろう?」
「いいや、気付かないだけで人と同じ状況なんだよ。だって魔物はともかく、一般の動物なら体の構造は人とほぼ同じ。風邪も下痢も患うんだ。畜舎で密集して飼われるから、むしろ人よりも死亡率が高いこともある。じゃあ、医療が充実してそういう動物も助けられたらどうだ? 農耕用の牛馬はもっと活躍出来るし、酪農製品も増える。肉ももっと安く、多く出回るよな」
今風見がしているのは、そういう好循環のための下準備なのだと締めくくり、二匹をクッションに戻した。
「スケールの大きな話だね。私には想像しきれんよ」
「俺もだ。どんだけ変わるんだろうなぁ。そういうのを想像したり、実際に見たりするのが楽しみで難しい研究をするんだよ」
実に楽しそうに語りながら風見は椅子に座る。その身振り手振りや表情は、まるで将来の夢を語る少年だ。
リズはそんな彼を見ながら、先程のように椅子の背にもたれて座った。話の内容はほぼ右から左へ聞き流しているが、彼女の尻尾はぱたりぱたりと穏やかに揺れている。
「そのための第一歩として、衛生環境の改善を進めてもらう予定だ。人も動物もまずは感染症にかからない環境を作ることが重要だからな。消毒なら純度の高い酒と熱湯と消石灰で事足りるから、教会に周知してもらおう。その次の段階としては薬作りだな。肺炎みたいな治りにくい病気を治せる抗生物質が出来れば死亡率は今の三分の一以下に出来ると思う」
「三分の一か。ここの医者にとっては嘘みたいな話なんだろうね」
「そりゃそうだ。不治の病って言われるものを治せる薬だぞ? 喉から手が出るほど欲しい人がたくさんいるさ。それを売って資金が得られれば、もっといろんなことが出来るだろうな。リズ、街も国も変わっていくのはこれからだぞ」
風見は興奮気味にそう宣言した。するとリズは、ふふっと笑う。
「変わっていく、ねえ。で、シンゴはその嘘みたいな薬をどうやって用意する?」
風見はふむと考えながら自分の中で算段をする。
抗生物質なら微生物を培養し、ペニシリンのように発見すればいい。
ただし、今まで発見された抗生物質は数万はあるが、実用化されているのはたったの百種程度と言われている。使えるものを発見するまでが至難の業だ。
「抗生物質はとことん微生物を捕まえて培養するしかないな。虫下しならある程度目星はついているんだけど、こっちにもあるとは限らないし、まずは民間療法で今まで使われてきた薬の話から調べていった方が早そうだ」
「病気はまだわかるが、たかが寄生虫如きに人が殺されるものかな。信じられんよ」
「どんな小さなものでも重度感染なら宿主を殺す。寄生虫如きと甘く見るな」
「血だの、カビだの、どこの何が出したかもわからん野糞だの、よくそんなものと生真面目に向き合えるね。紛うことなき変人だ。勝手にやってるといい」
「ほっとけ。獣医なんてどうせ変人の集まりだよっ! けどな、俺の世界で何億、何十億もの命を救ってるのはカビマニアが作った薬なんだからな。変人をなめるなよっ!?」
この変人めと、けたけた笑っているリズに風見は開き直った。
何事も突き詰めていくと一般からかけ離れてしまうのだ。そういう研究者の好奇心や探求心が、一般の人に〝変人〟と称されるのは仕方のないことだろう。
「そもそも、寄生虫なんぞが体調不良の元と言われても、目に見えん時点で私にとっては風邪と一緒だよ。寄生虫といえば腹の中にいるミミズみたいなものとしか知らん」
「それは蠕虫。消化管につくタイプは害が少ないけど、重度に感染すると血管から他の臓器に迷入することもあるんだよ。俺の世界では、発展途上国なら七、八割の人が何かしらの寄生虫に感染していたらしいから、ここでもそのくらいの割合で感染してると思う」
「七、八割ね。ふむ。それはつまり、私にも……?」
「あー……」
確率的に言えば十分あり得るが、面と向かっては言いにくくて風見は言葉を濁す。
だが、リズはそれを察せないほど鈍くはなかった。不安そうな面持ちで腹をさすっている。
「ところでね。それは、その……どうやって調べる?」
(それを聞くなーっ!)
