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11巻
11-3
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ぎすぎすしていた先ほどまでの空気もすっかり変わり、ユーリスは納得した様子で思考を再開している。
「……なるほどね。君の言うことには一理ある。確かに東国に対価を支払ってもらうより、仲良く動いた方が利益は大きいかもしれない。グローリアさん。あなたはどうお考えですか?」
「悪い話ではないね。話は面倒がない方が助かるよ」
ユーリスの問いに、グローリアは頷いて返す。
これで一応の議論は出揃ったらしい。ライラはそれを見て取ると、再び場を仕切りはじめる。
「それでは、議論は決したということでよろしいでしょうか? 東国と南国が協力して西国に対抗する件については書面に書き起こさせていただき、両者の了解を得て調印したく思います」
「ああ、構わないよ」
「同じくだ」
ユーリスに続き、グローリアも了承する。
本当に驚くべきことに、この会談はエレイン主導のもと、丸く収まったのだった。
その後、各国の代表者とライラは、文書作成や詰めの話やらを始めるという。お役御免となった風見とエレイン、レギオニスの三名は退室した。
この場での決定は大きな意味を持つ。重い荷がようやく下りたことで、風見は息を吐いた。
「これでよかったのか?」
焦ることもなく事を進められたのはエレインのおかげである。問いかけると彼女は頷いた。
「上出来ね。あとは昨日あなたが関わった魔獣絡みの大捕り物にお義父様の死亡理由をこじつけて、私が領の運営を上手く回せば終わりね。でも、私こそ疑問だわ。カザミはこれでよかったの?」
医療や農業から離れ、自ら争いの渦中に飛び込むという選択である。そんなことは望むところではなかったはずだろうにと、エレインは心配の眼差しを向けてきた。
確かに我ながら大きな方向転換だ。けれど、風見は頷いた。
「その通りなんだけど、結局は避けられそうもないしな……」
「それはどういうこと?」
風見はこの国で、大事な仲間を――守るべきものを得た。この国に波乱が起きれば、被害は避けようがない。しかし実はそれ以外にも理由はあるのだ。
「うーんとな、西国への対応策としてユーリスが俺を使おうとしたのと同じだ。憶測でしかないんだけど、ドリアードは俺が否応なく今回のことに関わるように根回しする気がしてな」
それを耳にしたエレインはすぐには理解できない様子だったが、風見のセリフを元に熟考する。
「ドリアード……。あなたが言うことだし、あの魔獣ドリアードのことかしら?」
「ああ。そのドリアードが西国の動きから、戦火が広がることを予見していたんだよ。無関係ではいられないともな」
「驚きね。アースドラゴンもそうだけど、もう一頭すごいのもついてきていたし。カザミは人に頼られるだけじゃなくて、魔獣にまで期待をされているのね?」
同じマレビトであるアカネはそんなことがなかったのだろう。エレインは驚きを示した後、素直に感心した様子で見つめてきた。
いや、ただ見るにしては、やけに風見を凝視する。そしてずいと詰め寄ってくるので、風見の方が身を引いてしまう。
「ねえ、カザミ。少し失礼かもしれないけれど、私、あなたを褒めたいわ。あなたがそうしてくれたことで救われた国民は、少なくなかったと思うもの。それに魔物と上手く暮らせる方法も作ってくれているのでしょう? それを労いたいのよ。ちょっと屈んでくれないかしら」
エレインは風見の頭に向けて大きく腕を伸ばす。だが、背伸びしてなんとか届くという様子だ。彼女は身長差のせいで、こうでもしないと頭を撫でられない不格好さを訴える。
大の大人が頭を撫でられるなんて、気恥ずかしい。だが、早ぅ早ぅ! と手をひらひらさせて催促するエレインのやる気に押されてしまう。風見は言われるままに少々屈んだ。
するとエレインは周囲の目も憚らずに、風見の頭を抱え込むように頭を撫でてくる。
「あなたはすごいわ。為したことはもとより、それに止まらず、さらに他人の希望を叶えようとするその姿勢は、とても誉れ高いと思う。肩書きではなく、本物の救世主ね」
思ったことをそのまま口にしているのだろう。感情がこもった言葉だ。彼女の胸に顔面が埋まってしまったが、それに反応するのも失礼である。風見はどうにか堪えた。
あくまで思った通りに行動しただけのエレインは、抱擁を解いても空気を濁すことはない。
「でもね、忘れないで。あなただって一人の人間。国民ではないけれどこの国に生きる大切な命。その肩書きに泥をつけて逃げ出したって、悪くないと思うの。誰かがこんな風に褒めてくれることも、言ってくれることも少なそうだから、私が代わりにしておくわ」
「えっ」
予想外のことを言われ、風見は思わず声を漏らした。
「私は見ることと喋ることしかできないお姫様。でもその二つには自信を持っているわ。その私の目で見て思うの。他人の望むものに応え続けたら、あなたはいつか失敗するわ。今までは大丈夫だったかもしれない。けれど、失敗の可能性がゼロだったわけではないでしょう? だからね、違った選択肢も頭に入れておいてというお話よ。こんなにいい人には、傷ついてもらいたくないもの」
エレインはそう言って、にこりとほほ笑む。
風見は感心した。道理で、苦難の道を進むアカネやカインらが足踏みせずに進んでいけるわけだ。こんな風に陰で後押しをしてくれる彼女の存在は、心強いだろう。
「マスター。ただいま」
風見が人知れず感動していた時、ナトの声が真上から降ってきた。どうやら彼女は周囲の植物で新たに体を作ったらしい。
それと同じくして、リズたちもこちらに駆けつけてくる。だが、場に揃う頭数が一つ多い。全員の視線は、ナトの足元――何故か彼女が首根っこを掴んで連れてきた一人の男性に集中する。
先が尖ったその耳は特徴的だ。身を包む衣装は新緑色を基調としていて、一般的な旅装とはまた違った民族風である。こんな特徴を持つのは、エルフしかいない。
「せ、先達よ。白装束の兵との問答を見かねて助けてくれたのはありがたいが、扱いが雑に過ぎる……」
やけに堅い物言いをする、強面中年エルフだ。そんな人物に、風見は猛烈に心当たりがある。ドリアードが治めるヴィエジャの樹海に住む、エルフの戦士長リードベルトだ。
「マスター。これ、お土産」
