精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れ

 生母とは無理やり生き別れとなり、さらに尾張、駿河における人質生活は、付き従っている家臣はいたであろうが、少年時代の家康にとっては心休まらないことが多かったであろう。父親の死に目にも会えていない。精神的に不安定になることや、ぐれてしまわなかったことが不思議である。

 こうしたなかで稀なことと感じられるのは、桶狭間の戦いの後に岡崎城に帰還した家康が、ためらうことなく織田家の同盟者となり、その後20年以上にわたって律儀に同盟関係を維持した点である。

十代の後半から壮年時代まで、戦闘に明け暮れた家康

 ドラマや物語に登場する家康は、主役であることは比較的少ない。大河ドラマなどにおいても、重要な役割を担っているが、他の登場人物と対抗する勢力として描かれることが多い。

 家康その人に焦点を当てた作品としては、隆慶一郎氏のベストセラー小説、『影武者 徳川家康』(新潮社)が挙げられる。

 この作品は家康の影武者が主人公で、関ヶ原の戦いで家康は暗殺されて影武者が入れ替わったという設定になっているが、前半部分では、「本物」の家康が登場している。

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1989年に発表された、隆慶一郎による小説『影武者 徳川家康』(新潮社)。画像は新潮文庫版。

 この小説に描かれた家康像は、多くの人が抱いている「狡猾で老練」なイメージとは異なっている。数々の激戦を制してきた力強い荒武者としてのイメージが強く印象づけられるものである。

 事実、家康は大名ではあったが、多くの戦闘を先頭に立って制してきたし、ほとんど戦に負けるということを知らなかった。唯一の例外を挙げれば、信玄が率いる武田勢の大軍に、三方ヶ原の戦いで大敗を喫したことくらいである。

 家康の初陣は15歳、桶狭間の戦いに参戦したのは若干17歳のときである。20歳のときには領内に一向一揆が起こり、多くの部下の武士が一揆側に加担したため、苦戦を強いられたがこれを制圧した。

 27歳、信長の戦いに援軍として参加し、浅井、朝倉勢と戦う。これ以降は、甲斐の武田信玄との争いが続き、三方ヶ原の戦いで大敗したが、信玄の死去により、再び攻勢に出る。

 その後、高天神城の戦い、長篠の戦いなどの合戦で、信玄の後継者である武田勝頼を破るが、1582年、家康が39歳のときに、本能寺の変が勃発し、織田信長が命を失ったのだった。

 このように十代の後半から壮年時代まで、家康は戦闘に明け暮れていたのだった。

家康は、秀吉に合戦で勝利した数少ない武将

 家康の戦上手は、本能寺の変の後における秀吉との覇権争いにも発揮された。山崎の戦いにおいて明智光秀をたおした秀吉は、みずから信長の孫にあたる三法師の後ろ盾となり、政権の奪取をうかがった。これに対して、信長の重臣である柴田勝家や、信長の三男である織田信孝は反旗をひるがえしたが、いずれも秀吉に滅ぼされてしまう。

 一方、次男である織田信雄は家康と同盟を結び、秀吉と本格的な戦闘が開始された。これが小牧・長久手の戦いである。この合戦は戦闘員の数としては秀吉軍がはるかに上回っていたが、持久戦となり、焦った秀吉軍の一部を局地戦で家康・信雄軍が殲滅するという局面も見られている。完全勝利とはいえなかったが、家康は秀吉に合戦で勝利した数少ない武将なのである。

 このように「海道一の弓取り」として名を上げた家康であったが、実は文化人としての顔も持っていた。家康は古典の愛好者であり、古い資料を収集して駿府城に「駿河文庫」を作り、多くの蔵書を所蔵していた。実は家康は、多方面に造詣の深い文化人でもあったのだ。

【参照】笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』宮帯出版社