小平氏:そうして夢を抱いて入学した大学でしたが、正直なところ、自分の想い描いていた学生生活との落差にがっかりしました。ぼくの写真に対する想いが熱すぎたのかもしれません。大学は悪い学校というわけではありませんでしたが、物足りなさを感じていました。写真に対するドキドキワクワク感もなく、入学してわずか1ヶ月での絶望に、正直どうしようかと思いました。
――悶々としていたんですね。
小平氏:ところが、学校生活とは別の楽しみを教えてくれる同級生のおかげで、東京生活自体は存分に楽しめました。そいつはクラスでもなかなかハイセンスなやつで、当時原宿で有名なブティックだった店の副店長を任されていました。彼から、その店の運転手のアルバイトを紹介されました。運転手の仕事は、隣にデザイナーを乗せて、生地屋さんにいって見本を作ってもらって、それを工場に持っていくというものでした。目の前で仕事がなされていく様子を目の当たりにし、運転していただけでしたが(笑)大人の世界を知ったような気がしました。2年ぐらいやっていましたが、華やかなアパレル業界のパーティーなんかにも呼ばれて、それだけでも東京に来た甲斐があると思いました。
小平氏:3年生になり、写真学科の伝統で、先輩から集英社と小学館のスタジオ撮影のアシスタントのアルバイトが回ってきました。たまたま小学館にいく予定だった人間が旅に行くから変わってくれということで、ぼくが小学館に行きました。
当時は、いろいろな雑誌の創刊ラッシュで、小学館の地下スタジオには篠山紀信さんや沢渡朔さんをはじめ、有名なカメラマンが賑やかに出入りしていました。彼らの近くにいてじっと観察してメモを取っていると、だんだんと彼らの仕事の仕方がわかるようになりました。カメラマンにもクセがあり、それぞれのスタイルに合せたアシスタントをしていました。シャッター音でカウントして、フィルムが切れそうになると残り枚数を声がけしたり、言われたことだけでなく、ベストな一枚を撮れるような環境づくりを心がけていました。
――写真家、小平さんの下積み時代。積極的ですね。
小平氏:それでも、アルバイトの初日は「たるんでいる、気が利かない」と叱られましたよ(笑)。叱ってくれた先輩のおかげで、何を求めていてどう応えられるかを考えるようになりました。普通アルバイト期間は10ヶ月で終わるのですが、私は特別に「便利すぎるアシスタント」として、二期勤め上げました。写真部の諸先輩やスタジオのチーフに、随分とかわいがってもらいましたね。「作品でも創れ」と余ったフィルムを頂き、現像までさせてもらったり、毎晩一緒に飲んで、人間的な付き合いを通じて成長させてもらいました。結局、大学4年生の2月まで小学館でアルバイトをさせてもらっていました。その後いよいよ就職という段になり、その頃写真家になりたいと思っていたぼくも、周りの先輩に将来の職業について相談しました。
相談に乗ってくれた諸先輩方は口々に「カメラマンというのは、フリーランスでやるもんだ」と言われました。けれど、いくら写真が撮れるいいアシスタントだったとはいえ、それ以上の何者でもなかったぼくは、なにか「付加価値をつけたい」と思っていました。本当に単純な理由なのですが、ブリティッシュロックが好きだったから、写真家としてやっていく前にイギリスに行って何かを得てこようと思ったんですね。
――「箔」を付けるためのロンドンだったんですね(笑)
小平氏:だってカッコいいじゃない「イギリスに留学していました」なんて言えたら(笑)。本当は留学というほどのものではなくて、期間を決めていないままの気楽な旅でしたが、出発前に、日本の新聞社の知人からある「お遣い」を頼まれたことで、コネもカネもなかったぼくは、イギリスでさまざまな経験を積むことができました。
その「お遣い」とは、書類を渡すだけの単純なものだったのですが、ご褒美に一緒に夕食をして、そのままマージャンをするような仲になりました。その麻雀のメンバーから「お前は何しに来たんだ」と言われ、「人間力をつけにきました」なんて答えていると、「じゃあ」とトントン拍子で、ロンドンでの住居や学校の世話までしてくれました。48万円(当時の国外持ち出し制限いっぱいの日本円)だけ握りしめてやって来て、それがなくなったら帰ろうと思っていましたから、本当にありがたいご縁でしたね。
ロンドンでは毎週土日、コンサートに行っていたのですが、ぼくはいつも客席ではなくバックヤードの方に向かっていました。高価なカメラをちらつかせ、免許証を見せて「プレスカードだ」なんて言って、強引に取材をさせてもらっていたんです(笑)。それが、マルコム・マクラーレンに出会い、デビュー前のセックス・ピストルズの撮影を依頼されるきっかけにもなりました。
小平氏:イギリスには約1年滞在し、その後、欧州を放浪して日本に帰ってきました。「ロンドン帰りのカメラマン」にはなれましたが、たったの1年で技術が劇的に向上するわけもなく、当初はプロのカメラマンのもとで、アシスタントに入ろうと思っていました。
ところが、周りの先輩方から「カメラマンは撮ってなんぼ、シャッターを押したやつが勝つ」とアドバイスを受け、アシスタントではなくいきなり写真家として独り立ちしていくことを決めました。ぼくの写真家人生は、みずからプロと名乗ることでスタートしたんです。
このときも、人とのご縁でつながっていきました。ラグビーの出版社リーグに所属していたことで、同じチームの編集者から『ビッグコミック』のグラビア3ページの連載の仕事を頂きました。これが最初の仕事でした。『少年サンデー』では特約カメラマンという名刺まで作ってもらいました。こうして徐々に写真家としての実績を積み重ねてきました。