リードベルトのささやかな抗議に反し、ナトは彼をぞんざいに投げ出す。
彼を見て、風見は気づいた。リードベルトは以前と違って憑き物が取れた様子で、張りつめていた厳格さが少しばかり和らいでいる。彼は姿勢を正し、風見の前で片膝をついた。
「猊下、失礼した。そして突然の訪問、申し訳ない」
「それは気にしていないんだけど、あの魔境からこんなところまでどうしたんだ?」
馬ならどんなに急がせても二週間以上。空を飛べる魔物に乗っても数日はかかる道のりだ。楽に来られる距離ではない。
「聡明な貴方なら言わずともお気づきだろう。私はドリアードの差し金だ」
「おわっ。噂をすれば……」
植物の魔獣ドリアードは何千年前から生きているのかわからないだけに、その影響力は凄まじい。文字通りの草の根ネットワークで、盗聴や伝達はお手の物なのだ。一体いつから予見していたのかはわからないが、的確すぎるこのタイミングに風見は引き気味である。
リードベルトは風見の心境を察したらしく、気まずそうだ。
「……あぁ、その、なんだ。森は貴方のおかげで上手くやっている。以前は争いがあったせいで里から離れるのも困難だったのに、私がここまで来られたほどだ。しかし、ドリアードが気がかりなことを言っていてな……。その件に関して猊下に伝えようとここまで来たところ、見慣れない姿だと不審がられてしまった。何者だと白装束に問いつめられて――こうなった次第だ」
ドリアードが言っていたという話は風見にも読めた。
北国からこの南の帝国を攻めようとすると、ハドリア教の総本山周辺を通るしかない。そこから少々南下したところに、ドリアードが治めるヴィエジャの樹海があるのだ。有事の際は西国が率いる北軍の進行ルートが間近になることは間違いない。
だが、それに気づいた風見はふと疑問を覚える。
「ん? ちょっと待ってくれ。西はこの国に侵攻したいんだろ? あくまで都市から都市へ侵略するんだろうし、魔物がうじゃうじゃいる樹海には、立ち寄らないんじゃないか」
「私もそこには疑問を覚えた。だが、あり得るのだ。詳しくは言えないが……」
言いながら、リードベルトは会議場に目をやった。ちょうどそこから、ユーリスとグローリアが出てくるところだ。リードベルトは周囲にいる白服にも目を走らせる。
他人の耳に届くところでは憚られる内容らしい。それを察した風見はひとまず話を切り上げる。この砦を出てから話の続きを聞くべきだろう。
風見がそう思っていた時、エレインがまた身を寄せてきた。そして耳元で囁いてくる。
「私からも詳しくは言えないけれど、答えは進む先にあるし、あなたならきっとなんとかできると思うの。それに、このラヴァン領の仕事をお義母様とお兄様に押しつけられるようになったら、私もそっちに応援に行くわ。だからその時まで、どうか逸らずに頑張ってね」
「お、おう?」
応援の言葉はともかく、逸らずにと前置いてくるのはどうも意味深だ。
けれどもそれを問えば、リードベルトや彼女がわざわざ隠しているところにも触れてしまいかねない。いや、実際そうなのだろう。
エレインは、さあさと背中を押してきたが、ふと足を止める。
「あ。そういえばお願いがもう一つあったことを忘れていたわ」
思い出した様子で呟いた。彼女が手を向けながら振り向く先はレギオニスだ。
「会談の途中で言ったとおり、私はここに残ることになるわ。警護と移動手段も兼ねてブルードラゴンが付き合ってくれることになっているの。申し訳ないのだけれど、あなたがカインのところまで行く便に、彼を同行させてくれないかしら?」
エレインが話を切り出すと、レギオニス本人が一歩前に出てくる。
「手間をかけるが、聞き届けていただきたい。私にはまだすべきことがあるのだ。代わりに、できることならばなんでも請け負う。小間使いだろうと命令してほしい」
彼はきっとまだ祖国のために働きたいのだろう。
リードベルトを見やってから、風見は息を吐く。もう、一人増えるも二人増えるも変わらない。
「わかった。乗りかかった舟だ」
「かたじけない」と大人らしく感謝を示すレギオニスの声に被せるように、「助かるわっ!」とエレインが声を上げる。彼女は風見の手を両手で握ると、上下にぶんぶんと振り回した。
それから、何かを思い出した様子の彼女は「あ、ちなみに」とこぼす。
「彼はね、まだ十代そこそこの第一王女に、『お慕い申し上げるぅっ!』と忠誠を誓ったり、毎月季節の花を贈ったりしていて、若干ロリコンの気があるのだけど、部下に慕われているいい人よ。性格のよさは保証するわ!」
そこまで暴露しないでもよかろうに、エレインは踏み込んだ発言をする。思わぬ公開処刑をされたレギオニスは、気恥ずかしさを堪えるように口を真一文字に結ぶのだった。
風見らはそれからタマたち魔獣三体のもとへ向かった。
壮観なものだ。伝説に謳われるだけで、目にできる冒険者もそうそういない魔獣が、この場には三体も揃っているのである。
伝説らしく悠然とした態度で待ち構えている――わけがない。
『かかか、こ奴め。石頭の紅ではなく、妾のもとにいたならば可愛がってやったものを』
そんなことを呟きながら、ブルードラゴンはじゃれつこうとするタマをあしらっていた。
そういえば、妾と言うからには雌なのだろうか。スケールはさておき、その触れ合いは動物の親子のように穏やかである。堅苦しいイメージのレッドドラゴンではありえないものだ。
そんな風に思ったのも束の間のこと。じゃれつきの最中、不意にタマの刺々しい竜鱗がブルードラゴンのヒレを引っかけた時に、空気は一変した。
その瞬間、ブルードラゴンが痛みに獣らしい声を上げてタマの首元に食らいつき、放り投げたのである。それに続いて翼を大きく開くと、四肢を踏ん張って吠えた。
先ほどまでの理知的なものは掻き消え、まさに獣そのものの姿である。
「うわぁ。もう、何やってんだよ……」
犬二匹ならともかく、数十メートル級の怪物二頭では、それだけで大災害じみている。
怯えたタマは、走ってきて風見の後ろに回る。姿は全く隠せていないが、彼を盾にしているのだろう。すると今度は、風見がブルードラゴンの鋭い視線に晒された。勘弁してほしい。
精神的に疲れているのだから余計な騒ぎは控えてくれないものか。ドラゴンという存在に慣れてきたとはいえ、威圧的な視線は本当に体に毒なのだ。
「カトブレパス、せめて最低限の面倒くらい見てくれればいいのに……」
風見はもう一頭の魔獣に目を向ける。
