捨てられた悪役令嬢は、自由を買いたい!

萩月

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 ガタゴトと揺れる馬車の窓から、遠ざかる王宮の灯りを眺める。

 スゥは手元の手帳に、今日一日の「損失」と「回収見込み額」を素早く書き込んでいた。
 婚約破棄という不測の事態(実際には予測の範疇だったが)により、スケジュールに若干の狂いが生じたのは否めない。

「……予定より帰宅が十五分遅れますね。明日の起床時間を三・五分早めて調整しましょうか」

 独り言を呟いたその時、馬車が急ブレーキをかけた。
 慣性の法則に従い、スゥの体が一瞬前に投げ出されそうになる。

「……御者。現在の減速Gは、私の許容範囲を三割ほど逸脱しています。不適切な制動の理由を述べなさい」

「も、申し訳ございません、お嬢様! ですが、前方に、その……!」

 御者の焦った声と同時に、窓の外から聞き覚えのある、鈴を転がすような(ただしスゥにとっては不協和音にしか聞こえない)声が響いた。

「スゥ様! 待ってください! 行かないで!」

 スゥは無表情のまま窓を開けた。
 そこには、息を切らし、目に涙を溜めたミィナが立っていた。
 背後には、彼女を守るように剣を帯びた騎士が数人、困惑した顔で控えている。

「ミィナ様。夜間に馬車の前に飛び出すという行為は、自身の生存確率を著しく低下させるだけでなく、こちらの走行スケジュールを阻害する重大な過失です。……で、何のご用でしょうか。十秒以内で要約してください」

「スゥ様……! あんな、あんなひどい契約書、取り消してください! リュカ様はあんなに苦しんでいらっしゃるのに、貴女はどうして、そんなにお金のことばかり……!」

 ミィナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
 周囲の騎士たちが「なんて健気な……」という視線を送るが、スゥの心拍数は一拍たりとも乱れない。

「……三、二、一。はい、十秒。要約すると『感情論による契約破棄の強要』ですね。却下いたします」

「どうして!? お金なんて、ただの道具じゃないですか! 愛さえあれば、どんな困難も乗り越えられるって、リュカ様も仰っていました! 貴女には、人の心がないのですか!?」

 スゥはゆっくりと馬車から降りた。
 地面に立つと、ミィナの「悲劇のヒロイン・モード」を冷徹に観察し始める。

「ミィナ様。貴女が今流している涙の主成分は、九十八パーセントが水、残りの大部分が塩化ナトリウムです。感情によってこれを体外に排出する行為は、体内の水分バランスを崩すだけで、一リブラの経済的価値も生み出しません。極めて非効率な排泄行為です」

「は、排泄……!? なんてことを……これは、私の悲しみの証なのに!」

「悲しみの証、ですか。ではお聞きしますが、その『悲しみ』で、明日のパンが買えますか? その『愛』で、国境を守る兵士たちの給料が払えますか? 殿下が私に支払うべき慰謝料は、もともと公爵家が王家の不手際をカバーするために支出した『授業料』のようなものです。それを返せと言うのは、食い逃げを推奨するのと同義ですよ」

「それでも……! 愛は尊いものです! お金よりもずっと……!」

「ミィナ様。貴女の言う『愛』は、常に変動する不確実な相場商品です。今日は高く売れても、明日は暴落するかもしれない。一方、金貨は裏切りません。金貨一〇〇枚は、百年後も金貨一〇〇枚の価値、あるいはそれ以上の価値を維持します。私は、いつ消えるか分からない『王子の熱情』というバブルに投資するほど、愚かではないのです」

 ミィナは絶句し、震える指でスゥを指差した。

「貴女……貴女は、リュカ様を愛していなかったのね!? ただ、王妃の座という利益が欲しかっただけなのね!」

「訂正してください。王妃の座は『利益』ではなく、膨大なタスクと責任が伴う『コストの塊』です。私は、そのコストに見合うだけのリターン――つまり、国を効率的に運営し、富を増大させるというゲームを楽しもうとしていただけです。愛だの恋だのというノイズは、業務の邪魔でしかありません」

 スゥは一歩、ミィナに歩み寄った。
 夜風にスゥの銀髪が揺れる。その美しさは、冷たい氷の彫刻のようだった。

「ミィナ様。貴女はこれから、殿下の隣でその『尊い愛』とやらを存分に謳歌なさるがいい。ただし、王宮の維持費、ドレス代、お茶会の費用……それらすべてが『数字』で構成されていることに気づいた時、貴女の愛が何キロカロリーの熱量を持って対抗できるか、非常に興味がありますね」

「……っ、私は、私は負けません! リュカ様と一緒に、温かい国を作ってみせます!」

「期待せずに見守っておきます。ああ、そうだ。この立ち話で消費した私の五分間。……あちらの騎士様。後ほど公爵家から『路上相談料』の請求書を送りますので、ミィナ様の個人口座から引き落とせるよう手配しておいてください」

 後ろに控えていた騎士の一人が「えっ、俺!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「それでは、ミィナ様。夜道は冷えます。風邪を引いて医療費を無駄遣いしないよう、早急に帰宅されることを推奨いたしますわ」

 スゥは優雅に、そして迅速に馬車に戻った。
 扉が閉まる音と共に、ミィナの泣き叫ぶ声が遠ざかっていく。

 再び走り出した馬車の中で、スゥは手帳を開いた。

「……さて。愛という不確定要素を排除したことで、私の人生のポートフォリオは劇的に改善されました」

 彼女は、暗闇の中でキラリと光るペン先を走らせる。

「次は、この慰謝料をどこに投入するか、ですね。……王立銀行の金利よりも、新興の魔導具ギルドに投資した方が、長期的な利回りは高いでしょうか。……ふふ。計算が止まりませんわ」

 愛よりも金、金よりも効率。
 スゥ・ル・ブリリアントにとって、世界はこれほどまでに美しく、単純な数式で満ちていた。
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