松岡修造の兄、東宝社長に就任……“宝塚をつくった曽祖父”小林一三と松岡家の稀代の歴史

 一三は資金をかき集め、1907年に箕面有馬電気軌道の創設にこぎつけた。筆頭株主・北浜銀行の代表として岩下清周が社長に就任し、一三は専務となり実務を担った。そして、沿線の池田新市街地の宅地を造成し、《売値の20%を頭金としてもらい受け、その残りは10年分割の月賦》方式で販売した。これが見事に当たり、大反響を巻き起こした。さらに豊中、桜井などの住宅地を順次販売し、大成功を収めたのである。

 箕面有馬電気軌道の経営は、しばらく岩下―小林コンビが担っていたが、1914年に北浜銀行が取り付けにあって、頭取・岩下清周が財界から引退、箕面有馬電気軌道の社長も辞任した。一三と北浜銀行の新頭取はソリが合わず、一三は同行所有の株式を買い取って大株主として実権を握り、1927年に社長に就任した。

 ちなみに、箕面有馬電気軌道は1918年に阪神急行電鉄と改称し、1943年に旧京阪電気鉄道を吸収合併して、京阪神急行電鉄と改称(1949年に京阪電気鉄道の路線を分離)。1973年に阪急電鉄と改称した。

「温泉地の催し物」として始まった宝塚歌劇、「東京の宝塚」としての“東宝”

 先述した通り、一三は鉄道経営だけでなく、宝塚歌劇団東宝、阪急百貨店(現 阪急阪神百貨店)を創設している。実は、これらも鉄道経営の延長にあった。

 一三は箕面有馬電気軌道の終点・宝塚が温泉地であったことに目を付け、大規模娯楽施設を設立することで乗客を増やす作戦を思いつく。「需要のあるところに鉄道を敷くのではなく、鉄道を敷いてからその沿線に需要を作ればいい」の応用パターンである。

 一三は宝塚の東側(武庫川東岸)を買収し、1911年に「宝塚新温泉」を設立。大理石の大浴場ときれいな家族温泉を作り、人気を博した。

 また、新温泉のなかに室内水泳場や動物園を作り、催し物を行って集客に努めた。その最高傑作が、「宝塚唱歌隊」(現在の「宝塚歌劇団」)である。

 当時、大阪三越が始めた少年音楽隊が一世を風靡していた。一三は宝塚新温泉地の余興として、少女の唱歌隊を結成したらどうかと思い立った。かくして1913年に「宝塚唱歌隊」を設立したのだ。

 さらに宝塚歌劇団の東京進出を計画し、1932年に株式会社東京宝塚劇場を設立。有楽町に劇場を建設して東京公演の拠点とした。東京宝塚劇場は映画の興行を開始し、東宝映画を設立。1943年に東京宝塚劇場と東宝映画株式会社が合併し、東宝となった。意外にも、東宝という社名は「宝塚歌劇団の東京拠点」という意味だったのである。

 東宝は戦後に『七人の侍』『ゴジラ』『天国と地獄』や植木等の『無責任男』、加山雄三の『若大将』シリーズなどの大ヒット作を連発。映画全盛時代を謳歌するが、テレビの登場で斜陽を迎える。東宝は単独でテレビ局設立を目論むが認可されず、フジテレビへ出資するにとどまった。こうした関係から、東宝のトップはながらくフジテレビ取締役を兼務し、親密な関係を維持。テレビ局とタイアップして『踊る大捜査線 THE MOVIE』などドラマの映画化で大きな興行収入を挙げている。

 また、阪急百貨店の設立は「交通の便がよい鉄道駅に百貨店を併設すれば、儲かるに違いない」という発想がもとになっている。いまでこそ、駅に繋がるターミナル・デパートの存在は当たり前だが、百貨店が都心部にあった当時は、自動車で駅から百貨店へ送迎迎するのが一般的だったようだ。そこで、一三は1925年に日本初のターミナル・デパート「阪急マーケット」(のちの阪急百貨店)を開業、大成功を収めた。

 ちなみに一三の東京の弟子が、東京急行電鉄の創業者・五島慶太(ごとう・けいた)で、東急も師に倣うように東映、東急百貨店を設立している。