カトブレパスは、言葉も性格も穏やかだ。多少は気配りをしてくれるものと思ったが、当の魔獣は地面に横たわったまま、もっしゃもっしゃと草を反芻中である。ドラゴンのじゃれ合いで飛んできた砂を尻尾で払うのみで、放牧中の牛と見紛う平和ぶりだ。石化の悪魔の称号は現在お留守らしい。
『ドラゴンの相手は、手に余るでな』
「俺の手にも余るんだけど……」
本格的に暴れでもしたら手をつけられないのは確実である。とはいえ、そこはさすがに知恵のある獣。タマが反省したのを見て取ったブルードラゴンは、威嚇をやめて風見に声をかける。
『マレビトよ。会談は終わったか?』
「ああ。俺がカインのところに行って、できるだけのことをしてくることになった」
風見はブルードラゴンを見上げて言う。
『ならば早く行くがよかろう。さもなくば面白くないことも起こり得ようぞ』
「面白くないこと?」
『そうとも。妾も音に聞く限りだが、未曽有の危機というものが起こり得るやもしれん』
危機と言う割に、笑いを含んだ声色だ。上手く解釈できない風見は首を傾げる。
「どういうことだ?」
『そちはそこな魔獣をこの地まで連れ出したのであろう? 何があったのか申してみせよ』
ブルードラゴンは前脚を持ち上げ、カトブレパスに向けた。
何故そんな話に飛ぶのか、風見には理解できない。しかし、何かしらの意図があるのだろうと考え、経緯を思い出す。
「カトブレパスは元いた領域で不自由を抱えていた。でも、もっと広い世界でなら、うまく折り合いをつけて生きられそうだった。だから外に出る手助けをしたな」
『その過程で伝説の武具に阻まれたであろう?』
ブルードラゴンの問いかけに、風見は頷く。伝説の武具の話はこの世界では当たり前に言われることだ。今では風見にも常識として浸透しつつあるくらいである。
『カトブレパスが自らの領域を出れば、他者の領域を侵略するも同義。故にそれを防ぐ刃が現れる。ならば、妾が治める北方の地に人間が攻めてきたとしよう。それは明らかなる侵略行為。それに対してどうなると、そちは考える?』
「話からするに、魔獣にとっての助けも現れるってことか?」
『然り。しかし魔獣は本来、有象無象など優に払える故、そうそう発生しない。だが、その役目を担うモノは存在すると、実しやかに伝え聞く。曰く――』
「原初の三柱のお話ですか。聞き覚えがありますわね」
ブルードラゴンは思惑ありげにキュウビを見やる。すると彼女は説明を引き継いだ。
「特別な三つの存在のお話です。その一つであるリイルは言葉と立場で人々が道を踏み外さないように導きますが、他の二つは違います。要するに、裁定者とでも言いましょうか。この世界の秩序を大きく乱す人間や、勇者の手でも討てずに暴走を続ける魔獣を、滅ぼす役割を持っています」
二代目マレビトの娘として千年前から生き、魔獣とも親交が深い彼女だ。この口ぶりからして、聞きかじった知識だけではないのかもしれない。
「人間はどれほど鍛えても肉体や能力的に限界があります。圧倒的な質量と増殖能力を持つヒュージスライムを滅ぼす手段はありません。これが人間を止める抑止力。そして魔獣を止める抑止力にも覚えがありますわ。お父様が用いていた、重力の属性を司る妖刀です」
「え、武器なのか?」
「魔獣でもあり、武器でもありました。そうですわね、あれはシンゴ様もお持ちの霊核武装とよく似ているかと。武器の形をしていても、その本質は力の塊。滅することができない代物です」
風見はなるほどと納得する。彼の霊核武装は、元々、ミスリルタイタンという魔獣だった。それ自体が力を発する武器である上に、崩れてもまた元の形に戻って生えてくるのだ。
「そっか。ちょうどこんな感じか」
つい連想した影響か、霊核武装が地面からにょきりと出てきた。まるで、『呼んだ?』と顔を覗かせるかのような出現だ。
風見はそれを引っ掴んで粗雑に放る。これにはカトブレパスの石化能力を食い止めておく責務があるのだ。この場にいても邪魔なだけである。
「要するに、兵器や魔獣の力で暴れ続ける西国を放置すると、ヤバいものが目覚めかねないって話か」
『理解が早いものよ。褒めてつかわそう』
ブルードラゴンはうむうむと頷き、口元を緩める。
『妾は騎士の代わりに姫と共におらねばならぬのでな、そちらには関わらぬ。そのような混沌の世界もまた心躍るが、世界が終焉を迎える事態になれば笑えぬ。程良く活躍するがいい』
落ち着いた雰囲気に反して、ブルードラゴンは物騒だった。話がそこそこに落ち着くと、彼女はエレインを背に乗せてハイドラに飛び立つ。
続いて風見も出立しようとしたのだが、そこで隷属騎士のライとシーズに目を向けた。
「あ、そうだ。二人とも、悪い。ちょっと頼みたいことができたんだけど、いいか?」
「改まっちゃってなんだよ、カザミの兄貴」
ライは頭の後ろで手を組み、軽く聞こうとする。シーズはそんな彼を思い切りひっぱたいた後、耳を傾けてきた。風見は苦笑しながら答える。
「本当はついてきてもらいたかったんだけど、予想外に人手が増えてしまったし、何よりエレインはこれからハイドラでの領主業で苦労をしそうだ。二人は彼女の補佐をしてくれないか?」
「構いませんよ。それで具体的には何を手伝えばいいですか?」
「二人は俺の付き人扱いで、周囲の隷属騎士と立場が違う。だから、エレインに隷属騎士側からの意見を伝えたり、逆にエレインからみんなに頼みごとがある時は助けてあげてほしい。できるか?」
「はい、もちろんです」
「兄貴が言うならやるさ!」
急なお願いではあったが二人は力強く頷いてくれる。
「じゃあ、エレインは二人に任せて早速出発しよう。あと、ハドリア教の総本山に向かう途中で、ちょっとハイドラの教会に寄りたい。そこで培養を任せていたものをいくつかもらっていこう」
その言葉に反応を示したのはクロエだった。
「風見様、それはまさか、細菌兵器を教会に作らせていたという話ではないですよね……?」
今までとは方針転換すること。そして、培養という言葉から不穏なものを想像したのだろう。
そんな彼女の問いに対し、風見は首を横に振る。
「違う。だけど、似たものは扱ってる。例えば東国での天然痘もそうだな。流行病として危険な病原体を、何回も継代しまくって病原性を落とそうとしているんだ。今回持っていくのはその弱毒株と、生き物に感染性のない死んだ菌だけだ」
「そ、そうですか。よかった……。私の早とちりだったんですね」
