世界遺産に輝く「石舞台古墳」 2300トンの巨石が露出する理由とは

2026.08.10 Wedge ONLINE
 7月26日に正式に世界遺産登録が決定し、注目を集めている「飛鳥・藤原」。古代に宮都が繰り返し営まれたこの地を象徴する石舞台古墳は、石室がむき出しになった姿で知られ、蘇我馬子の墓とされる。封土が失われたことで天井石が露出したその姿は、古代の権力者の威容を今に伝えている。石舞台古墳が示す、飛鳥時代の権力と技術の秘密とは——。

*この記事は、瀧音能之編『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』(ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。
墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状(著者撮影)

石室がむき出しになった古墳

 推古天皇34年(626年)、初期の飛鳥朝を支えた蘇我馬子が亡くなった。馬子の生年は明らかではないが、平安時代末期の『扶桑略記』は享年を76とする。

 『日本書紀』によると、彼の亡骸は「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られた。この桃原墓に比定されているのが、石室を構成する巨石がむき出しになっていることで有名な石舞台古墳で、飛鳥川東岸の台地上に立地する(正確にいうと、飛鳥川と支流冬野川の合流点付近の東側)。

 昭和8年(1933年)を最初として何度か発掘調査が行われている。それによると、1辺約50メートルの方形の基壇をもつ2段方墳もしくは上円下方墳で、花崗岩の巨石からなる横穴式石室は全長約19メートルと、日本有数の規模をもつ。石室の骨組みをなす30数個の巨岩の総重量は2300トンで、2石からなる天井石の南側の1石は77トンと推定されている。築造には優れた土木・運搬技術を要しただろう。

石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m(著者撮影)

 石室内は早くから盗掘されていたため石棺や副葬品類は不明だが、石室の内外から鍍金金具や多量の土器類が出土している。また、基壇の周囲には幅約12メートルの堀がめぐらされ、さらにそれを外堤が取り囲んでいる。

 築造当初は石室は封土によって覆われ、墳丘が形成されていたとみられている。ところが、しだいに封土が失われてゆき、セミの抜け殻のように、石室だけが天井石を露出させて残されたのである。

群集墳を破壊して築かれた

 巨石が露出した石舞台古墳は、江戸時代には巨大な岩屋という意味で「石太屋(いしぶとや)」と呼ばれていたらしい。それが訛ってイシブタイと呼ばれるようになったらしいが、「狐が女に化けて石の上で舞を見せた」という呼称由来伝承もある。

 明和9年(1772年)にこの古墳を訪ねた本居宣長は案内人に「推古天皇陵」と説明され(『菅笠日記』)、幕末の『西国三十三所名所図会』には天武天皇の殯宮(ひんきゅう)の古跡として紹介されているが、津川長道の『卯花(うのはな)日記』(1829年)では「馬子の墓ではないか」と指摘されている。

 明治に入ると、考古学・民俗学・古代史の分野で先駆的な研究を行った喜田貞吉が細かい考証を行って石舞台古墳を馬子の「桃原墓」に比定する説を唱え、これを契機として、「石舞台古墳=馬子の墓」説が定説化した。またこれに伴い、石室が露出しているのは、天皇家をおびやかした蘇我氏の逆臣的な行為を懲罰するために封土が剥ぎ取られたのだ、という説もよく唱えられるようになったらしい。

 とはいえ、被葬者を馬子と確定する決定的な証拠はまだ見つかっていない。しかし傍証は少なくない。たとえば、『日本書紀』舒明天皇即位前紀には、馬子の墓の築造にあたって蘇我氏の同族がすべて集まり、「墓所の廬(いお)」をつくって宿営していたという記述があるが、これに符合するように、古墳東の棚田に築造時の工事宿舎跡とみられる遺構が確認されている。

 さらに注目されるのは、昭和50年(1975年)の発掘調査で、古墳築造に際して削り取られたとみられる6世紀代の小円墳7基が検出されたことだ。このことは、巨大な石舞台古墳が6世紀の群集墳を意図的に破壊したうえで築造されたことを示しており、被葬者が強大な権力をもっていたことを物語る。時代と地理を踏まえれば、その被葬者の姿には、やはり蘇我氏全盛期を到来させた馬子がもっともふさわしい。

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