道を極める

「直感」で世界を変える伝説のプログラマー

2017.11.21 公式 道を極める 第32回 中島聡さん

“好き”に没頭できる環境づくり

――「必ず元を取る」と(笑)。

中島氏:なぜか直感で、「絶対にそうなるはず」という、根拠のない自信があったんですね(笑)。ところがプログラミングに触れた最初の1ヶ月間、これがさっぱりわからなくて。「どうして、そのようにプログラムを入力すれば、こう動くのか」。教科書もありませんでしたから、とにかく仕様書のサンプルコードや、雑誌に載ってあるプログラムコードと、にらめっこの日々が続きました。

来る日も来る日も仕組みがわからない。けれど不思議と諦めることはありませんでしたね。結局のところ、プログラミングは概念・思考プロセスの理解の問題なのですが、それがわかったのは本当に突然でした。壁を叩き続けていたら急に崩れたような感覚で「なんだ、そういうことか」と。それからですね、プログラミングが楽しくなったのは。その時の道がパッと拓けたような感覚は今でも鮮明に覚えています。

――「壁」を突破した先にあったものは。

中島氏:とことん没頭できる幸せな時間でした。もうそれからは寝ても覚めても、プログラミング一色ですよ(笑)。プログラムでできるものは何でもやっていましたね。当時、コンピュータ雑誌の『月刊アスキー(ASCII)』と『I/O(アイオー)』を愛読していましたが、自作のアセンブラやディスアセンブラ(いずれもプログラミングのためのツール)を、編集部の住所を調べて、アポなしで「できました!」って持ち込んだこともあります。別に頼まれた訳ではなかったのですが、それで雑誌に掲載されればいいなと。最初はそんなところからのプログラミング人生のスタートでした。

こうした自由な時間が確保できていたのも、受験のための勉強をしなくてよかったからだと思います。ぼくは決められた「勉強」をするのが苦手で、それよりも自分の好きなことに没頭したいと考え、高校は早稲田の高等学院に進んだんです。これで後々、大学受験のための勉強はしなくて済むと。東大志向だった親からしてみれば、「アレ?」と肩すかしを喰らったでしょうが、思えば、この時からすでに人の言うことを聞いていなかったのかもしれません。おかげで、そのまま大学、大学院と進みながら、自分の好きなプログラミングに没頭し続けることができました。

自分の感情に誠実であることの大切さ

中島氏:この頃には、科学者になりたいという夢も変わり、すっかりコンピュータに魅せられていました。当時、週刊アスキーの編集長だった吉崎さんもヘンテコな高校生プログラマーを可愛がってくれて、高校生ながらアルバイト記者として働いていました。

大学はそのまま早稲田の電子通信学科に進んだのですが、コンピュータのことはほとんどアスキーでの仕事で学んでいました。学部生の頃、「CANDY」という世界初のCADソフトを作ったのですが、これも直線を引くプログラミングで遊んでいたことと、アスキーの古川さんからのマウスをPCに繋げられるソフトウェアの依頼を受けていたこと、それに自分の卒論でのアイディアが融合してひらめいたものでした。

それまでもさまざまなソフトウェアを開発していたのですが、権利も曖昧で誰でも使用できるオープンソース的な使われ方だったんです。「CANDY」の時はさすがにロイヤリティ交渉をして、初年度で数千万円、翌年には1億円近いロイヤリティを得ることができました。

――それを仕事にしようとは。

中島氏:それが当時は、不思議とそういう考えに及ばなかったんですよね。大学院に進んでそのまま、研究室の教授に推薦文を書いてもらって、普通に企業に「就職」したんです。ところが、入ってすぐにここは「違うな」と感じてしまいました。

それまで、自分のしたいことに没頭できる環境を選んできましたが、就職したところは、研究所と名前はつくものの、あくまで「会社組織」。その論理や、不条理に従って生きることが、ぼくには苦痛で仕方がなかったんです。その将来も、大企業なので安定ではあるものの、自分の直感が活かされないのは明白でした。

そういうモヤモヤとした気持ちを抱えながら、就職してちょうど1年と1ヶ月。ある日、何気なく新聞に目を通していると、microsoftの日本法人が立ち上げられたという新聞記事を目にしました。立ち上げメンバーには、アスキーで一緒に働いていた成毛さんや、古川さんもいました。自分としては「なんで誘ってくれないの」という気持ちで、すぐに電話しましたよ。そうしたら「大企業に就職しているし、興味ないと思った」というようなことを言われました。

確かに、アスキーのアルバイト記者時代に、ビル・ゲイツから直々に「1年間アメリカに来ないか」とオファーを貰っていたのですが、妻(当時は彼女)と念願の1対1のデートが実現しそうなころで、そちらを優先してしまっていたことがあったんです(笑)。

もちろん、今度はすぐに働きたいと伝えましたよ。「手を挙げれば自分のやりたい仕事がすぐそこにある」。問題だったのは、大学院まで進んでいて、なおかつ研究室の推薦という形で決まっていた就職先をどう辞めるか(もしくは辞めないのか)でした。研究室枠で入った自分が「合わないのでやっぱり辞めます」というのは、大学や会社側からすると裏切り行為に等しい訳ですよ。それに、世間的には安定した大企業ということで、周りの反応も自分にとって決して追い風ではありませんでした。

――それでも、「やってしまった」。

中島氏:今思えば、教授に相談もせずいきなり上司に退職願を出してしまって、「流儀」を無視してしまったことに、いささか反省がない訳ではありません。けれど、もしこの時、誰かに相談して言うことを聞いて「安定」をとっていたら、自分の「やりたい」という気持ちに蓋をしてしまっていたら……。その後の米国Microsoft社でのWindowsの開発の仕事や、今に続く起業には決して繋がらなかっただろうと思います。

――「変化」を恐れてはいけない。

中島氏:自分が本当にどうしたいのかを考えると、変化も怖くはありません。Microsoft社の日本法人から、アメリカ本社で働くことになった時、ぼくは英語さえ話せませんでした。そして、アメリカに着いてみれば周りは自分よりも優秀なプログラマーだらけ。ひとりで立ち向かうには、Windowsという存在は圧倒的に大きくて……。逆に怖がっている暇はなかったんです。

そうした状況下で確実に成果を残していくのに必要だったのが、小さい頃からやっていたような「工夫」でした。常にどうしたいのかを考え、ベストになる形で仕事をしていく。今に繋がる仕事観もそうして養われていきました。さらに、そうした試行錯誤の繰り返しの中で、今度は自ら会社をやってみたくなり、Microsoftを退職して、UIEvolutionを起業するに至ったんです。2000年、ちょうど40歳の頃でした。

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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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