彼女はほっと胸を撫で下ろす。なくはないことだと思っていたのだろう。
一方、この弱毒株などの言葉に耳慣れない面々は今一つパッとしない顔をしている。特に会って日が浅いサヤは、全く想像がついていない様子だ。しかし、彼女もこのことについては先日体験している。首を捻っているサヤに対し、風見は説明を始めた。
「ほら。この前、牛痘のワクチンを打ったろ? 弱毒株っていうのはあれに似たワクチンだよ。すごく病原性が低いけど生きた菌を注射するんだ。例えばこの世界でもよく流行っている結核。それに対する抗体があるかどうか調べるために、死んだ菌を注射して反応を見るんだよ。畜産業界でも、法定伝染病の牛結核を調べるのは重要でな――」
ワクチンや注射という単語が出て、サヤはびくびくする。どうやら先日の一件を思い出したらしい。彼女は即座に風見に詰め寄ると、彼の服を両手で強く握り締めた。緊張した彼女の尻尾は、先までぼわっと膨らんでいる。
「ご、ご主人っ……! 私はそんなの、しないですからね!?」
彼女は想像するだけでも鳥肌が立ったのか、そう主張した。
動物病院を毛嫌いする犬を人間にしたら、こんな感じだろうか。
「大丈夫だって。今回はそういう病気の重度汚染地域に行くわけでもないし。この教会に任せているのと似たことを、総本山でもやってくれないかなって思っているだけだ」
「ほ、本当だね? ……嘘をついたら噛むよ?」
それを確認すると、サヤの尻尾の緊張は徐々に治まる。けれど恐れが全てなくなるわけではないのか、尻尾は股の間に隠れていった。
ちなみに、先ほどの言葉の重要なところは〝今回は〟という部分である。未開拓なこの世界で今後もワクチンなしでいられるとは、口が裂けても言えない。
風見はそんな内心を隠して、サヤの肩に手を置く。その後、すぐに出立の準備を始めるのだった。
風見らは早速ハドリア教総本山に向かった。目的地までは、タマやキュウビの飛竜、リードベルトが乗ってきたグリフォンの行軍でも三、四日の旅となる。
急ぎすぎて不慮の事故が起きても困るので、昼休みがてら適当な平野で行軍を止めた。
昼食の準備を始めたところで、レギオニスは風見らの前で急に片膝をつき、地面に右拳をつける。それは王の御前でおこなうのと同じ、厳かな敬礼であった。
「猊下とその一行よ。先刻までは東と南の目があって言えなかった事情がある。それを語らせていただきたい。王より賜った使命と、カイン殿への助力にも関連する事柄なのだ」
カインは戦争を止めるため、西国に与した北国の兵と国境線で戦っている。彼を援護し、北国の兵を支配下に置く西国を叩ければ、それはレギオニスの国を助けることにも繋がるだろう。
――そしてその過程に、レギオニスが賜った使命とやらがあるようだ。
「北国は王都目前まで侵略された以上、陥落は必至。しかし、それを再興できるお方がいる!」
そこまで聞くと、勘のいいキュウビは話の先を察する。
「それ故に『お慕い申し上げる人がいる』ということですわね。ふふ、美談ではありませんか」
「う、うむ。気恥ずかしいことではあるが、相違ない」
レギオニスは顔を若干赤らめる。
話が読めないクイナは眉を寄せ、「どういうことですか?」とキュウビに詳細を尋ねた。
「現政権や次期王として評判高い者は、各地にある要所と同じく奇襲を受けてすでに望み薄。しかしながら彼が慕っている王女様はまだ救う望みがあるのでしょう。隠れているのか、囚われの身なのかは知りませんが」
「わあ、お姫様と騎士のお話みたいです」
キュウビの説明でようやく理解できたらしい。クイナは憧れにも似た目をレギオニスに向ける。
だが、純粋な彼女の目に反して、彼の表情は苦々しかった。
「とんでもない。私は騎士として失格だ。あまつさえ、他人の力を頼るしかないのだからな」
悔やむ一方、それだけでは何も好転しないと理解しているのだろう。彼はすぐに表情を引き締め、風見に顔を向ける。
「王より賜った使命は、第一王女の救出だ。彼女はハドリア総本山近くの都市で、忍びながら学業を修められておられた。だが、高官も住む都市であったがために早期の段階で奇襲を受け、陥落してしまったのだ。彼女の救出のため、貴殿らにご助力いただきたく……!」
レギオニスはただそれのみを願って頭を下げる。その姿からも声色からも、彼がどれほど第一王女を救いたいのか察せられた。
だが、風見は仲間を一度振り返ると首を横に振る。
「悪いけど、安易にそれ全部を引き受けられるほど――」
「はんっ。なーんで、私のご主人がそんなのを引き受けると思うんだか。関係なんぞないね。そっちの国の問題なんだから、勝手に悩んで勝手に死ねばいい」
せっかく自分の口で言おうとしたのに、サヤが風見の言葉を遮った。彼女は何を主張したいのか、風見に後ろから抱きつき、彼の肩に顎を乗せた状態でレギオニスを見下ろす。
「確かにね。そんなものにまで首を突っ込む義理も、こちら側の利点もない。シンゴもそう言いたかったんだろう?」
そう言ったのはリズだ。サヤの行動はさておき、その意見には同意らしい。
「大部分は同意なんだけどさ、俺にもちゃんと言わせてくれよ……」
風見は格好悪さと居心地の悪さで複雑な表情を浮かべたまま、レギオニスを見る。
しかし彼はそれにショックを受けた様子はない。
「その通りだ。だから可能な範囲で構わない。貴殿らはカイン殿を助ける。その過程で生じる好機に私が自ら動いて解決する所存だ。この命を賭しても、剣を捧げた主を守り抜く」
レギオニスの決意は固い。それはまさに騎士物語に語られる忠義の姿だろう。
そういえば、帝都で出会った騎士志望――クロエと関係が深かったシンディも、同じように剣を捧げてきた。彼女と同様の覚悟があると思うと、無下にしにくい。
「わかった。それならできる範囲で協力する」
「……おい、シンゴ?」
リズがジト目で睨んでくる。ついでに言うと、サヤも自分の意見に反することを言われてムッとしたのか、首筋に噛みついて抗議してきていた。だが、風見とて考えなしに言ったわけではない。とりあえずサヤの顔面を鷲掴みにして止めつつ、リズに真っ直ぐに視線を返す。
「手伝う必要がないことかもしれない。でも、ゲリラ兵を退治するならその場凌ぎじゃなくて大元も叩かないとダメだ。そういう意味で、お姫様がいる街を奪い返すのは悪い手じゃないだろ? 矢面に立って危ない橋を渡ったりはしない。そういう方針だったら問題ないだろ?」
