「議員定数削減は一丁目一番地であり、改革のセンターピンだ」
日本維新の会の吉村洋文代表は、自民党との連立の条件として提示した12項目のうち、議員定数の削減が最重要項目であることを強調した。
これを受け、昨年11月26日に行われた党首討論では、企業団体献金をめぐる論議のさなか、高市早苗首相が「そんなことよりも是非、定数の削減やりましょうよ」と発言し、野党からの批判を浴びた。
そして12月、「議員定数削減法案」が自民・維新により共同提出されたものの、審議入りすらせずに国会は終了し、高市首相が今年1月23日に衆議院を解散し、同法案は廃案となった。本稿執筆時点(1月末)で、衆院選の結果は見えないが、歴史的節目の選挙になるかもしれない。
興味深いデータがある。1月の時事通信による世論調査では、解散された通常国会で「議員定数削減」の実行を望む声が56.1%(反対は15.7%)あった。日本国民の大半が議員の数を減らしたいと強く願っていることは間違いなく、今後も議員定数が政治争点として取り上げられる可能性は高いだろう。
だが、「定数削減」という分かりやすいゴールの是非や実現の可否に終始することは望ましくない。議員の数が削減されると、日本の政治や社会にどのような影響があるのか。議員自らが「身を切る」ことは、何をもたらすのか。目指すべき政治の改革とはどのようなもので、それは本当に「削る」ことによって達成されるのか。眼前の政局に目を奪われそうな今だからこそ、やや長い視座で過去をひもとき、この問題を考えてみる必要がありそうだ。
第一帝国議会が開設された1890(明治23)年、衆議院議員の定数は300であった。以降、1900年に第二次山県有朋内閣が大選挙区制を導入した際に369となり、25(大正14)年の護憲三派内閣(第一次加藤高明内閣)による男子普通選挙法では466となった。選挙制度に大きな変更があるたびに、有権者の数とともに議員の総数も増やされてきた。
それでは、最初の議員定数「300」は、どのように決定したのか。
詳細は分かっていないが、政治学者の上條末夫(「議員定数の論理」)によると、およそ人口12万人につき1人の議員とする計算があったことは知られている。
明治期の日本は諸外国の事例や実情、ドイツの法学者ロエスレルら外国人の意見を参考にしながら、定数の基準を定めた。そして人口が増えるに従い議員の数も増やすのが当然とされ、制度変更のたびに漸増した。
戦時下(翼賛議会)においても定数は減らず、公職選挙法が制定された戦後も、人口増加や都市農村人口のバランスなどに配慮して、議員定数は512まで増やされた。
それまでと全く異なる論理が登場するのは、平成の政治改革である。
89年に自民党が「政治改革大綱」を作成し、政治家の倫理の欠如、政治資金の不透明さ、不合理な議員定数・選挙制度などの課題を指摘して、議員定数を471に削減するとの目標を掲げた。
実際に定数が削減されたのは、94年の政治改革関連法によるもので、衆議院の選挙区制度が中選挙区から小選挙区比例代表並立制に変えられるとともに、500(小選挙区300、比例代表200)の定数が決定された。
その後も定数の減少傾向は続き、2000年には比例20議席、17年には15(小選挙区11・比例4)議席が削減され、現在の定数は465である。とくに最新の改定では、最低でも県に1人の議員を確保することで配慮しながらも、人口と一票の格差是正を重視し、定数を計算式に委ねるアダムズ方式が導入されている。