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7巻

7-2

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 だが、キュウビは余裕の微笑で「いいえ」と首を振る。そこに不安など一片もない。

「シンゴ様は『千刃せんじんも竜のうろこに劣る』という言葉をご存知ですか?」
「いや?」
「そういうことわざがこの世界にはあるのです。これは真っ当な努力では実現が困難なことを指します。竜――特にドラゴンという幻想に対して、あのような有象無象うぞうむぞうの軍勢では力不足なのです」
「ドラゴンとまともに戦うならもっとたくさんの人数が必要っていうことか?」
「いいえ、数の問題ではございません。質の問題ですわ」

 普通の戦力計算からかけ離れた話だ。風見はどうしても納得できず、首を傾げてしまう。
 確かにドラゴンのうろこを貫く武器はそうそうない。だが投石機など、衝撃を浸透させうる武器は存在する。戦争の経験が少なからずあるであろうキュウビが知らないはずはない。
 しかしながら、彼女の表情はいつになく不敵だ。

「シンゴ様、聞こえますか。彼らはうろたえています。けれど、たかが一頭の魔獣まじゅうではないかとあなどり、律法や投石で対抗しようとしているのです」

 彼女の言う通りだ。
 ドラゴンの咆哮ほうこうで馬がおびえていたものの、敵軍の動きは整い始めている。軍勢は武器を立てて一斉に地を打ち、「直れぇっ!」の号令で並びを整えた。その練度には恐れ入る。
 続いて兵長らしき人が張り上げる声は、このとりで付近まで打ち寄せた。

「所詮は一頭だ。何ができよう!? 律法、放てぇっ!」

 複数人が似た指示を周囲に飛ばした。
 すると軍勢の頭上に五十ほどの魔方陣まほうじんが浮かぶ。それらは同色で隊列を組んでおり、互いの律法を組み合わせて攻撃を強化しようとしているのがわかった。
 それは付加武装を用いた相加術そうかじゅつと同じだ。威力を桁違けたちがいに上げることもできるし、複雑な効果を作ることもできる。強化した律法が何十とあるのだから、ドラゴンに対して強気なのは理解できた。
 けれど、キュウビはそれを鼻で笑う。あの無数の光への評価はたったの一笑だった。

「シンゴ様、ドラゴンを討つのは常に勇者です。有象無象うぞうむぞうではございません」

 軍勢の幻光げんこうが高まる中、キュウビは語る。
 伝説や英雄譚えいゆうたんでは、まさにその通りだ。聖剣を始めとした武具に選ばれた勇者だけが、ドラゴンを討伐とうばつした。
 何の天啓てんけいも与えられていない人間がいどめばどうなるか。それは一様である。
 物語の一節は、ここに再現されようとしていた。
 東の軍勢が律法を放とうとしたその時、タマは再び極大の咆哮ほうこうを上げる。それによって空中に魔方陣が出現した。レッドドラゴンが律法を放った時も、風見は似たものを見ている。
 この体躯たいくに比例する巨大な魔方陣だ。人や魔物のものとは紋様が違い、さらに複雑怪奇なそれに風見は目を奪われていた。
 だが、ふと気づく。軍勢が描いた魔方陣が、いつの間にか全て消えていたのである。魔方陣は発動と同時に消えるはずだが、もうすでに発動したというわけではない。突然の消失に軍もざわめき、困惑しているようだった。
 それを見たキュウビはふふと笑みを深める。

「ドラゴンの律法とは何属性であるか、ご存知ではありませんか?」
「属性? タマはアースドラゴンだから地――」

 地属性と言いかけ、風見はハッと気づいた。
 律法の属性は計十一種。そのうち一種は、ドラゴンのみが扱える特別な属性で、軍の律法をき消し、一噴きの業火ごうかで全てを焼き払ったという逸話いつわを聞かされていた。そういうことなのかと視線で確認すると、キュウビは表情のみで答える。
 タマが描いた魔方陣はさらに多重に連なり合う。
 それと同時に、タマは両前足を振り上げた。後ろ足二本で立ち上がると、誰しもがあおぎ見るその高さから勢いをつけて地面を踏み抜く。
 それだけでも地震が起こりそうなものだったが、そこに律法の効果が上乗せされる。タマが足を叩きつけた拍子に大地が割れた。その隙間から幻光げんこうあふれ、東の軍に至るまでの地面に幾筋いくすじもの光の線が走る。それらの光条をなぞって発生した衝撃波は間欠泉かんけつせんのごとく噴き出し、東軍に襲いかかった。
 硬かったはずの地面に数えきれない亀裂が走り、ぜて散る。亀裂はそのまま人馬や投石機まで全てを呑み込んだ。一見すれば土砂崩れに巻きこまれたのではと思われる惨状さんじょうだ。