「そういう心積もりなら、私が口を挟むことでもなかったね」
リズはすんなりと引き下がった。風見の考えを確かめただけなのだろう。
「……なるほどね。君の言うことには一理ある。確かに東国に対価を支払ってもらうより、仲良く動いた方が利益は大きいかもしれない。グローリアさん。あなたはどうお考えですか?」
「悪い話ではないね。話は面倒がない方が助かるよ」
ユーリスの問いに、グローリアは頷いて返す。
これで一応の議論は出揃ったらしい。ライラはそれを見て取ると、再び場を仕切りはじめる。
「それでは、議論は決したということでよろしいでしょうか? 東国と南国が協力して西国に対抗する件については書面に書き起こさせていただき、両者の了解を得て調印したく思います」
「ああ、構わないよ」
「同じくだ」
ユーリスに続き、グローリアも了承する。
本当に驚くべきことに、この会談はエレイン主導のもと、丸く収まったのだった。
その後、各国の代表者とライラは、文書作成や詰めの話やらを始めるという。お役御免となった風見とエレイン、レギオニスの三名は退室した。
この場での決定は大きな意味を持つ。重い荷がようやく下りたことで、風見は息を吐いた。
「これでよかったのか?」
焦ることもなく事を進められたのはエレインのおかげである。問いかけると彼女は頷いた。
「上出来ね。あとは昨日あなたが関わった魔獣絡みの大捕り物にお義父様の死亡理由をこじつけて、私が領の運営を上手く回せば終わりね。でも、私こそ疑問だわ。カザミはこれでよかったの?」
医療や農業から離れ、自ら争いの渦中に飛び込むという選択である。そんなことは望むところではなかったはずだろうにと、エレインは心配の眼差しを向けてきた。
確かに我ながら大きな方向転換だ。けれど、風見は頷いた。
「その通りなんだけど、結局は避けられそうもないしな……」
「それはどういうこと?」
風見はこの国で、大事な仲間を――守るべきものを得た。この国に波乱が起きれば、被害は避けようがない。しかし実はそれ以外にも理由はあるのだ。
「うーんとな、西国への対応策としてユーリスが俺を使おうとしたのと同じだ。憶測でしかないんだけど、ドリアードは俺が否応なく今回のことに関わるように根回しする気がしてな」
それを耳にしたエレインはすぐには理解できない様子だったが、風見のセリフを元に熟考する。
「ドリアード……。あなたが言うことだし、あの魔獣ドリアードのことかしら?」
「ああ。そのドリアードが西国の動きから、戦火が広がることを予見していたんだよ。無関係ではいられないともな」
「驚きね。アースドラゴンもそうだけど、もう一頭すごいのもついてきていたし。カザミは人に頼られるだけじゃなくて、魔獣にまで期待をされているのね?」
同じマレビトであるアカネはそんなことがなかったのだろう。エレインは驚きを示した後、素直に感心した様子で見つめてきた。
いや、ただ見るにしては、やけに風見を凝視する。そしてずいと詰め寄ってくるので、風見の方が身を引いてしまう。
「ねえ、カザミ。少し失礼かもしれないけれど、私、あなたを褒めたいわ。あなたがそうしてくれたことで救われた国民は、少なくなかったと思うもの。それに魔物と上手く暮らせる方法も作ってくれているのでしょう? それを労いたいのよ。ちょっと屈んでくれないかしら」
エレインは風見の頭に向けて大きく腕を伸ばす。だが、背伸びしてなんとか届くという様子だ。彼女は身長差のせいで、こうでもしないと頭を撫でられない不格好さを訴える。
大の大人が頭を撫でられるなんて、気恥ずかしい。だが、早ぅ早ぅ! と手をひらひらさせて催促するエレインのやる気に押されてしまう。風見は言われるままに少々屈んだ。
するとエレインは周囲の目も憚らずに、風見の頭を抱え込むように頭を撫でてくる。
「あなたはすごいわ。為したことはもとより、それに止まらず、さらに他人の希望を叶えようとするその姿勢は、とても誉れ高いと思う。肩書きではなく、本物の救世主ね」
思ったことをそのまま口にしているのだろう。感情がこもった言葉だ。彼女の胸に顔面が埋まってしまったが、それに反応するのも失礼である。風見はどうにか堪えた。
あくまで思った通りに行動しただけのエレインは、抱擁を解いても空気を濁すことはない。
「でもね、忘れないで。あなただって一人の人間。国民ではないけれどこの国に生きる大切な命。その肩書きに泥をつけて逃げ出したって、悪くないと思うの。誰かがこんな風に褒めてくれることも、言ってくれることも少なそうだから、私が代わりにしておくわ」
「えっ」
予想外のことを言われ、風見は思わず声を漏らした。
「私は見ることと喋ることしかできないお姫様。でもその二つには自信を持っているわ。その私の目で見て思うの。他人の望むものに応え続けたら、あなたはいつか失敗するわ。今までは大丈夫だったかもしれない。けれど、失敗の可能性がゼロだったわけではないでしょう? だからね、違った選択肢も頭に入れておいてというお話よ。こんなにいい人には、傷ついてもらいたくないもの」
エレインはそう言って、にこりとほほ笑む。
風見は感心した。道理で、苦難の道を進むアカネやカインらが足踏みせずに進んでいけるわけだ。こんな風に陰で後押しをしてくれる彼女の存在は、心強いだろう。
「マスター。ただいま」
風見が人知れず感動していた時、ナトの声が真上から降ってきた。どうやら彼女は周囲の植物で新たに体を作ったらしい。
それと同じくして、リズたちもこちらに駆けつけてくる。だが、場に揃う頭数が一つ多い。全員の視線は、ナトの足元――何故か彼女が首根っこを掴んで連れてきた一人の男性に集中する。
先が尖ったその耳は特徴的だ。身を包む衣装は新緑色を基調としていて、一般的な旅装とはまた違った民族風である。こんな特徴を持つのは、エルフしかいない。
「せ、先達よ。白装束の兵との問答を見かねて助けてくれたのはありがたいが、扱いが雑に過ぎる……」
やけに堅い物言いをする、強面中年エルフだ。そんな人物に、風見は猛烈に心当たりがある。ドリアードが治めるヴィエジャの樹海に住む、エルフの戦士長リードベルトだ。
「マスター。これ、お土産」
リードベルトのささやかな抗議に反し、ナトは彼をぞんざいに投げ出す。
彼を見て、風見は気づいた。リードベルトは以前と違って憑き物が取れた様子で、張りつめていた厳格さが少しばかり和らいでいる。彼は姿勢を正し、風見の前で片膝をついた。
