道を極める

孫正義にビル・ゲイツ、
「世界の顔」をスクープし続ける写真家

2016.09.06 公式 道を極める 第3回 小平尚典さん

御巣鷹山の日航機墜落事故やホテルニュージャパン火災など、世間を揺るがした事件事故から、デビュー前のセックス・ピストルズや孫正義、そしてビル・ゲイツなど、「世界の顔」を撮り続けてきた、写真家の小平尚典さん。初めてカメラを手にしてから、上京、渡英、さらに米国と、写真家としての可能性を広げ続けた今までの道のりを「挑戦と失敗の連続だった」と振り返ります。「今、写真家として第四コーナー一直線にいる」という小平さんの、道の極め方、受けた恩を繫ぐ「ギブ&ギバー」の想いとは。

(インタビュー・文/沖中幸太郎

写真家、大学講師……
全方位に向かう仕事への情熱

小平尚典(こひら・なおのり)

写真家
コヒラ・パーソンズ・プロジェクト代表取締役。

1954年福岡県生まれ。1975年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学卒業後、渡英、欧州を放浪。帰国後、エディトリアルカメラマンと実績を積み、1980年に新潮社FOCUS(フォーカス)専属カメラマンとして、創刊に参加。1987年より22年間米国ロサンゼルスを拠点に、世界を相手に取材活動をする。09年に帰国後は、米国での経験を生かしメディアプロデューサーとして活躍している。

――(小平さんの写真集を見て)表紙に写っている人物から、生き生きとした活力を感じます。

小平尚典氏(以下、小平氏):ぼくが写真を撮る時は、いつも素直で素朴な写真が撮れるファーストカットを大切にしていて、被写体との関係性にこだわりを持ってカメラに収めています。最初の一枚が大切。「最初の一枚をいい加減に撮らない」と決めています。こうしたポリシーは写真家であるぼくの活動、コヒラパーソンズプロジェクトの、CEO BRANDINGに大きく活かされています。

「リーダーのビジョンからブランドは生まれる」という理念のもと、CEOを軸に企業のブランド戦略支援としていくつかのサービスを展開していますが、そのなかでも「ポートレートアイデンティティ」は、写真家であるぼくの考えがもっとも反映されたサービスのひとつです。

企業の事業を成長させるうえで欠かせない、ロゴマークより大切な、社員や顧客にとって魅力的なリーダーの姿を写真に収めて形にするものです。たった一枚のリーダーの写真が、その会社の顔となり、何千人何万人もの人々の印象を左右し、影響を与えることができるんです。

また、写真だけでなく、今までの経験を活かして、早稲田大学では非常勤講師として理工学部の学生向けに講義を行っています。「知財のグローバリゼーションと言語の多様性」という大げさなタイトルなんですけど(笑)、ぼくの今までの経験――雑誌『FOCUS』や22年間のアメリカでの経験をもとに学生に教えています。毎回、いろいろなキーワードを設定して、ネムくならない、親から頂く学費をムダにしない授業を心がけています。双方向性の90分間は、なかなかエキサイティングですよ。

――写真家という仕事を、いろいろな形で広げられているんですね。

小平氏:今でこそ「自由で陽気な写真のおじさん」をやっていますが(笑)、こんな風に写真を軸にカタチにできるようになったのは、60歳を過ぎてからですよ。ほんの最近までは「ぼくの写真はこれでいいのか」と、自問自答を繰り返す毎日でした。還暦を過ぎてようやく「開き直った」というところでしょうか。もういいじゃない、って(笑)。

初めてカメラを手にして50年、写真を職業にして40年近く経ちますが、いまようやく過去の経験同士が結びついて、興味の赴くまま、自分のペースで自由に写真と向き合える仕事ができています。

初めててカメラを手にした祖母のお葬式
ぼくは写真の虜になった

小平氏:ぼくが初めてカメラを手にしたのは、母方の祖母のお葬式の時でした。東京から来たいとこがカメラを持っていて、お葬式に集まっていた親戚の人々の様子を写す係をやっていました。ぼくも父が持っていたハーフサイズの「キャノンデミ」という機種のカメラを借りて、いとこから手ほどきを受けました。仲のよかった祖母のお葬式の写真を撮る、亡くなった祖母のもとに集まった人々の様子を記録するということに、ぼくはなにかしらの意義を感じました。

それから「写真を撮って記録する」という行為に、どんどんのめり込んでいきました。あらゆる写真雑誌を読み込んで知識をつけていき、そのうち貰ったカメラでは飽き足らず、父に「ニコマート」という高価なカメラをねだり、月賦(げっぷ)で買ってもらいました。

――子どもには、潤沢すぎる環境だったのではないでしょうか。

小平氏:もともとひとりっ子でめちゃくちゃ甘やかされて、「ぼくちゃん」と呼ばれて育っているんです(笑)。偏食が激しく、母の作ったチキンライスと茶碗蒸し以外は食べられなかったという、変な子どもでしたね。

福岡市東区の箱崎という場所で育ったのですが、そこは近くに板付飛行場(福岡空港)・鹿児島本線・国道3号線もある交通の要所だったため、乗り物好きだったぼくには格好の場所でした。父親に連れられて空港に行っては、たとえば二人乗りの偵察機を機体番号まで克明に描き写すような性格でしたね。

――好きだった乗り物と写真が結びつくと、どうなっていくんでしょう……。

小平氏:もうオタク街道まっしぐらですよ(笑)。気になったら、トコトンのめり込んでしまう気質は今も昔も変わりませんね。「撮り鉄」にも「乗り鉄」にもなって、九州を列車で旅するようになりました。当時、まわりにたくさんあった蒸気機関車には目もくれず、ブルートレイン(寝台特急列車)ばかり撮っていました。

記録と収集に興味を持ってのめり込んでいたぼくが、その頃描いていた将来の夢は、「新聞記者」でした。薬剤師だった父から、手に職を持つことが大切だと言われていました。ぼくは、写真の技術を「手に職」と考え、それを活かした写真記者になろうと、日大芸術学部の写真学科へ進みました。

日大以外にも選択肢はいくつかありましたが、当時憧れだった寝台特急列車、ブルートレイン『あさかぜ』に乗りたかったというのが、一番のモチベーションだったのかもしれません(笑)。それに乗って門司から東京まで行けるのが何よりも楽しみだったのです。夢だった食堂車で朝食を食べることもできましたし、そのとき人生で初めてトマトジュースを飲んだのですが、後にも先にもあんなに美味いものを飲んだことはありませんでした。あれは、本当に美味しかったなぁ。

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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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