「おいおいうそだろ……」

 たった一撃のみで、敵の軍隊は半壊状態になったように見えた。


 綺麗に整列していた隊列だったからこそ、タマの律法によって綺麗に食われたさまがよくわかる。鎧袖がいしゅう一触いっしょくといえる光景を前に、風見は目を疑った。
 あれでは数百単位の死人が出たのではないだろうか?
 そんな言葉が顔に出ていたのだろう、キュウビはこう説明した。

「ご安心を。今のは薄く地面を耕したので派手に見えただけですわ。そもそもあの子は人の戦闘に介入しないと、ハチが言っていたではありませんか。今のは攻撃されたので、降りかかる火の粉として払っただけに過ぎません。本気ならば全てが消し飛んでいますわ」

 風見にはキュウビの言葉が疑わしく思えたのだが、もうもうと立ちこめていた土煙が去ると、確かにその通りだった。誰しもが膝や足が埋まるほどまで割れ目に落ちてはいたものの、倒れたままの人間はいないようだ。
 だが、あの地面の様子では、戦列を組み直して押し寄せるのはもう不可能だろう。

「ドラゴン特有の属性である虚数きょすう属性は、わたくしたちの律法とは根本的に違うのです。わたくしたちは律法で超常現象を引き起こしますが、虚数きょすう属性の律法はその上。超常現象を起こす源をあやつります。人や魔物のような有象無象うぞうむぞうの攻撃は自分の律法に巻き込み、何倍にもして叩き返すのです」

 風見がほぅとうなっていると、キュウビは続ける。

「ただし例外はあります。例えば人が付加武装を用いた時に使える相加術は、人と魔物の律法が組み合わさることで性質が変化し、ドラゴンがあやつれないものになります。しかし、相加術を受けてもドラゴンにとっては致命傷には程遠い。多少痛い程度です。伝説級の武具でなければドラゴンに傷をつけるのも不可能なのは、シンゴ様もすでにご存知のことでしょう。だからこそ、ドラゴンを殺すのは勇者にしか許されないのです」

 おわかりいただけましたか? とキュウビは確認してくる。

「……虚数きょすう属性の律法がすごいのは、わかった。とりあえずこっちは頼む。俺はとりでの怪我人を見てくる」
「お任せを。敵に賢明な軍師がいるのなら、この状況で攻める無謀むぼうはありませんわ。もしこちらへ来るというのなら、わたくしが一つや二つかして、今回はお帰りいただきましょう」

 この場を離れるむねを伝えるため、風見はタマの頭を抱くようにして捕まえる。名残惜なごりおしそうにきゅーんと鳴かれてしまったが、「あとでな」とでてあやした。
 この子も、殺気を向けられなければ攻撃する気はないらしい。竜の巣でレッドドラゴンのハチが先日言っていた通り、自分に火の粉が降りかからない限りは、人に手出しする気がないのだろう。
 キュウビの言う通りならばタマがやられる心配はないし、目を離しても大丈夫そうだ。風見は敵の放ったオーガや土巨人によって攻撃されていた人たちのもとへ向かった。

「大丈夫か?」
「あ……。そのっ……」

 まず、とりでの大扉の前でへたり込んでいた女性に声をかけた。
 彼女は完全に腰が抜けてしまっているらしい。手を伸ばしても、それをつかむこともできないようだ。よほど怖い思いをしたのだろう。
 年は十代後半に見える。風見は彼女の目の前で膝を折ると、落ち着かせるために頭をでた。
 それから、防壁の上に向かって声をかけてみる。

「おーい、誰か扉を開けてくれないか? それが無理ならハシゴでもかけてくれ」

 すると、隷属騎士の見知った顔が幾人か、防壁の上から身を乗り出してくる。

「カザミ様よね? 他にあんな人はいないよね?」
「カザミの旦那ですかっ!?」

 久しぶりの再会ではあるが、談笑している場合ではない。彼らは、門が使えないのですぐにハシゴを用意する、と言って下がっていった。
 ハシゴを待つ間、他に生存者がいないかとあたりを見回す。けれどこの女性以外は頭がなかったり、全身の骨が折れていたりと、一目で手遅れだとわかる人たちばかりだ。

