道を極める

東大三度落ち、人気塾講師からのカフェ経営
井川啓央と『カフエ マメヒコ』誕生ヒストリー

2016.09.20 公式 道を極める 第4回 井川啓央さん

『北の国から』で受けたプロフェッショナリズムへの衝撃
ビデオカメラで「見て」、テープレコーダーで「聞く」

井川氏:中学2年の頃、仙台から東京に戻ってきました。やっぱり東京は都会で、同級生も仙台とは違っていて、どこか進んでいる感じがありました。そんな彼らと、その年の文化祭で、映画を撮ることになったんです。テレビドラマの黄金期で、テレビっ子だったぼくは、向田邦子、山田太一、倉本聰が脚本の連続ドラマをたくさん見ていたので興味があり、脚本を担当することになりました。

題は「W.C(トイレ)の悲劇」で、本家『Wの悲劇』の足下にも及ばず、比べ物にもならないくらい退屈で、脚本として非常につまらないものでしたが、これが後々の進路選択にまで影響することになります。

ちょうど『北の国から~’87初恋~』が放映された頃で、たまたまテレビで見て「なんてすごいんだ。これがプロの仕事なのか」と、曲がりなりにも“脚本”を作ったと思っていたぼくは、その差に衝撃を受け、もう一度見たいと思いました。

家にはビデオデッキがなかったのですが、運よく同級生のひとりが録画していて、ビデオデッキごと貸してくれることになったのです。ところが、家のテレビが古すぎて、そのビデオデッキに対応する入力端子がなく……。

――テレビに繋げない……、どうしたんですか(笑)。

井川氏:映画を撮る時に使ったカセット式のビデオカメラがあったことを思い出し、それでなんとか再生し「見る」ことに成功しました。望遠鏡のような小さなファインダーに片目を押し当てて、小さなモノクロ画面の「北の国から~’87初恋~」を繰り返し見ていました(笑)。それでも、いつか返さないといけないので、音声だけ録音して、今度は画像なしの『北の国から』を何度も聞きました。

すっかりハマった息子を見て、父は『北の国から』の脚本を、買って来てくれました。それを読んで、さらに驚きました。自然に演じられていた情景が、実は綿密に作られたものだったんだ、と。ひとりの情熱と、優秀なプロフェッショナリズムの集合によって、あの『北の国から』は作られているんだ、と。ぼくも、何かのプロとして生きていきたいと思うようになりました。

その一方で、やっぱり王道である東大に進んで欲しいという親の要望もあって、高校は桐蔭学園という進学校へ進みました。「やる気がないけれど、レールから逸脱する勇気のない自分」。「それでいいのかという気持ちの葛藤」。小学生で受験を辞めたときは精神面でのプチドロップアウトでしたが、この頃になると精神面も学業面でもノリについていけない。いよいよ王道から外れたなと正式にドロップアウトを感じましたね。

価値観にはついていけませんでしたが、ひとつ素敵なこともありました。クラスでからかわれていたある同級生が、怒ってお弁当を床にひっくり返したことがありました。お弁当はプリンのように見事な逆さになっちゃって……。
周りにいたクラスメイトも静かになり、誰もがその状況にどうしたらいいのか分からず、うろたえていたんです。その時ひとりの同級生が、床にひっくり返ったお弁当の前に正座して「これ、まだ食えるよ」ってひょうひょうと弁当を食べ始めたんです。

――ひっくり返った弁当を、ですか?

井川氏:床から数ミリの部分だけ残して綺麗に平らげちゃったんです(笑)。「その手があったか!」と思いましたよ。ストレートにいじめをやめようと言ったり、対策として副担任をつけたりするのとは何か違う。その同級生は、ユーモアで場を和ませた。ぼくも、物事をストレートに表すのでなく、そういう機転とユーモアで何かを表現したいと思うようになりました。

まさかの「東大」三度落ち
仮面浪人中に学習塾を立ち上げる

井川氏:倉本聰が文学部だったという理由で、ぼくも東大の文Ⅲを受けたのですが、まさかの不合格。翌年も東大一本でダメ。「もう大学に行かない」と言い出し、さすがに親も「スベリ止め」を提案してきました。

ドラマや映像に対しての思い入れがあったのは確かですが、日大の芸術学部を選んだ理由は特になく、放送学科に決めたのも、試験日程が東大とかぶらないからでした。そして案の定、三度目も東大は落ち、日大に進むことになりました。周りは、みんなそこに入りたくて入った人たちばかりで、情熱もありました。「全然違う場所に来てしまった」という感覚でした。

周りが学生生活を謳歌(おうか)する中で、ぼくは家庭教師のアルバイトを個人でするようになりました。塾生活が長かったので勉強のノウハウも分かるし、それでいて、三度も試験に落ちているので(笑)、生徒たちのわからない気持ちも分かる。
だんだん口コミで、人気が広がって、生徒が20人くらい、月にして40万円ぐらいの収入になり、大学1年生の時に個別指導の学習塾にしてしまいました。

――生徒に教える井川先生……どんな感じだったんでしょうか。

井川氏:今まで先生に恵まれていなかったという想いもあって、ぼくがわかりやすく教えてやるんだって意気込んでいました(笑)。最初は、中3と高3を1年間、合格まで面倒をみたら終わり、と思っていました。ところが、「その妹が、弟が……」と駆け込み寺みたいになってしまって。
毎年延長して気づけば4年間、東大を目指す子どもに関数を教える傍らで、その妹にアルファベットのABCから教える。大学の同級生が、サークルがどうだとかやっている間に、夏期講習の準備をせっせとしていました。