「猊下、失礼した。そして突然の訪問、申し訳ない」
「それは気にしていないんだけど、あの魔境からこんなところまでどうしたんだ?」
馬ならどんなに急がせても二週間以上。空を飛べる魔物に乗っても数日はかかる道のりだ。楽に来られる距離ではない。
「聡明な貴方なら言わずともお気づきだろう。私はドリアードの差し金だ」
「おわっ。噂をすれば……」
植物の魔獣ドリアードは何千年前から生きているのかわからないだけに、その影響力は凄まじい。文字通りの草の根ネットワークで、盗聴や伝達はお手の物なのだ。一体いつから予見していたのかはわからないが、的確すぎるこのタイミングに風見は引き気味である。
リードベルトは風見の心境を察したらしく、気まずそうだ。
「……あぁ、その、なんだ。森は貴方のおかげで上手くやっている。以前は争いがあったせいで里から離れるのも困難だったのに、私がここまで来られたほどだ。しかし、ドリアードが気がかりなことを言っていてな……。その件に関して猊下に伝えようとここまで来たところ、見慣れない姿だと不審がられてしまった。何者だと白装束に問いつめられて――こうなった次第だ」
ドリアードが言っていたという話は風見にも読めた。
北国からこの南の帝国を攻めようとすると、ハドリア教の総本山周辺を通るしかない。そこから少々南下したところに、ドリアードが治めるヴィエジャの樹海があるのだ。有事の際は西国が率いる北軍の進行ルートが間近になることは間違いない。
だが、それに気づいた風見はふと疑問を覚える。
「ん? ちょっと待ってくれ。西はこの国に侵攻したいんだろ? あくまで都市から都市へ侵略するんだろうし、魔物がうじゃうじゃいる樹海には、立ち寄らないんじゃないか」
「私もそこには疑問を覚えた。だが、あり得るのだ。詳しくは言えないが……」
言いながら、リードベルトは会議場に目をやった。ちょうどそこから、ユーリスとグローリアが出てくるところだ。リードベルトは周囲にいる白服にも目を走らせる。
他人の耳に届くところでは憚られる内容らしい。それを察した風見はひとまず話を切り上げる。この砦を出てから話の続きを聞くべきだろう。
風見がそう思っていた時、エレインがまた身を寄せてきた。そして耳元で囁いてくる。
「私からも詳しくは言えないけれど、答えは進む先にあるし、あなたならきっとなんとかできると思うの。それに、このラヴァン領の仕事をお義母様とお兄様に押しつけられるようになったら、私もそっちに応援に行くわ。だからその時まで、どうか逸らずに頑張ってね」
「お、おう?」
応援の言葉はともかく、逸らずにと前置いてくるのはどうも意味深だ。
けれどもそれを問えば、リードベルトや彼女がわざわざ隠しているところにも触れてしまいかねない。いや、実際そうなのだろう。
エレインは、さあさと背中を押してきたが、ふと足を止める。
「あ。そういえばお願いがもう一つあったことを忘れていたわ」
思い出した様子で呟いた。彼女が手を向けながら振り向く先はレギオニスだ。
「会談の途中で言ったとおり、私はここに残ることになるわ。警護と移動手段も兼ねてブルードラゴンが付き合ってくれることになっているの。申し訳ないのだけれど、あなたがカインのところまで行く便に、彼を同行させてくれないかしら?」
エレインが話を切り出すと、レギオニス本人が一歩前に出てくる。
「手間をかけるが、聞き届けていただきたい。私にはまだすべきことがあるのだ。代わりに、できることならばなんでも請け負う。小間使いだろうと命令してほしい」
彼はきっとまだ祖国のために働きたいのだろう。
リードベルトを見やってから、風見は息を吐く。もう、一人増えるも二人増えるも変わらない。
「わかった。乗りかかった舟だ」
「かたじけない」と大人らしく感謝を示すレギオニスの声に被せるように、「助かるわっ!」とエレインが声を上げる。彼女は風見の手を両手で握ると、上下にぶんぶんと振り回した。
それから、何かを思い出した様子の彼女は「あ、ちなみに」とこぼす。
「彼はね、まだ十代そこそこの第一王女に、『お慕い申し上げるぅっ!』と忠誠を誓ったり、毎月季節の花を贈ったりしていて、若干ロリコンの気があるのだけど、部下に慕われているいい人よ。性格のよさは保証するわ!」
そこまで暴露しないでもよかろうに、エレインは踏み込んだ発言をする。思わぬ公開処刑をされたレギオニスは、気恥ずかしさを堪えるように口を真一文字に結ぶのだった。
風見らはそれからタマたち魔獣三体のもとへ向かった。
壮観なものだ。伝説に謳われるだけで、目にできる冒険者もそうそういない魔獣が、この場には三体も揃っているのである。
伝説らしく悠然とした態度で待ち構えている――わけがない。
『かかか、こ奴め。石頭の紅ではなく、妾のもとにいたならば可愛がってやったものを』
そんなことを呟きながら、ブルードラゴンはじゃれつこうとするタマをあしらっていた。
そういえば、妾と言うからには雌なのだろうか。スケールはさておき、その触れ合いは動物の親子のように穏やかである。堅苦しいイメージのレッドドラゴンではありえないものだ。
そんな風に思ったのも束の間のこと。じゃれつきの最中、不意にタマの刺々しい竜鱗がブルードラゴンのヒレを引っかけた時に、空気は一変した。
その瞬間、ブルードラゴンが痛みに獣らしい声を上げてタマの首元に食らいつき、放り投げたのである。それに続いて翼を大きく開くと、四肢を踏ん張って吠えた。
先ほどまでの理知的なものは掻き消え、まさに獣そのものの姿である。
「うわぁ。もう、何やってんだよ……」
犬二匹ならともかく、数十メートル級の怪物二頭では、それだけで大災害じみている。
怯えたタマは、走ってきて風見の後ろに回る。姿は全く隠せていないが、彼を盾にしているのだろう。すると今度は、風見がブルードラゴンの鋭い視線に晒された。勘弁してほしい。
精神的に疲れているのだから余計な騒ぎは控えてくれないものか。ドラゴンという存在に慣れてきたとはいえ、威圧的な視線は本当に体に毒なのだ。
「カトブレパス、せめて最低限の面倒くらい見てくれればいいのに……」
風見はもう一頭の魔獣に目を向ける。
カトブレパスは、言葉も性格も穏やかだ。多少は気配りをしてくれるものと思ったが、当の魔獣は地面に横たわったまま、もっしゃもっしゃと草を反芻中である。ドラゴンのじゃれ合いで飛んできた砂を尻尾で払うのみで、放牧中の牛と見紛う平和ぶりだ。石化の悪魔の称号は現在お留守らしい。