「これは、ひどいな……」

 あと少し到着が早かったらこうはならなかったのではと思うと、胸が痛む。
 そこへ、隷属騎士の一人がとりでの上から叫んだ。

「どうぞこれで上がってください。敵の攻撃がないうちに!」
「悪いな。俺だけじゃなく他の人もどうにか引き上げてやってくれ!」

 風見は物言わぬしかばねとなった人たちを引きずってくると、ロープをかけ、持ち上げてもらった。
 それが終わる頃には女性も歩けるまでに回復していたので、一緒にハシゴを上る。
 防壁に上がってみれば、近くにいた者たちが走って集まってきた。その先頭に何度か話したことのあるハイドラの隷属騎士がいたので、風見は遠慮なく問いかける。

「なあ、こっちにはグレンは来ていないのか?」
「副団長は手が放せない任務があるそうで、こちらには来ていません」

 そう言ってくるのは長身で大人の雰囲気がただよう女性だった。
 名前は確かシーズといっただろうか。竜の巣への旅に出る時、風見を狙う刺客しかくへのおとりとして働いてくれた一人だったはずと思い出す。

「それじゃあ俺は怪我人をておく。クロエたちは医療道具をハイドラで揃えてからすぐに来てくれるはずだ。あと、グレンがいなかったら、グレンによく似た人に頼ればいいってリズから言われたんだけど、誰のことかわかるか?」
「副団長のような方ですか? となれば一人しかいませんね。少々お待ちください」

 シーズが誰かを探しているうちに、どこかに医務室はないかと風見は辺りを見回す。
 すると、精悍せいかんな顔つきの男が補佐らしき人を付き従えてやってきた。アメリカのたくましい海軍士官や、ナイフもしくはアサルトライフルを武器にジャングルで戦う軍人のごとき風体である。

「ドラゴンに乗ってこられたということは、あなたが噂の猊下げいかとお見受けしても?」
「風見心悟って言います。猊下げいか以外で好きに呼んでください。そんな大仰おおぎょうな呼ばれ方はどうもしっくりこないんです。ところであなたは?」
「申し遅れました。私はディラン。この場で隷属騎士を束ねている者で、かつてのリズ殿と同じ団長を――」

 そこへ、ディランの言葉をさえぎる声があった。

猊下げいか! 猊下げいかなのですね!? いやいや、恐れ多くもドラゴンにまたがれる人間など、猊下げいか以外にあらせられるはずがない!」

 その声を聞いたディランは申し訳なさそうに頭を下げ、道をけた。その先から、数人の騎士がやってくる。
 彼らが身に着けた甲冑には傷一つなく、剣は体の一部というよりアクセサリーに見えた。使いこまれた防具と武器を持つ隷属騎士とは違う。
 ハイドラの城でも数人ほど見たことがある。彼らは奴隷ではなく、身分が確かな正規騎士だろう。

猊下げいか、どうかこのような小汚い場所ではなく、中へどうぞ。あなたが来られたならば我々はもう勝ったも同然! 東の蛮族ばんぞくは視界の果てで震えておりますぞ! このまま如何様いかような命令でもお与えください。きっと私の指示より、よほどよき結果を導くでしょう」

 正規騎士たちの中央にいる小太りの男は品のない笑い声を上げる。笑い終えると、「さあさ、こちらへ」と、風見に手で道を示した。
 この男は、ハイドラ領主のドニが視察に訪れた時もこのようになると、とりでに常勤する隷属騎士はよく知っている。高慢な彼に好き勝手に命令され被害をこうむるのは、いつだって下の立場だった。作戦が上手うまくいけば命令がよかったのだと恥じらいもなくおごり、失敗すれば兵が愚図ぐずだったのだとののしる。この男によって指揮が誰かに託される時は大抵ロクなことがなかった。
 風見と初対面の市民兵やこのとりでの隷属騎士は、風見を見極めるべく動向に注目する。風見もまたドニや正規騎士と同じタイプなのではと疑っていた。
 正規騎士と自分たちのどちら側の人間なのかと、彼らは風見に瞳で問いかける。それを察した風見は、笑顔で正規騎士の申し出を受けた。