初任給2万8000円……やっぱり世の中甘くない
現実に体当たりしながら「次の道」を切り拓く

井川氏:そんな調子で、大学の単位は4年間で8単位しか取れませんでした。大学からの通知を受け取った親が一番驚いたと思います。東大を「諦めて」の日大で、まさか単位をまったく取れていなかったなんて。母は呆れ、父からは「辞めるなら、きっぱりけじめをつけろ」と言われました。

――学習塾を続けず、別の道を模索することになったのは。

井川氏:儲けよりも、いかにみんなにわかるまで教えるか、わかりやすく教えるかを優先してやっていたので、塾経営という点ではダメだったと思いますよ。力が入りすぎちゃっていたんですね。塾を大きくするだとか、そういうことは考えませんでした。だから将来の仕事にしようとは思いませんでした。

大学では自主制作の映画の総監督(監督、脚本)もやっていたのですが、皆はそれぞれ就職活動のアピールポイントとして活用できたけれど、自分は何も活かせていませんでした。一生懸命やってきたけれど、ぼくには何が残ったんだろうという気持ちもあって、やってきたことをリセットしようと思ったんです。そして、大学は4年生になる前に辞めました。

そこで、また世間知らずぶりを発揮しました。テレビ局に入りたいとエントリーしようとしたら、当たり前ですが「大学卒業見込み」の人しか受け入れてくれなかったんです。ぼくのような大学を中退した人間には、門戸が開かれていない、エントリーすらさせてもらえないという現実を知った時、どこかで誰かから「これが、世間というもんなんだよ」と笑われた気がしました。

――「現実」に直面して、井川さんがとった次の一手は。

井川氏:アルバイト情報誌に載っている「テレビ」と名のつく仕事に、とにかく応募することでした。大学も中退だし、業界は未経験でしたから、「なんでもやります」と言っていました。ようやく入れてもらったのが、美術の制作会社。全国放送ゴールデンタイムの番組で使う小道具の仕事でした。

とりあえず、最初の1ヶ月。28時(朝の4時)に現場が終わって、同日朝7時にまた渋谷で集合。家に帰る間もなくスタジオの端っこで寝るような生活でした。契約書も交していなかったので、それとなく給料のことを話すと、親方は自分のポケットに手を突っ込んで、無造作に掴んだお札を「これ、やるよ」と言って、ぼくにくれました。額は2万8000円。それが初任給でした。

そこで1年間、現場でいい番組づくりも、悪い番組づくりも見て「決められた仕組みの中でいいものなんて作れない」、「仕事は仕組みではなく、ひとりの想いが引っ張って全体を動かすんだ。」と確信しました。

ディレクターを志望していたので、美術の制作の仕事はやめ、募集していたドラマのディレクターの仕事に応募しました。いろいろな事情で話が何度か延期されるうちに、経ち消えに。退路は断っていたので困っていたところ、映画の予告編を作る仕事に誘われました。

当時のぼくは映画は『男はつらいよ』と『E.T』しか見たことがなかったのですが、たくさん映画に触れられるいい機会だと、未経験でしたが、またすぐに手を挙げ、3年ほどやりました。

仕事にも慣れ、順調にこなしていく中で、昔の大学のメンバーや職場の同僚から「映画を撮ろう」という話を持ちかけられました。学生時代に調整役としての監督の大変さを知っていたし、諸手を上げて喜べなかった自分は、当初拒否していたのですが、結局数百万円の予算でやりました。
けれど25歳くらいの、社会に不満のある人間が集まって作った映画のできの悪さを見ていると、両親の言う世の中のルール、王道の素晴らしさがなんとなく分かってきたような気がしたんです。

「(王道を外れた)俺ってバカかもしれない」と。

手を挙げ違う世界に飛び込み続け
ニューヨークでフリーランスのプロデューサーになる

井川氏:『北の国から』にはほど遠い、いつまでも実績にならないような自主制作の映像を撮り続けることに何の意味があるのか。この世界にしがみつく意味がないと、嫌気がさして映画の予告編を作る会社を辞めることにしました。

相当やさぐれていたんでしょうか(笑)。周りの人が心配してくれて、そこで「辞めるんだったら、ニューヨークへいかないか? 現地で仕事がある」と、またここで大きな節目となる誘いを受けたのです。

次のアテもなかったし、厭世(えんせい)的な気持ちになっていたので、ここでひとつ新しい世界に身を置いてみようと、手を挙げることにしました。当時25、26歳。ワクワクしていました。

――身ひとつ、裸一貫で新天地に。

井川氏:実は当時、お付き合いしていた女性がいたのですが、急なニューヨーク行きが決まりそうだと話をすると、「私も行きたい」となりました。まさか「彼女です」で、一緒にアメリカ行きのビザは取れないので、勢いというか「じゃあ、結婚しようか」となり、無事籍を入れて行きました(笑)。仕事を紹介してくれた方から「お前何考えているんだ、どうやって暮らすんだ」と、呆れられましたね。

「どうやって暮らす」その言葉の意味は、到着後すぐに知ることになりました。定期的な仕事や住む場所も、特に手配などされておらず、ほとんどゼロから仕事を作るしかありませんでした。英語も話せませんでしたが、ここは転校生の得意技(笑)。日本の民放の現地局に、企画を売り込んで番組づくりをしていました。

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アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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