『ドラゴンの相手は、手に余るでな』
「俺の手にも余るんだけど……」
本格的に暴れでもしたら手をつけられないのは確実である。とはいえ、そこはさすがに知恵のある獣。タマが反省したのを見て取ったブルードラゴンは、威嚇をやめて風見に声をかける。
『マレビトよ。会談は終わったか?』
「ああ。俺がカインのところに行って、できるだけのことをしてくることになった」
風見はブルードラゴンを見上げて言う。
『ならば早く行くがよかろう。さもなくば面白くないことも起こり得ようぞ』
「面白くないこと?」
『そうとも。妾も音に聞く限りだが、未曽有の危機というものが起こり得るやもしれん』
危機と言う割に、笑いを含んだ声色だ。上手く解釈できない風見は首を傾げる。
「どういうことだ?」
『そちはそこな魔獣をこの地まで連れ出したのであろう? 何があったのか申してみせよ』
ブルードラゴンは前脚を持ち上げ、カトブレパスに向けた。
何故そんな話に飛ぶのか、風見には理解できない。しかし、何かしらの意図があるのだろうと考え、経緯を思い出す。
「カトブレパスは元いた領域で不自由を抱えていた。でも、もっと広い世界でなら、うまく折り合いをつけて生きられそうだった。だから外に出る手助けをしたな」
『その過程で伝説の武具に阻まれたであろう?』
ブルードラゴンの問いかけに、風見は頷く。伝説の武具の話はこの世界では当たり前に言われることだ。今では風見にも常識として浸透しつつあるくらいである。
『カトブレパスが自らの領域を出れば、他者の領域を侵略するも同義。故にそれを防ぐ刃が現れる。ならば、妾が治める北方の地に人間が攻めてきたとしよう。それは明らかなる侵略行為。それに対してどうなると、そちは考える?』
「話からするに、魔獣にとっての助けも現れるってことか?」
『然り。しかし魔獣は本来、有象無象など優に払える故、そうそう発生しない。だが、その役目を担うモノは存在すると、実しやかに伝え聞く。曰く――』
「原初の三柱のお話ですか。聞き覚えがありますわね」
ブルードラゴンは思惑ありげにキュウビを見やる。すると彼女は説明を引き継いだ。
「特別な三つの存在のお話です。その一つであるリイルは言葉と立場で人々が道を踏み外さないように導きますが、他の二つは違います。要するに、裁定者とでも言いましょうか。この世界の秩序を大きく乱す人間や、勇者の手でも討てずに暴走を続ける魔獣を、滅ぼす役割を持っています」
二代目マレビトの娘として千年前から生き、魔獣とも親交が深い彼女だ。この口ぶりからして、聞きかじった知識だけではないのかもしれない。
「人間はどれほど鍛えても肉体や能力的に限界があります。圧倒的な質量と増殖能力を持つヒュージスライムを滅ぼす手段はありません。これが人間を止める抑止力。そして魔獣を止める抑止力にも覚えがありますわ。お父様が用いていた、重力の属性を司る妖刀です」
「え、武器なのか?」
「魔獣でもあり、武器でもありました。そうですわね、あれはシンゴ様もお持ちの霊核武装とよく似ているかと。武器の形をしていても、その本質は力の塊。滅することができない代物です」
風見はなるほどと納得する。彼の霊核武装は、元々、ミスリルタイタンという魔獣だった。それ自体が力を発する武器である上に、崩れてもまた元の形に戻って生えてくるのだ。
「そっか。ちょうどこんな感じか」
つい連想した影響か、霊核武装が地面からにょきりと出てきた。まるで、『呼んだ?』と顔を覗かせるかのような出現だ。
風見はそれを引っ掴んで粗雑に放る。これにはカトブレパスの石化能力を食い止めておく責務があるのだ。この場にいても邪魔なだけである。
「要するに、兵器や魔獣の力で暴れ続ける西国を放置すると、ヤバいものが目覚めかねないって話か」
『理解が早いものよ。褒めてつかわそう』
ブルードラゴンはうむうむと頷き、口元を緩める。
『妾は騎士の代わりに姫と共におらねばならぬのでな、そちらには関わらぬ。そのような混沌の世界もまた心躍るが、世界が終焉を迎える事態になれば笑えぬ。程良く活躍するがいい』
落ち着いた雰囲気に反して、ブルードラゴンは物騒だった。話がそこそこに落ち着くと、彼女はエレインを背に乗せてハイドラに飛び立つ。
続いて風見も出立しようとしたのだが、そこで隷属騎士のライとシーズに目を向けた。
「あ、そうだ。二人とも、悪い。ちょっと頼みたいことができたんだけど、いいか?」
「改まっちゃってなんだよ、カザミの兄貴」
ライは頭の後ろで手を組み、軽く聞こうとする。シーズはそんな彼を思い切りひっぱたいた後、耳を傾けてきた。風見は苦笑しながら答える。
「本当はついてきてもらいたかったんだけど、予想外に人手が増えてしまったし、何よりエレインはこれからハイドラでの領主業で苦労をしそうだ。二人は彼女の補佐をしてくれないか?」
「構いませんよ。それで具体的には何を手伝えばいいですか?」
「二人は俺の付き人扱いで、周囲の隷属騎士と立場が違う。だから、エレインに隷属騎士側からの意見を伝えたり、逆にエレインからみんなに頼みごとがある時は助けてあげてほしい。できるか?」
「はい、もちろんです」
「兄貴が言うならやるさ!」
急なお願いではあったが二人は力強く頷いてくれる。
「じゃあ、エレインは二人に任せて早速出発しよう。あと、ハドリア教の総本山に向かう途中で、ちょっとハイドラの教会に寄りたい。そこで培養を任せていたものをいくつかもらっていこう」
その言葉に反応を示したのはクロエだった。
「風見様、それはまさか、細菌兵器を教会に作らせていたという話ではないですよね……?」
今までとは方針転換すること。そして、培養という言葉から不穏なものを想像したのだろう。
そんな彼女の問いに対し、風見は首を横に振る。
「違う。だけど、似たものは扱ってる。例えば東国での天然痘もそうだな。流行病として危険な病原体を、何回も継代しまくって病原性を落とそうとしているんだ。今回持っていくのはその弱毒株と、生き物に感染性のない死んだ菌だけだ」
「そ、そうですか。よかった……。私の早とちりだったんですね」
彼女はほっと胸を撫で下ろす。なくはないことだと思っていたのだろう。
一方、この弱毒株などの言葉に耳慣れない面々は今一つパッとしない顔をしている。特に会って日が浅いサヤは、全く想像がついていない様子だ。しかし、彼女もこのことについては先日体験している。首を捻っているサヤに対し、風見は説明を始めた。