「ありがとうございます。じゃあ、ディランさん、重傷者から部屋の中に運んでください。俺は怪我人の治療くらいしかできないから、戦闘のことはあそこにいる狐耳きつねみみのキュウビや、もうすぐここへ来るリズと相談して決めてほしい。それからクロエって白服しろふくの子が来たら、俺のところへ案内をしてほしい。頼めますか?」

 ディランはその言葉を聞くと、にやりと口をゆるませた。

「お任せいただけるのですか。ではこのディラン、ご期待に添うよう働く所存です」

 彼もまた、先ほどまでは風見を疑っていたのだろう。しかし今の言葉で、本当に噂通り――ハイドラの隷属騎士が語る通りまっとうな人物だと理解したようだ。

「では怪我人を会議室へ。処置に必要と思われる台なども運びこむのだ!」

 小太りの騎士が戸惑っているうちにディランは声を上げ、手のいている者に患者を運ばせようとする。
 途端、自分を差し置いて話を進めようとするディランに、小太りの騎士が食ってかかった。

「なっ、何を勝手に命令しておるか、貴様!」
「すみません。それについては俺が早速頼んだからでしょう」
「げ、猊下げいかっ、このような者よりも――」
「知人によると、こういうのは現場で動く人の方が的確に指示できるらしいです。申し訳ないですが、怪我人は一分一秒を争うので急がせてもらいます。もし何か不都合があるのでしたら、全て俺に回してください。そういう状況も加味して動きたいと思います」

 正規騎士と古強者ふるつわものの気配をただよわせるディランのどちらが有能そうかは、比べるべくもない。風見はそれ以上、小太りの正規騎士の相手をしなかった。
 ――さあ、ここから全てをくつがえしていかなければならない。
 風見は改めて周囲を見回す。じっくりと観察し、現状を把握した彼は意を決した。
 ――こんな時、物語の英雄はどうしていただろうか?
 それを思い描いた風見は深呼吸し、「ちゅうもーくっ!!」と声の限り叫んだ。
 期待や不安でどよめいていた周囲が、またたく間に静まる。

「悪いけど、俺はみんなをここで楽にさせる気はない。いいか、周りをよく見てみろ。何が見える?」

 そこにあるのは、風見を取り囲む市民や隷属騎士の人垣。その外側や壁際には、負傷のせいで立つことが困難な人が散見される。辛そうに、苦しそうに、体をむしばむ痛みに顔をしかめていた。

「見ての通り、みんな苦しんでる。けどな、誰か一人でも死にたがっているやつはいるか? 今ここで楽になりたがっているやつはいるか? いないだろ!?」

 先ほどの女性と同じだ。誰もが生きたがっている。苦しかろうが、こんなところでは死にたくないと表情ににじみ出ていた。
 だから、それを見捨てるわけにはいかない、と風見は声を張る。

「知り合いだけじゃない。俺は手の届く範囲にある命を見捨てる気はない。俺はできる限りのことはするつもりだ! だけど、限界はある。手の届かない範囲のことはどうしようもない。だからみんなにも働いてもらう。見えるだろ、倒れている仲間が。その人を俺の見えるところまで連れてくること、それを俺がどうにかするまで守ることは、周りのみんなにしかできないことだ。いいか、諦めるな。ここで命を捨てるなんてもったいないことだけは、させるつもりがないからな! みんな、今ここで死ねるとは思うな!」

 そうして、風見は言葉を伝えきった。彼はそれ以上何も言わず、シーズに案内を求めるとすぐに怪我人が集まる部屋に走っていった。


 風見が去ると、戦士たちも一気に働き始める。
 それはまるで、とどこおっていた血液がめぐり出すような変化だった。人々はてきぱきと動き、とりでの補給や整列も、兵長の指示によって正されていく。

「勝て、るのか……? 生き残れるのか……?」

 重傷を負って座り込んだ兵がそんな声をらす。
 見捨てる気はないという風見の言葉を、士気向上の呪文として兵長たちが部下へ知らせ伝える。兵たちは皆、ドラゴンが悠然と敵の軍勢をはばさまを見た。
 あれだけ自分たちを苦しめたはずの軍勢は、今やヘビににらまれたカエルと化している。処置もなくとりでの至るところでうめきながら死を待っていた怪我人は、次々と治療に運ばれていく。
 兵士たちの心の中で、救国の伝説がよみがえった。
 死人のようだった兵たちの胸に、生気と士気が湧き上がってくる。ドラゴンと、それに騎乗できる生きた伝説マレビトが味方についてくれるのだ。今さら我らに負けなどあろうか。
 そんな彼らを後押しするように、巨大な飛竜がとりでの真上に飛来した。
 飛竜の上から、女性たちの声が聞こえてくる。

