井川氏:フリーのディレクターとして2年、その後アメリカの同時多発テロが起き、いったん帰国するもまた現地に戻って番組を作っていました。そうして慌ただしく働いているうちに、テレビを取り巻く環境もどんどん変わってきました。
ちょうど民放のBS開局の時期と重なり、これからは番組だけでなく、デジタルコンテンツの時代だと言われ、今までフリーランスでやってきた仕事も会社にしました。
もともとアナウンサーで、しっかりしている奥さんに代表を任せることにしました。会社である以上、登記する上で定款(ていかん)を書かないといけないのですが、やりたいことを盛り込んでいるうちによく分からなくなり、そこで会社名は素敵な偶然、予想外の発見を意味する「セレンディピティ」として「その日暮らしを是としよう。」と、およそ会社らしからぬ形で出発しました。
あやふやな会社でしたが、経営としては及第点というか、うちのデジタルコンテンツは一社独占状態で、正直儲かっていました。ただ、そこに工夫がなかったのも事実でした。特殊な技術でそのクライアントの仕様に併せているので、あくまで納品をする下請けでした。世の中のテレビに対する姿勢が変わりつつあることに気づきつつも、何もアクションを起こせないことに対するモヤモヤとした不満を感じていました。
ある日、法事の仕出し弁当を食べながら、気づいたんです。通り一遍の冷めたまずい天ぷらと、固くなったご飯。でも、お寺といい関係を保ち、何十年も仕事として成り立ってはいる。もちろん、お客さんが美味しく食べているかどうかなんて関係なく。
「うちのやっている仕事はこれと同じじゃないか!」隣にいた奥さんに、その怒りをぶつけたら、ひと言「そうかもね」って(笑)。
ちゃんと温かい、故人を偲ぶような料理を出したかった。ちょうど、子どもができた頃に、子育てもあって、ぼくが代表になり、会社の舵をとることになったのですが、決められた仕様の中では企業努力の甲斐もなく、また「辞めよう」と思いました……。
井川氏:ちょうどその頃、またひとつ気づきがありました。ようやくマメヒコ誕生の章に入ります(笑)。デジタルコンテンツの制作と同時に、料理上手だった元教え子のお母さんを誘って、料理教室をやっていました。すでに7年ほどやっていて、生徒も100人くらいの規模になっていました。
そこでは、一生懸命美味しい料理を作れば喜んでもらえる。一方、番組制作は大変な思いをしている割には、喜びが少ない。基本はダメ出しの世界。喜びに直結する仕事がしてみたい……。
――それで、いよいよマメヒコの誕生に。
井川氏:もうワンステップ、セレンディピティがあって……(笑)、まあ飲食というのはいいなと思っていたところで、生徒のひとりが「カフェやったらいかがです?」と提案してくれたんです。「私ちょうど会社を辞めて、カフェに勤めたいと思うから、つくってくださいよ」って(笑)。
基本的にディレクターは、番組づくりのなかで、企画を勉強して、想像してみるのが仕事です。カフェも実際にオープンできるか、ひとつの企画としてシミュレーションしてみようと、「今もしぼくが、カフェを作ったら」という企画だと思ってやってみました。店名、ロゴ、カフェの開き方の本なども片っ端から読んでノート1冊分の企画書つくって算段すると、どう見積もっても5000万円くらいはかかってしまいました。
「これは無理だな」と思いましたが、とりあえず本には銀行での資金調達についても書かれていたので、銀行に実行してみると2軒目の銀行の支店長が理解を示してくれました。「ただ理想だけではお金は貸せないから、決算書を持ってきて欲しい、それで判断したい」と。
そのとき、はじめて決算書という存在を知り、奥さんに「ウチにもケッサンショあるか?」と聞くと出してくれたので、それを持ってふたたび銀行にいくと、「その売り上げ規模なら3500万円は貸せる」と。
動き出すと、トントン拍子で進み、最初の三軒茶屋の物件はコンペだったのですが、用意していた企画書のおかげで通り、こうして、無事『カフエ マメヒコ』は誕生しました。発端となった、その子は、もう別の道に進んでいましたが(笑)。
――いよいよセレンディピティの結晶としてスタートした「カフエ マメヒコ」。
井川氏:実際にはじめてみたら、まあ大変。シミュレーションが効かない。「マメヒコとは、こうあるべきだ」と、哲学を書き込んだノートも作っていましたが、全然その通りにならない。3年ぐらい、朝から晩まで毎日お店に顔を出していましたが、「もう、向いていないんじゃないか」と思うほどでした。そこで少し外から離れて見てみたんです。
すると、不思議なことに、だんだんと「こだわり」を感じてくれるお客さんの声がお店に届くようになってきました。放っておいたら、リズムが伝わる。距離をあえて置く、「不在の存在感」というものを感じました。短期間で評価の出る価値観とは違うものが、カフェにはまた別の価値観があるんじゃないかと。マクロでみたら、見誤ることもある。映像でトリミングする世界ではなく、長いスパンでものを見る舞台のような存在なのかもしれない。
――そうして少しずつ育っていったマメヒコイズムを、冊子『M-Hico』や、ラジオ、そのほかの取り組みで伝えています。
井川氏:理想を語っても「とはいえ」で否定が始まるのが常ですが、ちゃんとやっていけることを伝えたい。今日、お話した「こうするしかなかった」で進みながら、本当にやりたいこと、セカンドラインから王道ににじり寄っていく姿。二十代になって、初めて感じた劣等感との戦い。これを世の中になんとか、リンクできないかと思っています。
連続ドラマや連載小説、長い時間軸で評価されるもの、渾身の一作じゃない世界で、それを表現していきたいですね。
「世の中のマスに対するアンチテーゼ」も、アンチのままでいいとは思っていません。もっとマスにして伝えていくことも考えています。それがどんな形で表現されていくか。これから先の姿は、ぼくにもわかりません。けれど、その可能性を信じられる人たち、まだ見ぬ人たちとのセレンディピティを大切にしながら、一緒にマメヒコを創っていきたいと思います。