日本人を縛る「成長する人=偉い」という思い込み

「成長しなけばならない」という強迫観念から自由になれば、死の恐怖すら克服できる道が拓かれる可能性があるといいます(画像:kelly marken / PIXTA)
イギリスのロボット科学者であるピーター・スコット-モーガン博士は、全身の筋肉が動かなくなる難病ALSで余命2年を宣告されたこと機に、人類で初めて「AIと融合」し、サイボーグとして生きる未来を選んだ(詳しくは「人類初『AIと融合』した61歳科学者の壮絶な人生」参照)。
「これは僕にとって実地で研究を行う、またとない機会でもあるのです」
人間が「AIと融合」するとはどういうことか。それにより「人として生きること」の定義はどう変わるのか。AIと人が分かちがたく結ばれたとき、なぜ「死」の概念が消えるのか。AIと人類の関係を根本から問い直す問題作と世界で発売直後から話題騒然の『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン――究極の自由を得る未来』が、ついに日本でも刊行された。
前編に続き、本書を「世界の見方をアップデートする『本物の教養の書』」と語る作家・ジャーナリストの佐々木俊尚氏の見解をお届けする。

VRの世界と成長信仰

『ネオ・ヒューマン』では、最終的にAIと融合した著者のピーター・スコット-モーガンと、恋人フランシスだけが登場する、VRで作られた楽園の世界が描かれています。そして、そこに生きていることは、幸せなのだろうかという論点があります。

『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン――究極の自由を得る未来』(画像をクリックすると、特設サイトにジャンプします)

VRの世界では、その登場人物を自分で決めることができてしまいます。そして、AIで作られたパーソナリティには、「今の瞬間」しかなく、成長しません。時間の認識がありませんから、今日も、明日も、100年後も同じということになります。

その成長のない瞬間にとどまって、好きな人と毎日ランチを続けているのが幸せなのか、何の変化も成長もないのは不幸ではないか。そう感じる人もいるでしょう。

しかしここには、私たちが「成長しなければならない」という強迫観念、神話に囚われているのではないか、という問題があります。

2000年代は、終身雇用が崩れ、新自由主義的なジャングルのなかで成長しなければならないという時代でした。しかし、昭和の時代は、その体制に批判はあっても、普通の人が平凡に暮らして、一戸建てを建てることができたわけです。

そして、ああいう時代をもう一度つくったほうがいいのではないかという議論は、常にあります。無理して成長しなくても、平穏でいられる社会になってほしい、ゴールはなくても今を維持できればいい、低成長でも持続できればいいという感覚もあるわけです。

若い世代の起業家にも、そのような感覚の人が増えています。かつては上場して世界一を目指すというのが一般的でしたが、今は無理して成長するよりは、価値を共有できる仲間と一緒にやっていきたいという感覚なのです。それは決して悪いことではありません。

VRの世界観は、こういった価値観に回帰しつつある現状と相性がいいのではないかと思います。いまこの瞬間が持続して、閉じた時間のなかで生きてゆけることが幸せなのだ、と。『ネオ・ヒューマン』のラストシーンは、その象徴かもしれません。

究極の自由=閉じた世界に生きること?

最近「自由」という意味も変化してきたと感じます。かつての「自由」は「解放」でした。しかしいまは、「自由」であることが逆に「抑圧」になっています。

佐々木 俊尚(ささき としなお)/ジャーナリスト。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。毎日新聞記者、『月刊アスキー』編集部を経て、2003年よりフリージャーナリストとして活躍。ITから政治、経済、社会まで、幅広い分野で発言を続ける。最近は、東京、軽井沢、福井の3拠点で、ミニマリストとしての暮らしを実践。『レイヤー化する世界』(NHK出版新書)、『そして、暮らしは共同体になる。』(アノニマ・スタジオ)、『時間とテクノロジー』(光文社)など著書多数(写真:筆者提供)