道を極める

“失敗”を糧にするEV開発エンジニアの「現場魂」

2017.07.18 公式 道を極める 第24回 藤墳裕次さん

「強い信念を持って設計しろ!」
“ミスターGTR”にしごかれた日産時代

藤墳氏:いくつもの会社を受けては落ちる中で、突如「よくわからん人間だが、面白いからうちに来い」と、私を設計の世界に引っ張り上げてくれたのが、あの「日産自動車」でした。私のメカニック、エンジニアリングに対する想いだけを買ってくれた面接官は、車体設計の担当者でもあり、自分は運よく車両設計部に配属されることになったんです。それまで箸にも棒にもかからなかった身としては、想像もしなかった場所で設計経験が積めることに、バイクでなくとも興奮しましたね。

そんな車両設計部に集まった同年代の中途採用者は、みんな「バカ」がつくほどのメカ好き(笑)。そして、そうしたアツい人間よりもさらにアツかったのが、業界のエンジニアたちが羨望の眼差しを注いでいた、日産のチーフエンジニア、“ミスターGTR”こと、水野和敏さんでした。

車の開発はまず、「どんな車をつくり、世の中に届けたいか」という「企画=想い」から始まります。それに基づいて各設計部隊が、設計構想を提出し、企画に沿って、デザインと設計が両軸となって、摺り合わせていくんです。日産では、その過程において、DR(デザインレビュー)を提出して、どういう想いで設計をしたのか、その思想を問われる場があります。エンジニア側の設計に対する想いが弱かったりブレていたりすれば、すぐに水野さんから激しい檄が飛んできました。

「強い信念を持って設計しろ!」と、よくシゴかれました。けれど、決して頭ごなしに否定されるわけではなく、その設計に込められた我々エンジニアの信念が問われていたんです。何度も説明を重ね、食い下がってようやく設計OKをもらうこともありました。現場ではエンジニアたちが集まって、日夜奮闘していましたが、肌身で「設計」そのものの魅力と厳しさを感じさせてもらいましたね。日産時代には「S15シルビア」などを担当しましたが、これが私の設計、エンジニアとしての原点でした。

――エンジニアとしてのキャリアを確実に積まれていきます。

藤墳氏:ところが、というか実はこの時も、まだ私の心の中には「バイクをつくりたい」という気持ちが大部分を占めていたんです。エンジニアなら誰もが憧れる水野さんに師事でき、どこも相手にしてくれなかった自分を、可能性だけで雇ってくれた、申し分のない会社と職場環境でしたが、私がやりたかったのはあくまでバイクづくり……。

30歳を目前にして、結婚も控えていて、考えることはたくさんありましたが、自分の気持ちを無視したまま生きていくことは、やはりできませんでした。何より、そんな気持ちを抱えたまま働くことは、エンジニアとしても、職場やお客さんに対しても申し訳ない。悩んだ末、自分の夢であった「バイク」を捨てきれず、再度転職を決心し、念願のバイクメーカー川崎重工に転職しました。28歳のときです。

自ら設計したバイクでアメリカ縦断。
夢、燃え尽きた先に見えたもの

――ようやく、念願の「バイク」に辿り着きました。

藤墳氏:カワサキ時代は、アメリカンバイクの設計部隊に配属され、エンジン以外全部、車体(フレーム)設計を担当していました。意外だったのは、日産時代とはまた少し違ったカワサキの企業風土でした。「バルカン2000」という、アメリカ市場向けに、同じVツインエンジンのハーレーを超える「世界一のバイクをつくるぞ」というアツい目標を掲げていた一方で、極めてシステム化された、大企業としての開発現場がそこにあったんです。

私はそこで、システマチックな現場のメリットとデメリットを感じ、中途の平社員の身分など無視して、ただただバイク設計のためになると信じて、勉強会やアイディア出しなど、トップと現場を繋げる会話の場を独自に設けていました。若手の分際で、同社の生産システムを確立された役員も呼んで勉強会を開いたり(これは後で直属の上司に怒られましたが。笑)、若手同士でアイディア出しをやったりと、勝手ばかりやらせてもらっていましたね。

そんな中「バルカン2000」が完成して、上司から実際どうなったか見てこいと言われ、アメリカにも行かせてもらいました。念願だったバイクの設計を仕事にして、さらに自分がつくったバイクでアメリカを横断。自分たちの商品の長所短所を直接感じるという、ものづくりの醍醐味を味わうことができ、私のバイクの夢は、この時点で叶ってしまったんです。

――「夢」が叶ってしまった後に見えたのは……。

藤墳氏:ずっと追い求めていた夢が、いざ叶った瞬間、自分のエンジニアとしてのこれから進むべき道を問われたような感じでした。やりたいことは全部できた。達成感もあった。でも、やはりまだ満足できなかった。そうしてまた、新たな自分の場所を求めた結果、次に私が身を置くことになったのは、世界的自動車メーカー「トヨタ」でした。

“天下のトヨタ”で、イチから再出発

藤墳氏:夢を達成し、エンジニアとしてもっと「ものづくりに集中したい」という欲求が芽生え、新たな居場所を探しながら、業務に必要なマネジメントに関するビジネス書を読んでいました。その本には、トヨタ生産方式の強みの一つである「カイゼン」が盛んに取り上げられ、またエンジニア周りから入ってくる情報でも、「トヨタ出身者はひと味違う」と、トヨタに関するたくさんの評判を直接見聞きしていました。

なかなか落ち着かず、すぐ新しい場所を求めてしまう自分に、妻は「やりたいことがあるなら、やればいい」と、この時もトヨタへの転職を後押ししてくれました。それで面接を受けるわけですが、正直、自分には設計者・エンジニアとしてそれなりの自負はありました。日産、川崎重工と経験を積んできたことに、どこか設計の仕事を楽観視していたのかもしれません。ところがトヨタの面接では、けちょんけちょんにされ、それでも奇跡的に受かったかと思えば、今度は現場の開発風土の違いに、「鼻っ柱を折られた」気分でした。

――また、イチからの再出発を余儀なくされます。

藤墳氏:自動車設計の経験は日産で十分積んでいたつもりでしたが、担当者権限の強い日産に比べて、上司が徹底的に面倒を見てくれるトヨタと、そもそもの企業風土が違ったんですね。風土が違えば、やり方も当然違う。私が提案した図面は全然通りませんし、厳しい部長への定期報告の日には、気が重くて本当に逃げ出したくなるほどでした。

また日産時代とは違い、私が担当していたのはアンダーボディと呼ばれる、デザインに左右されない、自動車の基幹部分となるプラットフォームの設計でした。10年、15年先を見据えた息の長い設計が必要とされ、「設計」そのものの難しさを叩き込まれ、本当にイチから技術を伸ばしてもらっていました。レクサスを中心にカムリや北米向けのシエナを担当し、担当者から課長まで、いろいろな視点で開発現場を見ることができたトヨタでのこの時期は、間違いなく今のGLMでの礎石となっています。

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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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