リズは風見が最も困る質問を突き付けてきた。
セロハンを使った蟯虫検査やら、糞便検査が浮かんだが、ああいうのは第三者だからこそ、お互い気にせずに出来るのだ。面と向かって、しかも少女に対してそれを説明するなんて色々とマズイ。社会的にマズイ。
子供ってどうやって作るの? と子供に聞かれた時のように風見はたらたらと脂汗を流す。
「う、うーん……犬なら瓜実条虫とか回虫が昔はいたらしいな。糞にうどんとか素麺みたいなのが混じってたりする。それを取って調べたり、ええーと、あとはもっと小さな別の寄生虫だと、糞を水に溶かして顕微鏡で確かめる……かな。こっちだとそれ以外の方法は無理だ……と思う」
「うん。まあ、なんとなく理解は出来たよ。なるほどね。そうやって調べるわけか」
静かに頷いた彼女はしばし目を閉じ、平静を取り戻そうとしていた。
その姿は、さながら判決を考える裁判官のようだ。風見はびくびくとしながら様子をうかがっていた。
彼女はたっぷり三十秒ほど静止してから、目を開いた。その面持ちはあまり優れない。
「まあ、ね……私だって奴隷だ。脱げと言われれば脱ぐし、股を開けと言われたらそうするよ。道具の管理も主の仕事だ。シンゴが求めるなら別に拒まんさ。たとえそれが寄生虫の検査でも」
「いやっ、リズは健康に見えるし、すぐにどうこうなるってわけじゃないと思うからなっ!? というかそういうのは性別に合わせて担当してもらって、また追々にだな――」
「ただ、脱ぐのとはまた違った抵抗感があるね。正直、今までこんな心境になったことはない」
「俺の言葉を聞いて!?」
彼女は物思いのあまり、言葉が耳に入らないようだ。どこか居心地が悪そうに、身を抱いている。風見を見る視線もいつものジト目とは絶対的に違っていた。
「いいか、ちょっと待てっ。いつの間に俺が調べることになってるんだ!? 犬だからっ! 俺が言ったのはペットの犬の話だからっ!」
「私も犬。奴隷だし、家畜みたいなものだよ。もちろんシンゴも医療目的で、相手を心配して言ってくれたんだろうさ。けれどね……」
「そうっ、変なことなんて微塵も考えてない! わかってくれるなら助かる。俺もこれからはそういうのに配慮した取り組みを――」
「だがこれだけは言わせてほしい。――変態め」
珍しく普通の女の子のようにぼそっと言い残し、リズは部屋から出て行ってしまった。
「…………わかってないじゃないか」
後を追うなと背で強く語っていたので、誤解を訂正しに行くわけにもいかない。
「うう。どんな病気でも、舐めるのはよくないから……。本当のことを、正直に言っただけで……」
判決が胸に深く突き刺さった風見はその場にくずおれ、かなりの時をうなだれて過ごした。
寄生虫検査をすることで死の危険から守られるのだから決して悪いことではないのだ。……誤解や偏見を受けやすいだけで。
「はぁ。タマのところに行こう……」
実験に一通り区切りがついた風見は腕時計を見、もう少しばかりへこんでから出発するのだった。
第一章 変人は世界を救います
隷属騎士の仕事は、領主を守りその敵を排除することだ。
現在はリズを始めとした十人ほどが猊下と呼ばれる風見付きとなったが、守るものが領主から風見に代わっただけでやることに変化はない。
「グレン殿、お茶を淹れますので、一息つかれては?」
席を立ったクライスに、そう声を掛けられる。
「かたじけない」
兵舎で書類の整理をざっと終えたグレンは、眉間に深く刻まれていた皺を揉み解す。湯を注がれて踊る茶葉はハーブティらしく、鼻をくすぐった香りだけでも心が安らいだ。
彼、グレン=フォード・サーヴィは、現在事務作業中である。というのも、マレビト――異世界から召喚された存在である風見が行動すれば、必ず何かしらのフォローが必要となるからだ。
異邦の知識で彼が活躍するのはいいが、それに乗っかって悪事を働く者や、逆に目くじらを立てる者が必ず出てくる。
例えば、グール予防の特効薬があると偽の薬を売っていた商人や、火鼠退治に来ていた賞金稼ぎなどだ。もっとも、後者はグレンが対応するまでもなく風見が解決してしまったが。
リズやクロエといった風見の身辺警護をする者も大事だが、こういった逆恨みも含めた外敵排除をする縁の下の力持ちがいなければ猊下の活躍は成り立たないのだ。
本来、外敵排除に必要な情報の統括は一番権力が上の者――元団長であり、今もグレンの上役であるリズがするはずである。
だが、彼女は字があまり書けないのだ。隷属騎士の副団長にグレンが抜擢されたのはかつて騎士だったのなら事務作業をこなせるだろうという思惑もあってのことだった。
「ワシはともかく、クライス殿はこのような事務仕事ばかりでよろしいのですかな。王族特務という肩書きなら、このような仕事は下々に任せ、猊下のお傍にいるのが普通ですぞ?」
「身辺警護であればワタクシが出しゃばる必要はございません。猊下を引き立てることを第一に考えれば、彼女らには華があり、ワタクシはこちらの事情に精通しているのですから、これが最善の配置でございましょう」
「そう言って頂けるとありがたい。さすがにこの量を一人でこなすのは骨ですからな」