「ほら。この前、牛痘のワクチンを打ったろ? 弱毒株っていうのはあれに似たワクチンだよ。すごく病原性が低いけど生きた菌を注射するんだ。例えばこの世界でもよく流行っている結核。それに対する抗体があるかどうか調べるために、死んだ菌を注射して反応を見るんだよ。畜産業界でも、法定伝染病の牛結核を調べるのは重要でな――」
ワクチンや注射という単語が出て、サヤはびくびくする。どうやら先日の一件を思い出したらしい。彼女は即座に風見に詰め寄ると、彼の服を両手で強く握り締めた。緊張した彼女の尻尾は、先までぼわっと膨らんでいる。
「ご、ご主人っ……! 私はそんなの、しないですからね!?」
彼女は想像するだけでも鳥肌が立ったのか、そう主張した。
動物病院を毛嫌いする犬を人間にしたら、こんな感じだろうか。
「大丈夫だって。今回はそういう病気の重度汚染地域に行くわけでもないし。この教会に任せているのと似たことを、総本山でもやってくれないかなって思っているだけだ」
「ほ、本当だね? ……嘘をついたら噛むよ?」
それを確認すると、サヤの尻尾の緊張は徐々に治まる。けれど恐れが全てなくなるわけではないのか、尻尾は股の間に隠れていった。
ちなみに、先ほどの言葉の重要なところは〝今回は〟という部分である。未開拓なこの世界で今後もワクチンなしでいられるとは、口が裂けても言えない。
風見はそんな内心を隠して、サヤの肩に手を置く。その後、すぐに出立の準備を始めるのだった。
風見らは早速ハドリア教総本山に向かった。目的地までは、タマやキュウビの飛竜、リードベルトが乗ってきたグリフォンの行軍でも三、四日の旅となる。
急ぎすぎて不慮の事故が起きても困るので、昼休みがてら適当な平野で行軍を止めた。
昼食の準備を始めたところで、レギオニスは風見らの前で急に片膝をつき、地面に右拳をつける。それは王の御前でおこなうのと同じ、厳かな敬礼であった。
「猊下とその一行よ。先刻までは東と南の目があって言えなかった事情がある。それを語らせていただきたい。王より賜った使命と、カイン殿への助力にも関連する事柄なのだ」
カインは戦争を止めるため、西国に与した北国の兵と国境線で戦っている。彼を援護し、北国の兵を支配下に置く西国を叩ければ、それはレギオニスの国を助けることにも繋がるだろう。
――そしてその過程に、レギオニスが賜った使命とやらがあるようだ。
「北国は王都目前まで侵略された以上、陥落は必至。しかし、それを再興できるお方がいる!」
そこまで聞くと、勘のいいキュウビは話の先を察する。
「それ故に『お慕い申し上げる人がいる』ということですわね。ふふ、美談ではありませんか」
「う、うむ。気恥ずかしいことではあるが、相違ない」
レギオニスは顔を若干赤らめる。
話が読めないクイナは眉を寄せ、「どういうことですか?」とキュウビに詳細を尋ねた。
「現政権や次期王として評判高い者は、各地にある要所と同じく奇襲を受けてすでに望み薄。しかしながら彼が慕っている王女様はまだ救う望みがあるのでしょう。隠れているのか、囚われの身なのかは知りませんが」
「わあ、お姫様と騎士のお話みたいです」
キュウビの説明でようやく理解できたらしい。クイナは憧れにも似た目をレギオニスに向ける。
だが、純粋な彼女の目に反して、彼の表情は苦々しかった。
「とんでもない。私は騎士として失格だ。あまつさえ、他人の力を頼るしかないのだからな」
悔やむ一方、それだけでは何も好転しないと理解しているのだろう。彼はすぐに表情を引き締め、風見に顔を向ける。
「王より賜った使命は、第一王女の救出だ。彼女はハドリア総本山近くの都市で、忍びながら学業を修められておられた。だが、高官も住む都市であったがために早期の段階で奇襲を受け、陥落してしまったのだ。彼女の救出のため、貴殿らにご助力いただきたく……!」
レギオニスはただそれのみを願って頭を下げる。その姿からも声色からも、彼がどれほど第一王女を救いたいのか察せられた。
だが、風見は仲間を一度振り返ると首を横に振る。
「悪いけど、安易にそれ全部を引き受けられるほど――」
「はんっ。なーんで、私のご主人がそんなのを引き受けると思うんだか。関係なんぞないね。そっちの国の問題なんだから、勝手に悩んで勝手に死ねばいい」
せっかく自分の口で言おうとしたのに、サヤが風見の言葉を遮った。彼女は何を主張したいのか、風見に後ろから抱きつき、彼の肩に顎を乗せた状態でレギオニスを見下ろす。
「確かにね。そんなものにまで首を突っ込む義理も、こちら側の利点もない。シンゴもそう言いたかったんだろう?」
そう言ったのはリズだ。サヤの行動はさておき、その意見には同意らしい。
「大部分は同意なんだけどさ、俺にもちゃんと言わせてくれよ……」
風見は格好悪さと居心地の悪さで複雑な表情を浮かべたまま、レギオニスを見る。
しかし彼はそれにショックを受けた様子はない。
「その通りだ。だから可能な範囲で構わない。貴殿らはカイン殿を助ける。その過程で生じる好機に私が自ら動いて解決する所存だ。この命を賭しても、剣を捧げた主を守り抜く」
レギオニスの決意は固い。それはまさに騎士物語に語られる忠義の姿だろう。
そういえば、帝都で出会った騎士志望――クロエと関係が深かったシンディも、同じように剣を捧げてきた。彼女と同様の覚悟があると思うと、無下にしにくい。
「わかった。それならできる範囲で協力する」
「……おい、シンゴ?」
リズがジト目で睨んでくる。ついでに言うと、サヤも自分の意見に反することを言われてムッとしたのか、首筋に噛みついて抗議してきていた。だが、風見とて考えなしに言ったわけではない。とりあえずサヤの顔面を鷲掴みにして止めつつ、リズに真っ直ぐに視線を返す。
「手伝う必要がないことかもしれない。でも、ゲリラ兵を退治するならその場凌ぎじゃなくて大元も叩かないとダメだ。そういう意味で、お姫様がいる街を奪い返すのは悪い手じゃないだろ? 矢面に立って危ない橋を渡ったりはしない。そういう方針だったら問題ないだろ?」
「そういう心積もりなら、私が口を挟むことでもなかったね」
リズはすんなりと引き下がった。風見の考えを確かめただけなのだろう。
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