道を極める

“帽子一筋30年”唯一無二を届けるデザイナー

2017.10.17 公式 道を極める 第30回 glico(天野裕子)さん

「はじめは皆素人」
試行錯誤を重ね、みずからの“地図”を描く

glico氏:うちの親は放任主義でしたので、将来を決められるようなことはなかった代わりに、何でも自分で決めて進めなければなりませんでした。まわりは大学や短大に進む友人が大半でしたが、帽子教室の先生やまわりの大人にアドバイスをもらいながら、帽子を学べる学校も自分で探していました。学費も自前で用意する必要があったため、高校卒業後1年間は帽子屋さんでアルバイトとして働いていたんです。また、この時バイト先の帽子メーカーさんによくしていただき、進学先の東京での働き口も確保して、ようやく上京を果たしました。

――みずから道を描いて、好きな世界へ飛び込んでいく。

glico氏:東京での学びの場に選んだのが、代々木に今もある帽子の専門学校、「サロン・ド・シャポー学院」でした。私が通っていた頃は、10数名ほどの少人数のクラスでしたが、全国から帽子好きが集まっていて、教えてくださる先生も非常に親身にしてくださり、とても温かい家族のような存在だったことを覚えています。ここで、帽子愛溢れる先生と仲間に出会い学べたことで、“憧れ”だった帽子に対して、“愛情”を抱くようになり、それをたくさんの人に感じて欲しいと思うようになっていったんです。

上京して最初の2年間は、昼間は学校で学び、夕方からは名古屋時代に紹介してもらった帽子メーカーのお仕事で、百貨店やファッションビルで帽子の販売をしていました。朝から晩まで帽子漬けの日々で、学業と仕事を両立させるのは大変でした。けれども、やっていることがすべて、自分の思い描く帽子デザイナーの道に繋がっているんだと思えると、まったく苦ではなく、むしろ毎日が充実しすぎて、寝ている時間ももったいないくらいで常に寝不足気味でしたね(笑)。

――好きな世界にとことん浸かっていきます。

glico氏:といっても、まだまだ田舎から上京してきた「帽子好きの素人」に過ぎませんでしたから、学校を卒業して働いてからが、学びと失敗の本番という感じでした。

通常、2年間の基礎過程を終えて学校を卒業すると、皆どこかのアトリエに入るのですが、私の場合は違いました。とにかく自由に自分の思い描く帽子が作りたかったのと、アトリエに入ることで型にはまってしまい、自由な発想がなくなるのが怖かったんでしょう。今思えば若気の至りですが、仕事を受けながら独学するのが一番の近道と考え、アトリエには入らなかったんです。

まだ何者でもなかった私でしたが、縁あって学校を卒業後、ある帽子メーカーに就職できることになりました。就職といっても、正式な就職活動をしていたわけではなく、アルバイト先でのスカウトがきっかけでした。取り扱いブランドに関わらず、お店に来られるお客さまにとって「一番似合う帽子を」と、バイトの身分を超えて接客していたのを、メーカーの方が見てくださって、それがご縁でお声がけいただいたんです。

「断らない」姿勢で繋がった世界的ブランドの仕事

glico氏:こうしてはじまった私の“新社会人”時代は、とにかく失敗と学びの連続でした。その帽子メーカーではデザインの仕事だけではなく、プレスや市場調査など、帽子全般に関わる仕事をさせてもらっていましたが、すべてが新鮮で、最初はまわりに追いつくことで必死でした。今でも覚えているのは、入社初日のこと。カジュアルが普段着だった私は、ハイファッションに身を包んだ先輩デザイナー方に圧倒され、とても恥ずかしい想いをしたんです。「自分も先輩たちのように格好よくならなければ」。そうして外見も仕事も、見よう見まねで覚え、自分なりに磨いていきました。

そこで働かせてもらいながら、少しずつ社会人としての常識を身につけ、仕事を覚えていくうちに、同時にデザイナーとしての帽子デザインのお仕事も、業界の知り合いを通して少しずつ頂けるようになっていきました。その中には、大女優や有名俳優、ミュージシャンなど、名もなき新人デザイナーでは怯んでしまいそうなご依頼もたくさんありました。しかし、そうした能力以上と思える仕事に対しても、私は一貫して「断らない」と決めていたんです。

――みずからの“能力”を省みない、断らない。

glico氏:その代わり、毎日泣いていましたよ。「あー、なんて分不相応な仕事を引き受けちゃったんだろう」って(笑)。でも、チャンスはそう何度も巡ってくるわけではありません。自分の能力に照らし合わせた時、大抵は不相応だ、と思うわけです。けれど、そこで尻込みしていては、チャンスは通り過ぎてしまいますし、同じチャンスは二度と訪れてくれないのは、まわりを見てわかっていました。

自分の能力以上に思える依頼であっても、とにかく手を挙げる。そしてあとは泣きながら仕事(笑)。そうして、少しずつデザイナーとしての実績を積ませていただく中でお声がかかったのが、幼い頃に雑誌を眺めては憧れた、イヴ・サン=ローランでの帽子づくりだったんです。

「華やかな舞台から一転」帽子づくりの場を失って

glico氏:この時も、「イヴ・サン=ローランの日本のプレタポルテ(高級既製服)の帽子作りに携わってみませんか?」というご依頼をいただいて、二つ返事でお受けしたことがはじまりでした。今まで手がけた作品を見ていただき、1〜2点試作品を作って見てもらうところからがスタートでしたね。ちょうどこの時期に、「アトリエglico」として独立して、他のブランドも含め複数の制作依頼を受けていたのですが、イヴ・サン=ローランでの仕事が増えるに従って、これ一本に絞るようになっていきました。

春夏と秋冬の2シーズン、本国フランスから“絵”が送られてきて、「今季はこれで」という形で毎回制作するのですが、思い返すといろいろな苦労がありました。広つばのキャノチエはサン=ローランの定番のアイテムですが、帽子の材料のサイズが決まっている場合、広げるためにひたすらつばの部分をひっぱりながら伸ばしていくのですが、指紋がなくなるくらい大変な作業でしたね(笑)。サン=ローランのメインの帽子である「トーク帽」の場合は、遊びのあるデザイン、曲線を出すためにチップ(木型の代わり)作りから始め、型入れをした際のフォルムの出方がイメージと違った時は、またイチからやり直すなど、これも苦労した思い出です。

また、当時は今よりも材料は豊富でしたが、それでも手に入らない素材はありました。例えば、“ゴールドのブレード”や“サン=ローランの色”など、ない時は探すのに本当に必死で駆け回って、それでもない時は自分で染めて色を出すことも。

そんな苦労の数々も、ショーを見れば一瞬で吹き飛びました。自分が作った帽子をモデルさんが被り、颯爽とランウェイを歩き世間から注目される……。帽子デザイナーとして、最上の喜び、報われる瞬間でした。

――幼いころに描いた、華やかな世界で生きている喜び……。

glico氏:ところが、そうした華やかな世界での、帽子デザイナーとしての幸せな舞台は、ある日突然なくなりました。イヴ・サン=ローランが別の海外ブランドに買収されることになり、どうなることかと思ったら、あっさりとポジションクローズ(部門閉鎖)が決まってしまったんです。「もうプレタポルテはやらないよ」と言われ……。独立してから20年近く、一人で日本のサン=ローランを請け負ってきたというデザイナーとしての自負も正直ありました。それらを一夜にして失う喪失感はかなりのもので、さすがに私も参ってしまいましたね。

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アルファポリスビジネス編集部
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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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