お茶を淹れたクライスは再び席に着き、資料の確認を再開する。彼がおこなうのは主に帝国の皇太子ユーリスを始めとした国との調整や対策である。
対してグレンがおこなっているのは、ハイドラの隷属騎士や民衆に関することだ。しかも彼は、リズの後任の新団長がするはずの事務仕事もおこなっている。これは諸事情に加え、不慣れな新団長を慮って代わりに引き受けた仕事である。
だが、倍増した書類を積み上げてみると、さすがの彼も引き受けすぎた感が否めなかったようだ。肩や目頭に蓄積する疲労まで、ずんと追加された気がしてしまう。
「いかん、いかん。気を引き締めんと間違いをしかねんな」
グレンはそう言って顔をバンバンと叩く。
これから風見を狙う輩への対応を決めるのだ。些細なミスも許されない。
山と積まれた書類には、成功を重ねる風見を掠め取ろうとする、他の領主や有力者の情報もある。国内にも敵がいるというのは悩ましい限りだが、最も警戒すべきはやはり他国だ。
このラヴァン領に接し、日頃から争っている東国のエンルスが最大の敵と考えていたが、それとは違う報告に、グレンは顎を揉んだ。
「西の人間……賊軍の頭領オーヴィルを含め、手練れが何人か入り込んで来ていること。それに西の情勢の変化も鑑みるに、やはりそういう結論に至りそうですな」
「ええ、彼の国にもマレビトがいるのかと。価値を知るが故に欲するのでしょう。元はと言えば、あちらへの対抗手段としての召喚とユーリス様も仰られていたので、さほど驚くことではございません」
刺客の排除にはよく〝釣り〟を使う。
つい先日も、風見らは竜の巣へ向かったと、周囲に思わせるためのダミーを送り出したところであった。メンバーは、隷属騎士のライを始めとした数人である。
こうした偽情報で釣れる輩を捕らえるのだが、案外、これによく掛かる。
理由は逆の立場で考えればよくわかる。
確保を命じられたターゲットはよく外出し、一人になる機会も多いらしく実に都合がいい。
だが、実際に追跡するとどうだ。奴はドラゴンに跨って外出するではないか。しかもそれは馬より速い上に、地形を無視して移動するので後すら追えない。こうなったら先回りしかないと情報を集めれば隷属騎士の警戒網にかかるし、偽情報ばかり。こんなのお手上げである。
結果、あえなく警戒網や疑似餌で釣り上げられ、こうして報告書に載るわけだ。
「東にいつまでも手を焼いているわけにもいかず、国力増強にだけかまけているわけにもいかない。さらに、いずれは西の相手とは。面倒なことこの上ないですな」
「仕方のないことでしょう。しかし、事は単純。国同士の諍いは国の仕事。猊下の仕事は国力の増強。そして我らの仕事は猊下が自由に動ける環境作りでございます」
「そうですな。直接的な害悪は無論のこと、猊下殿の安全を考えればやはり国境の備えも疎かには出来ない。だが元より少ない戦力の中、猊下の僕としてワシらが抜けた穴がある」
そう言ったグレンは、刺客の報告書の上に本来なら新団長が扱う仕事書類を重ねる。
国境線の防衛も隷属騎士に任されている仕事の一つだ。
だが、散発的に送られる刺客とはまるで規模が違うこちらは、おいそれとどうにか出来る問題ではない。
その対処にグレンが取りかかろうとしたちょうどその時、ノックもなしに誰かが入室してきた。こんな風に入ってくる人物は一人しかいない。
「グレン、調子はどうかな?」
「おお、これは団長殿。普段通りの仕事なら滞りなく進めておりますよ」
「だから私はもう団長じゃないと言ってるだろう? いつまで昔を引きずるつもりだ。まったく、騎士団といい、グレンといい、今までと同じ気分だといずれ痛い目をみるよ?」
「いやはや、手厳しい。しかしワシにとって団長殿はずっと団長殿だったので、まだしばらくは直すのに苦労しそうです」
グレンは「もう若くないので」と付け足して笑った。
けれど鍛え上げた現役の体をして言うことではない。誰もが、老いたところなんてどこにあるのかと、疑問に思うだろう。リズはジト目でその矛盾を指摘する。
グレンにはむしろその眼差しは心地よかった。娘を持つ父親とはこんな心地かと浸れる気分であり、同時に尊敬する戦友に小突かれた気分でもある。
「で、今は何の書類と睨み合っていた?」
「バルツィ砦での国境線防衛で、戦力をどう融通し合うかについて、あちらの隷属騎士団長と。政情不安も人死にも、猊下殿が気にしそうですからな」
「それか。まあ、以前から悩みの種だったしね。人を送ったそばから次々死なれるんだから、堪ったもんじゃない。先陣なんて役立たずの正規騎士にやらせればいいのに」
「今はそれに加え、有事の際は前線で戦ってくれた団長殿も猊下付きになっておっておりませんし、設備の劣悪さなども含め改善すべき点が山積みですな」
それぞれについてまとめられた報告書を、でんでんでんと積んでいくグレン。
その分厚さは、活字慣れしていないリズからすると眩暈を覚えるほどである。本当に確認しているのか疑ってしまうのだが、グレンはそれを生真面目にこなす男であった。見かけにはそぐわないが、文武両道とはまさにこの男のことを言うのだろう。
応援ありがとうございます!
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