「なんだ、存外持ちこたえているようだね」
「そちらは任せます。私は風見様の方を!」
「了解だ。クイナ、お前は私について来い。シンゴがいる後方は私たちで守るよ」
「は、はいっ……!」

 飛竜からは長大な太刀たちを肩にかついだ元ハイドラ隷属騎士団長と白服が飛び降り、魔石が輝くバンカーシールドを手にした少女もあとに続いた。
 このとりでで、たった数人が増えただけだ。けれども、兵たちは数の不利などものともしない神の助力を受けた心地さえ抱くのだった。


    †


「……野戦病院だな」

 大きな部屋に次々と運びこまれる怪我人を見て、風見はそう呟いた。元の世界の戦争ドラマで見た光景と、そのまま重なる。
 手足だけでなく頭部にも、包帯を手荒く巻かれている人がたくさんいた。包帯は血を吸って赤黒く変色しているし、多くの患者は息も絶え絶えだ。
 まだ声を出す余裕がある人は包帯ががれるのも構わず、「助けて、苦しい……」と風見の袖をつかもうとしてきた。けれどその手には力が残っていない。怪我人はその代わりに頭から顔にかけて巻かれた包帯の隙間から、視線でうったえかけてきた。

「ああ、全力を尽くすから待っていてくれ」

 風見はその手を力強く握り返すと、部屋を見回す。
 彼らはまだ一刻を争うレベルではない人たちだ。適切に治療すれば命の危険はないだろう。
 問題は、うめくことさえできずに昏倒こんとうしている人である。
 しかし、そんな人たちに限って傷が大きくない。風見はその不自然さに首をひねった。

(なんでだ……?)

 改めて確かめると、重傷者の傷はどれも血が乾ききっていない新鮮なものだとわかった。彼らはこの半日以内に負傷した人ばかりらしい。
 では、昨日以前に重傷を負った人間はどうなったのだろうか?
 その答えは考えるまでもなかった。
 深い傷を負った人々は治療のすべなしと判断され、放置されて死んだのだ。昏倒こんとうしている彼らは、昨日以前に負った傷が小さかったおかげで運よくまだ息があるが、細菌に傷を侵されて死にかけているのである。
 風見は先ほど、タマの上からとりでの外に山のように積まれていたを見た。その正体を知りたくはなかったが、もう目をらせないだろう。

「そういう世界、なんだよな……」

 風見は、ぽつりと呟く。
 壮絶の一言に尽きる。いくら医療経験が長い人間でも、息を呑んでしまうだろう。この場では、素人しろうと玄人くろうとも関係ない。心情的にも、実力的にもだ。
 縫合ほうごうを始めとした経験による医療技術は確かに大切だが、彼らはそれのみでは救えない。このような状況に対しては、前もった備えが不可欠である。
 この状況をくつがえす大前提を確かめるため、風見はつい今しがた到着したクロエに問いかけた。

「クロエ、教会に頼んでいた抗生物質はどうなった?」
「は、はい。いくらかは出来上がっていました。しかしどれもまだ試作段階で、風見様に効能を確かめてもらおうとおっしゃっていたのですが――」
「構わない。それで助からなきゃ敗血症をわずらって死ぬだけだ」

 惨状さんじょうすくみかけたクロエから抗生物質を受け取る。薬瓶は手に収まるほどの大きさだ。これだけの人数をこの量でまかないきれるかどうか、ひどくあやしい。

「この症状は、そんなにひどいのですか?」
「毒が増殖しながら全身をぐるぐるめぐっている状態みたいなもんだよ」

 通常は免疫めんえきが働いているので、細菌が血中を流れることはない。
 しかしあまりに免疫めんえき能力が下がったり、手術や大きな傷によって汚染物が体内に残されたりすると、組織や血管が細菌に侵されることがある。
 そうすると、細菌が全身に病巣を作る。その上、抗体が細菌に反応してかたまりを作り、毛細血管の各所で詰まって血管を破壊するのだ。特に肺や腎臓などの血管が密な場所では、それが顕著けんちょに起こる。
 それだけではない。
 細菌の毒素や過剰な免疫めんえき反応のせいで弱った血管は、配水管の破損のごとく全身で水分を漏らすようになる。いわゆる、むくみの状態だ。その結果に起こる臓器の機能不全はもちろん、むくんだことによる圧迫自体も新たな害を引き起こす要因となる。
 それらが脳で起これば、神経症状や致命的な症状に、肺で起これば呼吸困難に、肝臓や腎臓で起これば、毒素の処理能力低下に繋がっていく。
 その他にも挙げればきりがないほど、全身で重大な疾患しっかんを引き起こすのだ。
 現代日本の医療をもってしても、敗血症は治療が難しい。軽度でも一割、重度では四割が死ぬと言われているので、この世界での治療は言わずもがなである。
 風見がそう説明すると、いつもは快活な返事をするクロエも表情をくもらせた。医療について勉強してきた彼女は、事の重大さが理解できたのだろう。
 惨状さんじょうを目にして固まる彼女に、風見は迷いのない指示を飛ばした。

「まずその薬が本当に効くかどうかを、調べないといけない。俺が傷から病原菌を取る間に、抗生物質を三倍、九倍、二十七倍と段階的に希釈きしゃくしておいてくれ。長い戦いになるだろうし、クロエはできる限り他の人を使って体力をなるべく温存するように心がけてほしい」
「私は大丈夫です。風見様の采配さいはいでいくらでもお使いください!」

 クロエは嬉々ききとしてそう言ってくれるものの、彼女の能力は稀有けうで他に使える者はいない。それなのに、患者は部屋に入りきらないくらいにいるのだ。
 近場の兵士に患者の正確な数を調べてもらうと、敗血症に近しい症状は十六名。放っておけば、重度の敗血症に発展しそうな人が二十五名。そしてこの十二時間以内に負傷をして、止血縫合ほうごうと消毒を待つのが百余名だという。

(これを実質二人でさばかなきゃならないのか……。眩暈めまいがするな)

 処置が終わるよりも、自分の限界を超えて倒れる方が早そうだ。
 特にクロエは律法を使って精神力がすり減るので、なおさらだろう。止血ではクロエの律法が欠かせないので、それ以外の処置はできる限り風見の技術でなんとかするしかない。
 クロエが抗生物質を希釈きしゃくするかたわら、風見は周囲に声をかける。

「一番ひどそうなのは誰だ?」
猊下げいか、こちらかと思います!」

 近くにいた子供の兵士が返事をする。
 最初の患者は女性だった。風見は体に巻かれた包帯を解き、すぐに怪我を確かめた。
 鋭利えいりな刃物でバッサリと袈裟斬けさぎり――というよりはにぶい刃物で無理やりえぐり切った傷だ。中世の剣による傷は、こういうものになることが多かったらしい。
 潰れた組織は固まりかけた血と一緒になって黒ずみ、壊死えししている。半透明な浸出物とうみも流れており、正視に耐えない。
 クロエや子供の兵士は顔をゆがめた。そんな中、風見はすぐに指示を飛ばす。
 一度止まると彼らは動けなくなってしまうだろう。ここは無心になって動いてもらわねばならない。

「処置する順序を決めておいてくれ。次の患者には前もってエーテルで麻酔ますいをかけてもらいたいから、俺のやり方を見て覚えてくれ。この処置は難しくない。袋に入れて気化したものを吸わせるだけだ。唇が紫になったり、呼吸が弱くなったらエーテルの袋を口元から離せばいい。呼吸停止をした時はすぐに俺を呼んでくれ。次にクロエ!」
「はいっ!」
「さっき指示した培養を頼む。どのくらいの希釈きしゃくまで細菌が増えないか、これで調べてくれ」

 風見は患者から採血すると、寒天培地を敷いた複数のシャーレに血を塗布とふする。
 必ずしも血液から細菌が培養できるとは限らないが、本来は無菌状態の血液から培養できたのなら、症状は敗血症で確定だ。風見は希釈きしゃくしてもらった抗生物質をそれぞれの倍率ごとに紙片に染みこませ、寒天の上に載せていく。
 抗生物質が働いていれば、紙の周囲は細菌が増殖しない。その結果でどの希釈きしゃく倍率まで有効かを調べるのだ。実際には薬剤感受性試験や、ディスク法などと呼ばれている。
 机にはずらりと寒天培地が並ぶ。三倍、九倍、二十七倍――と複数の希釈きしゃく倍率がある上に、同じものを数人分という具合だ。


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